『更級日記』の夢の記述

更級日記』の夢の記述

 

源氏物語』耽読

 

はしるはしる、わづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず几帳(きちやう)の内(うち)にうち臥して、引き出(い)でつつ見る心地、后(きさき)の位も何にかはせむ。昼は日ぐらし、夜は目の覚(さ)めたるかぎり、灯(ひ)を近くともして、これを見るよりほかのことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに、夢に、いと清げなる僧の黄なる袈裟(けさ)着たるが来て、「法華経(ほけきやう)五の巻をとく習へ」と言ふと見れど、人にも語らず、習はむとも思ひかけず、物語のことをのみ心にしめて、われはこのごろわろきぞかし、さかりにならば、かたちもかぎりなくよく、髪もいみじく長くなりなむ、光の源氏の夕顔(ゆふがほ)、宇治(うぢ)の大将の浮(うき)舟(ふね)の女(をんな)君(ぎみ)のやうにこそあらめ、と思ひける心、まづいとはかなくあさまし。  (一七)

 

(口語訳)

胸をわくわくさせながら、これまでほんの少しばかり読んでは、納得がいかずじれったく思っていた『源氏物語』を、最初の巻から始めて、たった一人っきりで几帳の中に臥せって、櫃から次々に引き出しながら読むその気持ちといったら、后の位だって問題にもならない。昼はひねもす、夜は目の覚めている限り、灯火を近くともして、これ(『源氏物語』)を読むこと以外何もしないで過ごしているので、自然と物語の文章が、そらでもそのまま浮かんでくるのを、たいしたことだと思っていると、夢の中で、とてもきれいな僧で黄色の地の袈裟を着た人がやって来て、「『法華経』の第五巻をはやく習いなさい」と言う、と見たのだけれど、他の人にも話さず、『法華経』を習おうなどとは思いもかけず、物語にばかり夢中になって、私は今のところまだ器量が良くないのだ、でも年頃になったら、顔かたちもこの上なく美しくなって、髪もすばらしく長くなるに違いない、そして光源氏の寵愛した夕顔や、宇治の大将(薫)の愛を受けた浮舟の女君のようにきっとなるのだ、とそんなふうに思っていた私の心は、今考えてみると何ともたわいなく、あきれかえったことである。

 

夢と猫と

 

 花の咲き散るをりごとに、乳母(めのと)亡くなりしをりぞかし、とのみあはれなるに、同じをり亡くなりたまひし侍従(じじゆう)の大納言(だいなごん)の御むすめの手を見つつ、すずろにあはれなるに、五月(さつき)ばかり、夜(よ)更くるまで物語を読みて起きゐたれば、来(き)つらむ方(かた)も見えぬに、猫(ねこ)のいとなごう鳴いたるを、おどろきて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。いづくより来つる猫ぞと見るに、姉なる人、「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」とあるに、いみじう人馴れつつ、かたはらにうち臥(ふ)したり。尋ぬる人やあると、これを隠して飼ふに、すべて下衆(げす)のあたりにも寄らず、つと前にのみありて、物もきたなげなるは、ほかさまに顔を向けて食はず。姉おととの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉のなやむことあるに、もの騒がしくて、この猫を北面(きたおもて)にのみあらせて呼ばねば、かしかましく鳴きののしれども、なほさるにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて「いづら猫は。こち率(ゐ)て来(こ)」とあるを、「など」と問へば、「夢に、この猫のかたはらに来て『おのれは、侍従の大納言の御むすめの、かくなりたるなり。さるべき縁(えん)のいささかありて、この中の君のすずろにあはれと思ひ出でたまへば、ただしばしここにあるを、このごろ下衆(げす)の中にありて、いみじうわびしきこと』と言ひて、いみじう泣くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫(ねこ)の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり」と語りたまふを聞くに、いみじくあはれなり。その後は、この猫を北面にも出(い)ださず、思ひかしづく。ただ一人ゐたる所に、この猫が向かひゐたれば、かいなでつつ、「侍従(じじゆう)の大納言の姫君のおはするな。大納言殿に知らせたてまつらばや」と言ひかくれば、顔をうちまもりつつなごう鳴くも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞き知り顔にあはれなり。 (二二)

 

(口語訳)

