カンタベリー物語
カンタベリー物語
序
本稿では『カンタベリー物語』の「学僧の話」と「商人の話」の女性描写を取り上げ、比較検討する(注1)。『カンタベリー物語』は、チョーサーの生涯では最後の15年の円熟期に書かれたものである(注1)。ここで見られる女性描写は対照的な人間のあり方、すなわち、「清純さ」と「欲望・非理性」が描かれているからである(注2)。
1.「学僧の話」
「学僧の話」は、女性の美徳の代表ともいうべきグリゼルダの話である(注2)。サルッツォー地方にある侯爵が臣下に勧められて、宮殿からそれほど遠くない場所にある小さな村の貧しい男の美しい娘を迎えたが、絶対服従での結婚であった。その侯爵は非常に嫉妬深く、妻の愛情を試す話である。「学僧の話」のグリゼルダは、親孝行で慈愛深く、子供と引き裂く、追放するなど次々に侯爵の夫の無理難題も受け入れている(注3)。ここでは、非常に嫉妬深い、しかも残酷な夫を描いている点が特徴的である。宮城音弥編(1979)『岩波心理学小辞典』の「サディズム」の項目では、「相手に苦痛を与えることによって、性的満足を感ずる異常性欲。ときには、一般的に残酷への傾向をいう」(p.83)とある。この記述に従えば、この残酷な夫の行為はサディズム的だと言えるであろう(注4)。
2.「商人の話」
「商人の話」は、グリゼルダの話とは正反対の、女性の浮気の物語、不徳きわまりないマイの話である。「商人の話」の前口上で、商人は直前の「学僧の話」にも触れ、以下のように述べている。
グリセルダのような忍耐強い女と、残酷きわまるおれの女房とは比較になりゃしねえ。大変な違いだ。・・〈中略〉・・一生女房をもたねえ男が、心を二つにさかれたところで、その苦しみなんざ、罰あたり女房をもったおれの苦しみにくらべたら、ものの数でもありゃしない。(p.348)
商人は、「学僧の話」に比べて、自分の妻が悪妻のため苦しむ心境を示している。ここには、「学僧の話」での以下の前口上への対抗意識がよく表れている。
この話は、イタリーのパドゥアで、立派な文章で作品を残している偉い学者からきいた話じゃ。今はもう死んで地下に埋葬されてござるが、わしはここでその方の冥福を祈ってからはじめるよ。この学者は、フランセス・ペトラルクという桂冠詩人で、美しい修辞法で書いた詩をもって、全イタリーを光栄あらしめた方だ。(p.306)
妖精の国王プルートのおかげで、盲目になった老騎士も目が見えるようになった際、マイは何の罪悪感すら感じることなく、目が完全に治っていないからダミアンとの姦通が見えるのだと堂々とごまかすのである。そこには妖精の国王の登場によって、純粋で穢れのないイメージの妖精と、罪の意識などなく、ごまかすことを考える、いわば穢れのイメージを喚起するマイとを対照的に浮かびあがらせるために登場していると考えたい。このように、「学僧の話」のグリゼルダと「商人の話」のマイ、同じ「商人の話」の中での妖精とマイという構図で人間の清純さと不道徳性が引き立てられていると捉えたい。松田隆美(2019)は、エデンの園のアダム、エヴァ、蛇にそれぞれ、老騎士ジャニュアリ、マイ、密通相手のダミアンを当てはめて構図化している。そして、マイの言い逃れによって誰も楽園から追放されないと解釈している(p.87)。その点では、この話は、マイという俗物的な人物の登場によって、混沌とした現実の世相を反映することに成功していると考えることもできる。
3.グリゼルダとマイとの比較
このように、「学僧の話」のグリセルダ、「商人の話」のマイとは対照的に描かれている。夫の性質も嫉妬深いという点では共通するが、一方は侯爵の臣下の勧めによる結婚で懐疑的、もう一方は老いた騎士の自発的に結婚を望んだ末の溺愛である。