毎年桜の花の咲き散る折ごとに、乳母の亡くなった頃だなあ、とばかり思い出されて切ないのだが、その同じ頃お亡くなりになった侍従の大納言の御娘の筆跡を見ては、わけもなく悲しみが募るそんな時に、五月頃、夜更けまで物語を読んで起きていると、どこから来たとも分からないが、猫がまことにものやわらかに鳴いているので、その声のする方をはっとして見ると、いかにも可愛らしい猫がいる。どこからやってきた猫かしらと見ていると、姉にあたる人が、「あっ静かに、誰にも言わないで。ほんとに可愛らしい猫ですもの。私たちで飼いましょう」と言うと、猫は実に人馴れしていて、そばに寝そべっている。猫の行方を探す人があるのではないかと、この猫を隠して飼っていると、全く下々の者のそばに寄りつかず、じっと私たちの前にばかりいて、食べ物も汚らしいものは、顔を横に背けて食べようとしない。私たち姉妹の間にぴたりとまつわりついて、私たちがおもしろがりかわいがっているうちに、姉が病気になることがあって、ごたごたしていて、この猫を召使いのいる北側の部屋ばかりいさせて、こちらに呼ばなかったところ、やかましく鳴き騒ぐけれど、それでもやはり猫にはそう鳴くだけの理由があって鳴くのだろうと思っていると、病気の姉がふと目を覚まして「どうしたの、猫は。こちらにつれていらっしゃい」と言うので、「どうして」と尋ねると、「夢の中で、この猫がそばに来て『私は、侍従の大納言の姫君が、こうなったものなのです。こうなるべき因縁が少々あって、この中の君が私のことを無性にいとおしんで思い出してくださるので、ほんのしばらくここにおりますのに、近頃は召使いの間にいて、ひどく辛いことです』と言って、たいそう泣く様子は、上品で美しい人と見えて、ふと目覚めたら、この猫の声だったのが、しみじみと悲しく胸を打たれたの」とお話しになるのを聞くにつけ、何とも感動する。その後は、この猫を北側の部屋にも出さず、大切に世話をする。私が一人きりで座っている所に、この猫が向かい合っているので、撫で撫でしながら、「侍従の大納言の姫君がここにいらっしゃるのね。父君の大納言殿にお知らせ申し上げたいわ」と語りかけると、私の顔をじっと見つめながらものやわらかく鳴くのも、そう思って見るせいか、ふと見たところ、普通の猫ではなく、私の言葉を聞き分けているようでしみじみと心惹かれる。

 

「司召」の失意

 

かへる年、一月(むつき)の司召(つかさめし)に、親のよろこびすべきことありしに、かひなきつとめて、同じ心に思ふべき人のもとより、「さりともと思ひつつ、明くるを待ちつる心もとなさ」と言ひて、

明くる待つ鐘の声にも夢さめて秋の百夜(ももよ)の心地せしかな

と言ひたる返りごとに、

暁(あかつき)をなにに待ちけむ思ふことなるともきかぬ鐘の音(おと)ゆゑ  (二八)

 

(口語訳)

 翌年、正月の司召に、父が国司任官の喜びに与るはずだったのに、あての外れた翌朝、同じ気持ちで期待してくれているはずの人の許から、「いくらなんでも今度こそは、・・と思いながら、結果の分かる夜明けを待っていたじれったさといったら」と言って、

  結果はどうかと夜明けを待つ夜、でも暁の鐘の音にその夢も破れました。まるで秋の夜長を百夜も重ねた思いです。

と詠んできた返事に、

この夜明けを、私たちはどうしてこんなに待っていたのでしょう。願いの成就を告げて鳴る暁の鐘でもないのに。

 

清水の夢告

 