「学僧の話」は語り手が「未婚の学僧」であり、「清純さ・道徳性・親孝行・勤労・貞節・謙譲の美徳・嫉妬深い夫に絶対服従」のグリセルダ、「商人の話」は語り手は「既婚の商人」であり、「欲望・不道徳性・奔放・姦通・罪悪感の欠如・嫉妬深く老いた夫を翻弄」するマイ(注5)、このようにこの二話に描かれているグリゼルダとマイについて対照的に捉えることができる。
結
以上、『カンタベリー物語』の「学僧の話」と「商人の話」に描かれている女性を取り上げた。語り手の聖俗の違い、侯爵と老いた騎士の対比を背景として、それぞれの妻であるグリゼルダとマイの性質を述べた。グリゼルダに対するマイ、妖精に対するマイという、「清純さ・道徳性」と「欲望・不道徳性」の対立で描かれていると捉えたい。この二つの話は、斎藤勇(1984)の以下に述べるテーマで統一できそうである。
The Canterbury Tales に現れた世界は、多少の局部的混乱があるにせよ、全体としては秩序整然たる道徳の世界である。(p.51)
このように「秩序整然たる道徳の世界」と考えれば、統一して考えることができるのではないだろうか。グリセルダと妖精に対してマイを登場させ、語り手も一方は学僧、もう一方は商人という設定を行っている。
厨川文夫(1976)は、チョーサーの喜劇精神を指摘し(p.173)、「CHAUCERの初期の詩から、Troi and Criseyde を通って The Canterburu Talesへと作者の成長を見てくると、最初は重心が書物にかかっていたのが、次第に人生に移ってくる。書物は次第に前景から後景へ後退し、舞台には人生が躍動するようになる」(p.174)とチョーサーの自画像としての視点で述べている。「学僧の話」と「商人の話」にも、それぞれの生き方・価値観・思考などが表れており、「人生の躍動」を感じさせるのではなかろうか。
注
1
最初に指摘したのは、Skeat(1901)である。
2
テキストは、西脇順三郎訳(1972)『カンタベリ物語』筑摩書房【テキストは、『筑摩世界文学全集12』の文庫版(1987)】を使用する。
3
松田隆美(2019)は、「支配と和解」(p.101)を主題とし、「グリセルダの美徳は、ペトラルカやチョーサーにおいてはジェンダーに限定されない普遍的なものであったが、15、16世紀のグリセルダの話では家庭内や夫婦間の実践的な美徳へと矮小化されている」と述べている(p.113)。
4
西脇順三郎(1972)は、以下のように述べている。
この話では最大に嫉妬深い残酷な夫を描いている。今日の精神分析からすれば、サディズムの男とされるだろう。要するに愛をためすことは危険である。(p.432)
5
松田隆美(2019)は「商人の話」を論者とは異なり、「文学的アリュージョンや大げさな修辞的文体を次々と過剰に用いた暑苦しい話で、ファブリオ的なプロットとの齟齬によって笑いを誘う」(p.82)と述べている。
(参考文献)
斎藤勇(1984)『カンタベリ物語』中央公論社(pp.45-54)
チョーサー(西脇順三郎訳1972訳)『カンタベリ物語』筑摩書房【テキストは、『筑摩世界文学全集12』の文庫版(1987)】
松田隆美(2019)『チョーサー カンタベリー物語-ジャンルをめぐる冒険』慶應義塾大学出版会
F.J Furnnivall(ed.),The Six-Text Edition of Chaucer`s Caunterbury Tales.