かうて、つれづれとながむるに、などか物詣(ものまうで)でもせざりけむ。母いみじかりし古代(こだい)の人にて、「初瀬(はつせ)には、あなおそろし、奈良坂(ならさか)にて人にとられなばいかがせむ。石山(いしやま)、関山(せきやま)越えていとおそろし。鞍馬(くらま)は、さる山、率(ゐ)て出でむいとおそろしや。親上(のぼ)りて、ともかくも」とさしはなちたる人のやうにわづらはしがりて、わづかに清水(きよみづ)に率てこもりたり。それにも例のくせは、まことしかべいことも思ひ申されず。彼岸(ひがん)のほどにて、いみじう騒がしうおそろしきまでおぼえて、うちまどろみ入りたるに、御帳(みちやう)のかたの犬(いぬ)防(ふせ)ぎのうちに、青き織物の衣(ころも)を着て、錦(にしき)を頭(かしら)にもかづき、足にもはいたる僧の、別当(べつとう)とおぼしきが寄り来て、「行くさきのあはれならむも知らず、さもよしなし事をのみ」と、うちむつかりて、御帳のうちに入(い)りぬと見ても、うちおどろきても、「かくなむ見えつる」とも語らず、心にも思ひとどめでまかでぬ。  (四三)

 

(口語訳)

 こんなふうにして、所在なくもの思いにふけっている間に、どうして物詣でなどもしなかったのだろう。母はたいそう昔気質の人で、「初瀬詣でなんて、ああ怖い、奈良坂で人に捕まりでもしたらどうしよう。石山寺は、関山を越えて行くのだからとても怖い。鞍馬は、ああした険しい山で、あなたを連れて出るなんてとても恐ろしくて、父親が上京してから、何とでも・・、ね」と私のことを構いつけないことにしている人のように面倒がって、それでもわずかに清水寺に連れて行ってお籠りをした。その時もいつもの私の癖では、まじめにお願いすべき後世のことなどまるでお祈り申し上げる気にもならない。ちょうど彼岸の頃で、ひどく混雑して恐ろしいまでに思われたが、ついうとうと眠り込んだところ、ご仏前の御帳の方の犬防ぎの内側に、青い織物の法衣を着て、錦を頭にもかぶり、足にもはいた僧で、この寺の別当と思われる人が近寄ってきて、「将来がみじめであるのも知らず、そんなふうにとりとめもないことばかり考えて」と不機嫌に言って、御帳の中に入ってしまった、とそんな夢を見て、はっと目を覚ましても、「こんな夢を見た」とも人に話さず、また心にも止めないで寺から退出してしまった。

 

初瀬の夢告

 

母、一尺(いつさく)の鐘を鋳(い)させて、え率(ゐ)て参らぬ代はりにとて、僧を出(い)だし立てて初瀬(はつせ)に詣(まう)でさすめり。「三日さぶらひて、この人のあべからむさま、夢に見せたまへ」など言ひて、詣でさするなめり。そのほどは精進(さうじ)せさす。

この僧帰りて、「夢をだに見で、まかでなむが、本意(ほい)なきこと、いかが帰りて、「夢をだに見で、まかでなむが、本意なきこと、いかが帰りても申すべきと、いみじうぬかづき行ひて、寝たりしかば、御帳(みちやう)の方より、いみじうけだかう清げにおはする女の、うるはしくさうぞきたまへるが、奉りし鏡をひきさげて、『この鏡には文(ふみ)や添ひたりし』と問ひたまへば、かしこまりて、『文もさぶらはざりき。この鏡をなむ奉れとはべりし』と答へたてまつれば、『あやしかりけることかな。文添ふべきものを』とて、『この鏡を、こなたにうつれる影を見よ。これ見れば、あはれに悲しきぞ』とて、さめざめと泣きたまふを、見れば、臥しまろび泣き嘆きたる影うつれり。『この影を見れば、いみじう悲しな。これ見よ』とて、いま片つ方にうつれる影を見せたまへば、御簾(みす)ども青やかに、几(き)帳(ちやう)押し出でたる下より、いろいろの衣(ころも)こぼれ出で、梅桜咲きたるに、鶯(うぐひす)、木(こ)づたひ鳴きたるを見せて、『これを見るはうれしな』とのたまふとなむ見えし」と語るなり。いかに見えけるぞとだに耳もとどめず。  (四四)

 

(口語訳)

 母は、一尺の鏡を鋳造させて、自分が連れてお参りできない代わりにと言って、代参の僧を立てて初瀬に参詣させるようだ。「三日間お籠りをして、この娘の行く末の様子を、授かった夢でお示しください」などと言って、参詣させるらしい。その間母は私にも精進をさせる。