Skeat,W.W.ed.The Cmplete Works of Geoffrey Chaucer. Oxford,1901
学力を考える
1.学力とは何か
「学力とは何か」について考える。一般的には、学力とは、多くの知識を得ることだという、日本型学校知識の認識がある(注1)。また、学力は、学校知識とほぼ同義で使用されることもある。
学校の知識秩序の特性としては、主に三つあげることができる。第一に「教科・科目への区分」があげられる。各々の知識が本来生産されたり、活用されたりする学問・芸術・文化の諸領域におおまかに対応する形で区分されており、どの国でもほぼ、「言語(自国語と外国語)、数量、自然科学、社会科学、芸術(音楽・美術など)、保健・体育、技術など」で構成されている。第二に「順序性をもったカリキュラム」をあげることができる。学年の順序、学年の単元の並び、毎時間の課題として順序性を持っている。それらは学習者にとっての「学ぶ道筋=カリキュラム」として区分と秩序をもった体系をなしている。第三に「規範化する知識」をあげることができる。知識は本来的には規範ではないのであるが、学校知識は、テストや成績という形で、学習者に規範化を迫るという特徴を持つ。
久冨善之(1999)は、学校知識を「現代社会で、子どもたちが学校制度を通じて、学ぶように要求され、実際に学び、その習得の程度を評価される、そのような知識群」だと述べている。それに対して小澤浩明(2008)は、学校内部の格差要因として、日本型学校知識の克服の必要性を述べている。日本の学校知識は、それを学ぶ者に要素還元的、手続き的、断片的知識を吸収し、記憶し、正確に再現することを強く要請する点で、「要素的学力観」をともなったバーンスティンのいう、「寄せ集めコード」(要素主義的寄せ集めコード)であると性格づけられる。つまり、「意味や意義が見出せなくても、可能なかぎり数多く取り込んでおけば、いつかは役に立つ」といった知識観・学力観のことである。この学力観は、学ぶ意義や効能を実感しにくく、知識を可能なかぎり多量に収集・記憶することを迫る。そして、教科知識と自らの着想を結び付けて認識世界を広げ、深める機会から多くの子どもたちを疎外してしまっている。
すべての階層にとっては、「異文化」であった西洋の科学・文化知識の大量かつ効率的な伝達を緊急の課題としていた近代日本の学校は、子どもたちの学習状況を日常的に点検し、獲得された知識の量や程度を測定し競わせる仕組みを取り込んだ。この要素的学力観が、学校制度の担い手と利用者に浸透し、教師・父母・子どもたちの意識に刷り込まれ、職業世界における将来の地位を保証する象徴的な交換価値としての学力(=「学歴」)の価値が高まった1960年代以降には職業世界における人物評価基準にも深く浸透し、学力・学歴獲得競争を激化させた。
この流れに対して「ゆとり教育」とは学校知識の性格転換を行うものであったと考えることができる。「ゆとり教育」は、1990年代になってから、画一的・競争的性格からの転換を狙って、一連の施策が本格的に打ち出されていった。本田伊克(2008)は、このことを「バーンスティンが指摘する学校知識の統合コード化という動向が具体化したかたちの一つである」と述べ、さらには「ゆとり教育撤回」についても、「(再)寄せ集めコード」としている(注2)。この背景には、経済界からの受験によって培われた学力批判、新自由主義的な学校教育のスリム化・多様化の要求、競争主義・管理主義的な学習環境が子どもの発育にもたらす影響への対応などが、複雑にもつれあって存在しているといえる。
1999年に『分数のできない大学生』『少数のできない大学生』(東洋経済新報社)の刊行、受験競争復活と強制的学習の強化を提唱する和田秀樹(精神科医)の提言などが契機となって、学力論争が起きたと言われている。また、藤原幸男(2003)は学力の一部をテストで測定するものであると定義づけている。学力調査を考えたとき、国際学力と国内学力の調査結果を比較することは重要である。国際学力としては「PISA」、国内学力としては「教育課程実施状況に関する総合的調査」「全国学力調査」がある。特に、PISAについては、国際的なものであるため、重視しているようである。本田伊克(2008)は、「科学的リテラシー」調査結果を以下のように読み取っており、日本の子どもたちの学力の弱点や歪みを指摘している。
〇公式をそのままあてはめるような設問には強いが、身の回りのことに疑問をもち、それを論理的に説明するような力が弱い。
〇自分で問題を設定し、解決方法を考える力が弱い。
〇科学に対する興味・関心・意欲が低く、「科学についての本を読むことが好き」「科学に関するテレビ番組をみる」「科学に関する雑誌や新聞の記事を読む」と回答したものの割合は参加した57カ国・地域中最下位。
学校の科学が子どもたちの認識・行動枠組みのなかに組み込まれ、骨肉化したちしきとして獲得されることを妨げているものは何かということが問題点としてあげられる。
社会学的な見地からの学力と階層という視点に注目してみたい。苅谷剛彦(2012)は、学力と階層に注目し、綿密な調査をもとに階層ごとの違いを報告している。この中で、階層に応じた家庭環境の影響、基本的習慣が強まり、学校での授業の効果の弱まりが指摘されている。この調査から、学習意欲の衰退傾向の克服という課題、指導方法や評価方法の開発以外に、学力格差が子供の所属する家庭(社会階層)の格差に大きく影響されていることが新たな課題として浮上した。
これに対して金子真理子(2008)の学力の階層差の調査では、多少結論が異なっている。金子真理子(2008)の調査は、小学校1から6年生の範囲で基本的な算数のテストで行い、その結果から以下のように述べている。
父大卒層の児童は、父非大卒層の児童に比べて、基礎学力における初期的優位性を示しており、努力が少なくても一定の学力が保証されている。一方、父非大卒層は、努力を媒介とすることによってはじめて、高学歴層の学力水準に近づく。つまり、両者が同じ学力に到達するためには、父非大卒層の児童のほうがより多くの努力を必要とする。・・〈中略〉・・父大卒層の児童は、学習時間が少なくても一定の学力が保証されており、学習時間の量による学力差が小さいからともいえる。ただし、父非大卒層だけでなく父大卒層も含めて全体的に、問題の配当学年すなわち問題の難易度が相対的に高まれば高まるほど、学力に対する努力の効用は高まる。
この調査は、あくまで算数で行ったものであり、国語・英語の調査も必要であろう。しかし、現状の「詰め込み教育」とされる「学力」で計測したときに、階層差が生じていることは事実として言えるが同時に、「努力の効用」も言える。「生きる力の育成」という点を計測するのは難しい現状であるが、「学力」を考える上でも、階層差という格差問題は大きな要因であることを如実に示すものであり、慎重に学力を考える必要があると言える。
しかし、学力をこのように能力主義的なものだけで考えてよいのであろうか。戦前と戦後の社会構造の変化を考える必要がある。戦前の日本では軍隊の指揮命令系統の徹底や武器使用のためには、ある水準以上の学力が求められたという点に由来している。本来の学力は、生きていくために所属する共同体から要求されるものと考えることができる。しかし、戦後の日本では、潜在能力や諸能力の広がりによる人間性形成全体を重視するほうがよいのではなかろうか。知能指数(IQ)のほかに、心の知能指数(EQ)も提唱されている現状をみると、近代の能力主義(メリトクラシー)の考え方による学力観には限界があるのではなかろうか。
注
1
学力とは何かを改めて文部科学省の見解をみてみたい。文部科学省の見解としては、「学校教育法」第30条2項目で示されている。そこでは、「学力の三要素」として打ち出されている。以下の項目が文部科学省のホームページに掲載されている。
(1)基礎的、基本的な知識・技能。
(2)知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力等。
(3)主体的に学習に取り組む態度。
2
本田伊克(2008)は、以下のように述べており、従来の学校知識について否定的見解を示している。
日本の場合を含めた学校知識、特に初等・中等のそれは、基本的にはバースティンのいう「寄せ集めコード」としての性格をもつ。寄せ集めコードは強い「分類」および「枠づけ」をともなうものである。