 この僧が帰ってきて、「夢のお告げさえ見ずに、退出してしまうのは、不本意なことだ、それでは帰京して何とご報告申し上げようかと、一心不乱に礼拝しお勤めをして、寝ていましたところ、御帳の方から、たいそう気高く清楚でいらっしゃる女人で、きちんと正装しておいでの方が、奉納した鏡を手に下げて、『この鏡には願文が添えてありましたか』とお尋ねになるので、かしこまって、『願文はございませんでした。ただこの鏡を奉納するようにとのことでございました』とお答え申し上げたところ、『妙なことね。願文を添えるはずなのに』とおっしゃって、『この鏡を、こちら側に映っている姿を御覧。これを見ると、しみじみ悲しいことよ』とおっしゃり、さめざめとお泣きになるので、見ると、つっぷして泣き嘆いている姿が映っています。『この姿を見ると、とても悲しいことね。ではこちらを御覧』とおっしゃって、もう片方に映っている姿をお見せになると、そこには御簾などが青々として、几帳を端近に押し出したその下から、色とりどりの衣裳の裾、袖口などがこぼれ出て、庭には梅や桜が咲いており、鶯が枝から枝へと飛び移り鳴いています。それを指し、『これを見るのは嬉しいことね』と仰せになる、とそんな夢を見たのです」と母に語ったようである。けれども私はどんなふうに自分の将来が示されたのかということすら心に止めて聞こうともしないのである。

 

前世の夢

 

聖(ひじり)などすら、前(さき)の世のこと夢に見るは、いと難かなるを、いとかう、あとはかないやうに、はかばかしからぬ心地に、夢に見るやう、清水(きよみづ)の礼堂(らいだう)にゐたれば、別当(べつたう)とおぼしき人出で来て、「そこは前(さき)の生(しやう)に、この御寺(みてら)の僧にてなむありし。仏師(ぶつし)にて、仏をいと多く造りたてまつりし功徳(くどく)によりて、ありし素姓(すざう)まさりて人と生まれたるなり。この御堂(みだう)の東におはする丈六(ぢやうろく)の仏は、そこの造りたりしなり。箔(はく)を押しさして亡くなりにしぞ」と。「あないみじ。さは、あれに箔押したてまつらむ」と言へば、「亡くなりにしかば、こと人箔押したてまつりて、こと人供養(くやう)もしてし」と見て後、清水にねむごろ参りつかうまつらましかば、前の世にその御寺に仏念じ申しつけむ力に、おのづからようもやあらまし。いと言ふかひなく、詣(まう)でつかうまつることもなくてやみにき。 (五三)

 

(口語訳)

修行に励む高僧などでさえ、前世のことを夢に見るのは、とても難しいことだと言うが、全くこんなふうに、頼りなく、しっかりしない身で、夢に見たことには、清水寺の礼拝堂に座っていると、別当と思われる人が出てきて、「あなたは前世に、この御寺の僧であったのだ。仏師で、仏像をたいそうたくさんお造り申し上げた功徳によって、前世の素性よりまさって菅原家の人として生まれたのだ。この御堂の東方においでになる丈六の仏像は、あなたが造ったものだ。金箔を貼っているうちに途中で亡くなってしまったのだ」と言う。「まあ大変なこと。それでは、あの仏様に箔をお押し申し上げましょう」と言うと、「あなたが亡くなってしまったので、他の人が箔をお押し申し上げ、他の人が供養もしてしまった」と言う、そんな夢を見てから、清水寺に熱心に参詣し一心にお仕え申し上げたなら、前世にそのお寺で仏様に祈念申し上げたとかいう功徳で、自然と良いこともあったでしょうに。いまさら言っても何のかいもないことだが、お参りしてお勤めすることもなくそのままになってしまった。

 

石山詣で

 

今は、昔のよしなし心もくやしかりけりとのみ思ひ知りはて、親の物へ率て参りなどせでやみにしも、もどかしく思ひ出(い)でらるれば、今はひとへに豊かなる勢ひになりて、ふたばの人をも、思ふさまにかしづきおほしたて、わが身もみくらの山に積み余るばかりにて、後の世までのことをも思はむと思ひはげみて、十一月(しもつき)の二十余日、石山に参る。