2.学力の問題点-学力低下を考える-
学校知識は、選択・再編成の過程で、諸知識がそれぞれ生み出され、流通し、新しい世代に継承され、発展するもともとの文脈から切り離され、その習得にともなう様式や関係においてまったく性格を異にする知識として生まれ変わったものである。また、「画一的・没個性的・敵対的競争主義的な業績原理」といった近代学校で支配的だったものへの反発が「ゆとり教育」だったとも言える。バーンスティンの用語では、「寄せ集めコード」から「統合コード」への流れが具体化したことになる。特に、1991年に改訂された学習指導要録では、「観点別学習状況」欄の4つの評価観点のうち「関心・意欲・態度」が新たに最重要観点として位置づけられ、「知識・理解」は一番下に置かれることとなった。知識・技能の画一的指導中心の授業形態から、子どもが「自ら学び自ら考える力」の伸長を支援するそれへの転換をはかるメッセージを打ち出したのである。
しかし、「ゆとり教育」に伴い、1999年から2005年にかけて学力低下論争が展開された(注2)。学力低下論争の契機となったのは、PISA調査によって、日本の学力低下が指摘されて報道されたことにある。このテストは、フィンランドが世界一の学力を達成したことで注目を集めるようにあったテストである。しかし、この主催者であるOECDの理念としては、経済発展に貢献する能力を試すものであり、このテストで学力低下か否かを計測することには疑問の声があがっている。さらには、PISAで問われているような、既存の教科枠にとらわれない問題解決技能・コミュニケーション技能・創造性・柔軟性・自己信頼・多様な民族的かつ文化的背景の理解を育てるべきだとする議論がある。その一方で、沖裕貴(2009)は、PISAは思考力を測るもの、TIMSSは計算力・知識を測るものとし、「ゆとり教育」では「関心・意欲・態度」に加えて「思考・態度」を重視したにもかかわらず、PISAの数値が後退している点に注目し、学習指導要領だけが原因ではなく、その主旨が現場で反映されていない点を指摘している。さらに、根本的な原因を社会構造の変化にあるとしている。つまり、「ゆとり教育」に転換してからしばらくは学力低下の件が起きなかったが、1992年-1998年にかけてテレビゲームの時間数が一日あたり120分から139.1分に上昇し、読書量も低下していることを、数値をあげて指摘している。さらには、テレビゲームだけでなく、携帯電話の普及もあげている。これを、「ゆとり教育」で生まれた余暇によって、「学力からの脱走」であると述べている。
このようにみてみると、社会構造の変化という、社会学的な問題点も浮き彫りになってくる。また、日本の学力分布は低い層でより低く、高い層でより高く分かれるという、二極分化の傾向がある点も注目される。小澤浩明(2008)は、学力と階層差の問題点にも言及し、学力格差の小さいフィンランド型から学力格差の大きいアメリカ型へ日本の変化、フリーター問題にみる社会保障全般の充実、特に学校の福祉的機能の充実の必要性に注目し、以下のように述べている。
学校は学校内の文化的不平等と学校の前での社会・経済的不平等の「二重の格差要因」のそれぞれに対処することによってはじめて、再生産の「抑制」を可能にすることができるのではないだろうか。(p.158)
理念としてはどうなのであろうか。「ゆとり教育推進派」の寺脇研(2001)は、以下のように述べている。
現在の国際社会において、日本人は自己主張や議論が下手であり、自分の考えを論理的に展開する能力に劣る、とされています。・・〈中略〉・・これまでの日本の教育が表面的な知識の詰め込みに走り、「考える力」「表現する力」の育成を軽視してきたこととも無関係ではないと考えられます。・・〈中略〉・・多数の生徒が自分の疑問点を次々と教師にぶつけてゆけば、その間、授業は先に進みません。授業時間数に比して学習内容が過大であったこれまでの教育の現場では、先生は生徒のそうした疑問につきあう「ゆとり」がなかったのです。
このように考えると、「ゆとり教育」は理念としてはよいと言える。いかに現場でその主旨を理解し、社会構造の変化に対応できたかが問われた現象なのではないだろうか(注3)。2008年2月に発表の学習指導要領改訂案では、「生きる力」育成という理念の維持や知識の「活用力」の向上を新たに掲げてはいるものの、国語・社会・算数・数学・理科・外国語・体育の授業時数増加、「総合的な学習の時間」の縮減など、全体的に学校知識を「寄せ集めコード」へと戻す方向性を示している。佐貫浩(2004)は、朝日新聞2008年3月4日付朝刊の世論調査を示している。そこでは、数学や理科の授業時間数を増やすことに賛成が7割を超えている。その一方で、総合的な学習時間の削減には否定的な見解が半数を占めている。ここには、「統合された知識」と「寄せ集められた知識」という両極のはざまで、子どもたちに身につけさせるべき知識と価値としていかなるものを想定すべきか迷い、暗中模索する人々の姿が反映されているようにも見える。
また、「ゆとり教育」を考察する際、その萌芽として「大正新教育運動」があり、戦後の「戦後新教育」にすでに近似的現象が見られる。しかし、実際には「問題解決学習」に寄せられたさまざまな批判をどう克服することができるのかについて、吟味され、具体的展望が示された形跡を見出すことは困難であるところに問題が潜んでいたのではないだろうか。その状態のまま、「ゆとり教育」が実施されたことが問題であった。理念としてはよいはずの「ゆとり教育」が十分に生かしきれなかったのは、「大正新教育運動」「戦後新教育」での問題点を放置した状態であったことによる点が大きいと言える。
しかし、教育改革の視点から久冨善之(2008)、小谷敏(2003)は指摘している。特に小谷敏(2003)は、その根本的な原因を「新自由主義的発想」「復古主義」「理想主義」の混在に見ており、歪んだ社会構造を指摘しており、示唆的である(注4)。科学・文化的知識の系統的・効果的な吸収を一義的な目的として共有する教師と生徒という関係、その上に成立してきた教師の権威性が、子どもたちから境遇や価値観を異にする他者を理解し共感する力を奪い、自らを深く見つめ返す機会を奪ってきた状況が問い直される。
「ゆとり教育」は、当初から、歴史的には「大正新教育運動」「戦後新教育」の流れ、それに加えて、戦後の経済発展に伴う、「新自由主義的発想」「復古主義」「理想主義」などの多くの混在した教育思想の混在であったことがわかる。単に学力という表面的な問題だけではなく、社会構造の変化、社会階層の格差、教育理念の混在による核となる理念の欠如など、複雑な問題を呈していることがわかる。さらには、教育成果の説明責任を要求される学校においては、可視化されにくい力や成果の見えにくい活動が軽視され、教育的妥当性を持たないものも含めた数値・達成目標が強調されがちな点も大きい。
注
2
学力論争の主なものを、山内乾史(2005)は以下のようにまとめている。この図から、観点の違いから学力低下論争が発生していることがわかる。
|
ゆとり教育に肯定的 |
ゆとりに否定的 |
国家・社会の観点から |
タイプ1 教育過剰論 新自由主義的教育論 |
タイプ2 国際競争力低下論 学習意欲・階層化論 |
児童・生徒の観点から |
タイプ3 児童中心主義的教育論 体験型・参加型学習論 |
タイプ4 学習権論 吹きこぼれ論 |
それぞれのタイプの代表的な論者を以下のように示している。
タイプ2・・小堀圭一郎・西村和雄・和田秀樹・苅谷剛彦・蔭山英男
タイプ3・・寺脇研・加藤幸次・高浦勝義・・文部科学省・国立教育政策所に在籍
タイプ4・・塾に通わせることのできない多くの市民
3
深谷圭助(2008)は、国語力はすべての基礎であるという観点から、小学校1年生からの「辞書引き学習法」を提唱している。これは子どもの知的好奇心を大切にする調べ学習であり、従来の辞書は小学3、4年生から引くとする学習指導要領に一石を投じるものであった。そこには生き生きとした活動例が報告されている。この「辞書引き学習法」は学力にも好影響を与え、さらには真の意味でのゆとり教育の理念を体現できる方法として評価できるのではないだろうか。
4
小谷敏(2003)は以下のように指摘している。
寺脇流の「理想主義」だけが「ゆとり教育」を推し進めていったのではない。教育を軽量化することで、民間の教育産業への需用を喚起し新たなビジネスチャンスを創出すること。経済同友会の「合校論」に典型的に見られるように、財政支出の削減と教育の市場化を目論む新自由主義的発想が、「ゆとり教育」路線の推進力となってきた。また、子どもたちの学習負担を大幅に減らしていった背景には、「非才、無才」には知識など不要だという三浦朱門流の復古主義も混入している。寺脇流の「理想主義」そして新自由主義と復古主義。「ゆとり教育」はまったく異質の発想が野合したキメラのようなものである。核となる理念が存在しないのだ。何を目的とした改革なのか。それが定かでないまま教育内容を機械的に3割も削減してしまえば、学校現場は大混乱に陥るほかはない。
(参考文献)
アンソニー・ギデンズ(松尾精文他訳1998)『社会学(改訂第3版)』而立書房
市川伸一(2002)『学力低下論争』ちくま書房
沖裕貴(2009)「学力低下論争を振り返つて」『立命館高等学校』11号
小澤浩明(2008)「学校の階級・階層性と格差社会-再生産の社会学-」『教育社会学』学文社
金子真理子(2004)「学力の規定要因-家庭背景と個人の努力とは、どう影響するか-」『学力の社会
学』岩波書店
教育科学研究会編(2006)『現代教育のキーワード』大月出版
久冨善之(1999)「学校知識の社会学・序説的考察」『一橋論叢』121巻2号
久冨善之(2008)「教育改革時代の学校と教師の社会学」『教育社会学』学文社
小玉重夫(2009)「学力-有能であることと無能であること-」『現代の教育学』東京大学出版会
小谷敏(2003)「教育改革を読む」『子ども論を読む』世界思想社【山内乾史・原清治編(2006)『学
力問題・ゆとり問題』日本図書センター所収】
佐貫浩(2004)「世界と自分を啓く学力と学習を」『教育』700号
深谷圭助(2008)『なぜ辞書を引かせると子どもは伸びるのか』宝島社
田中智志・今井康雄(2009)『現代の教育学』東京大学出版会
寺脇研(2001)「なぜ、今『ゆとり教育』なのか」『教育の論点』文芸春秋【山内乾史・原清治編(2006)
『学力問題・ゆとり問題』日本図書センター所収】
藤原幸男(2003)「学力低下問題と学力形成」『琉球大学教育学部紀要』62
本田伊克(2008)「学校で『教える』とは、どのようなことか」『教育社会学』学文社
山内乾史・原清治(2005)『学力論争とはなんだったのか』ミネルヴァ書房
山内乾史・原清治編(2006)『学力問題・ゆとり問題』日本図書センター
アイデア
「アイデア創出の方法」
こんにちは。今回は、アイデア創出の方法として、「ブレイン・ストーミング」を中心にまとめてみたいと思います。
ユニークな商品・サービスを生むための会議法
1ブレーン・ストーミング法(Brain Storming法)・・アレックス・オズボーン
(集団会議)ブレーンストーミング会議・ハーフアンサー会議・実行計画会議・経過確認会議
(一人会議)ブレーンストーミング→マインドマップ(トニーブサン)・KJ法(川喜田二郎)
自由な雰囲気を作る
参加者が思いついたことを自由に出す
まずアイデアの質より量を重視
理想論や夢物語、大歓迎。
他人の意見に便乗OK
批判厳禁
2問題整理・欠点列挙法
既存商品の欠点などを徹底的に出し合うことから始める
3希望点列挙法
まずは理想のイメージを描き、現実をそれに近付ける。
4逆発想法
すべてを逆に考えることによって、新しいアイデアに結びつける。
個人レベルのアイデア創出のポイント
1歩きながら考える。
2通勤電車の中で考える。
3喫茶店の中で考える。
4枕元にメモを置き、寝付くまでに思いついたことをメモする。
九門家相術
「すぐわかる家相」
こんにちは。今回は、簡単な家相を紹介します。安藤昇の考案した「九門家相術」です。安藤昇は、インテリヤクザと言われた異色の人物でした。安藤組解散のあとは俳優としても活躍していましたが、その一方で、家相の研究家としても活躍していました。この方法は、簡単でしかも的中率が高いのですばらしい方法です。
(5つの凶相)真上から見て、東西南北のいずれかに凹部がある。
1木殺門【セックス運】春・朝・肝臓
夫婦ともセックス面が最悪で、また病気が生じやすい。
2火殺門【家族運】夏・昼・心臓・神経
家庭内にいざこざが絶えない。なぜか夫婦、親子、兄弟の仲がしっくりいかない。
3金殺門【金銭運】秋・夕暮れ・肺・消化器
お金に困る家相で、貧乏相・借金相でもある。
4水殺門【健康運】冬・夜・腎臓・性器
さまざまな病気にかかりやすく、人の出入りが少ない。
5鬼門【北東から南西に結ぶ線上】
この場所に台所、浴室、便所を作ると台凶運を招く。鬼門の凸は凶、凹は凶とはならない。
(4つの吉相)真上から見て、東西南北のいずれかに凸部がある。
1木生門
2火生門
3金生門
4水生門
※凸凹は3分の1を目安にする。
(その他)
階段
中階段は凶
寝室
南の寝室は凶
玄関
鬼門上と南に作らなければ吉
門
玄関とややずらして作れば吉
ガレージ
鬼門上に作らなければ吉
物置・倉庫
北西に作れば吉
ゴミ捨て場
南西に作るのは凶、北に作るのは吉。
子供部屋
二階の東、または北向きが吉。
年寄りの部屋
南東か日当たりのよい部屋に作るのは吉。主人の部屋は中央が吉。
仏壇・神棚
家の中心に置けば吉。西方浄土を意識して西向きに置く。
家の大きさ
敷地いっぱいに建てるのは凶
家の長さ
南北に長い家は凶。
家の色
周囲と調和した落ち着いた色が吉。
塀・築山
光をさえぎらない程度が吉。
池
南を避け、東に作れば吉。
ペット
南東か東で飼うのが吉。
こころの知能指数
「EQ-こころの知能指数-」
こんにちは。今回は、ダニエル・ゴールマンの提唱するEQについてまとめてみます。知能指数も必要ですが、人間の心の知能指数(EQ)も大切ですよね。以下に示しますので、参考にしてみてくださいね。
EQの四領域と関連コンピテンシー(ダニエル・ゴールマン提唱)
○個人的コンピテンシー・・自分自身に対処する能力
【自己認識】
感情の自己認識・・自分自身の感情を読み取り、そのインパクトを認識する。直観を信じて決断する。
正確な自己評価・・自分の長所と限界を知る。
自信・・自分の価値と能力に対する健全な信頼。
【自己管理】
透明性・・正直と誠実。信頼できること。
順応性・・状況の変化に順応し、障害を克服できる柔軟性。
達成意欲・・自分の内なる目標基準の達成を目指してパフォーマンスを向上させる意欲。
イニシアチブ・・進んで行動を起こし、チャンスをつかむ。
楽観・・ものごとのよい面を見る。
○社会的コンピテンシー・・人間関係に対処する能力
【社会認識】
共感・・他者の感情を感知し、他者の視点を理解し、他者の事情に積極的関心を示す。
組織感覚力・・組織内の潮流、意思決定ネットワーク、政治力学を読み取る。
奉仕・・部下や顧客のニーズを認識し、対応する。
【人間関係の管理】
鼓舞激励・・求心力のあるビジョンを掲げてモチベーションを与える。
影響力・・さまざまな説得術を行使する・
育成力・・フィードバックと指導を通じて、他者を育てる。
変革促進・・新機軸を発議し、管理し、統率する・
紛争処理・・意見の相違を解決する。
チームワークと協調・・協調とチーム作り。
125歳寿命説
大隈重信の125歳天寿説
大隈重信は、「成長期にかかる年数の5倍は生きる」としました。そして、人間は25年かかって成長を終えるので、25×5で、「人間は125歳まで生きられる」と述べました。この「125歳天寿説」はフランスの生理学者の述べた説をもとにしているようです。しかし、実際にはどうでしょうか?元気で長生きとなると、もう少し短い気がしませんか?法医学の古畑種基博士の説を支持しています。古畑種基博士は、血液の凝固の極限が30歳から35歳であることに着目して、その三倍としました。つまり、90歳から105歳としました。これを「105歳天寿説」といいます。実際、尾崎行雄、徳富蘇峰、田中館愛橘、松下幸之助、土光俊夫、塩谷信男、三石巌など、その年齢です。実際に手相をみても、うなづけるところです。余談ですが、古畑種基博士は、よい人相でも有名な方で、人相の本には掲載されることの多い人物でした。