雪うち降りつつ、道のほどさへをかしきに、逢坂(あふさか)の関を見るにも、昔超えしも冬ぞかしと思ひ出でらるるに、そのほどしも、いと荒う吹いたり。

 逢坂の関のせき風吹く声は昔聞きしに変はらざりけり

関寺のいかめしう造られたるを見るにも、そのをり、荒造りの御顔ばかり見られしをり思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいとあはれなり。

打(うち)出(いで)の浜のほどなど、見しにも変はらず。暮れかかるほどに詣で着きて、斎屋(ゆや)に下りて、御堂(みだう)に上(のぼ)るに、人声もせず、山風おそろしうおぼえて、行ひさしてうちまどろみたる夢に、「中堂より麝香(ざかう)賜はりぬ。とくかしこへ告げよ」と言ふ人あるに、うちおどろきたれば、夢なりけりと思ふに、よきことならむかしと思ひて、行ひ明かす。

またの日も、いみじく雪降り荒れて、宮に語らひ聞こゆる人の具したまへると物語して、心ぼそきをなぐさむ。三日さぶらひて、まかでぬ。 (六十三)

 

(口語訳)

 今となっては、昔のとりとめもない浮ついた料簡も悔やまれることであったと身に滲みて分かり、親が物詣でにも連れて行かずじまいになってしまったのも、非難したい気持で思い出こされるので、今はただもう裕福な身の上になって、幼い子どもをも、思い通りに大切に育て上げ、自分自身も御倉に積みきれないほどの財宝を蓄え、来世のことまでも考えておこうと気持ちを引き立てて、十一月二十余日、石山寺に参詣する。

雪がしきりに降って、道中の景色まで風情あるところに、逢坂の関を見るにつけても、昔ここを超えたのも冬であったことよと思い出されるが、その折も折、昔と同じようにひどく風が吹き荒れている。

  今ここ逢坂の関を吹き渡る風の音は、昔聞いたそれと少しも変わらないことよ。

 関寺が荘厳に建立されているのを見るにつけても、その昔、荒造りのお顔だけが覗かれたあの時のことが思い出され、年月の過ぎ去ってしまったこともしみじみ感慨深く思われる。

 打出の浜の辺りなど、昔見たのと変わっていない。暮れかかる時分に石山寺に行き着いて、斎屋に下りて、身を清め御堂に上がると、人の声もせず、山風の音が恐ろしく感じられ、勤行を中途で止め、ついうとうとしたその時の夢に、「中堂から麝香を頂戴しました。早くあちらへ知らせなさい」と言う人があるので、はっと目を覚ましたところ、ああ夢だったと思うにつけ、きっと吉夢なのだろうと思って、勤行で夜明かしする。

 翌日も、ひどく雪が降り荒れ、宮家で親しくしていただいている方で、一緒にお籠もりしておいでの女房と話をして、心細さをまぎらわす。三日間お籠りをして、退出した。

 

初瀬詣で

 

 そのかへる年の十月(かみなづき)二十五日、大嘗会(だいじやうゑ)の御禊とののしるに、初瀬の精進(さうじ)はじめて、その日、京を出づるに、さるべき人々、「一代に一度の見物(みもの)にて、田舎(ゐなか)世界の人だに見るものを、月日多かり、その日しも京をふり出でて行かむも、いともの狂ほしく、流れての物語ともなりぬべきことなり」など、はらからなる人は言ひ腹立てど、児(ちご)どもの親なる人は、「いかにもいかにも、心にこそあらめ」とて、言ふに従ひて出だし立つる心ばへもあはれなり。ともに行く人々もいといみじく物ゆかしげなるは、いとほしけれど、「物見て何にかはせむ。かかるをりに詣でむ志を、さりともおぼしなむ。かならず仏の御しるしを見む」と思ひ立ちて、その暁に京に出づるに、二条の大路(おほぢ)をしも渡りて行くに、さきにみあかし持たせ、供の人々、浄(じやう)衣(え)姿なるを、そこら、桟敷(さじき)どもに移るとて行きちがふ馬(むま)も車もかち人も、「あれはなぞ、あれはなぞ」と、やすからず言ひおどろき、あさみ笑ひ、あざける者どももあり。

 良頼(よしより)の兵衛督(ひやうゑのかみ)と申しし人の家の前を過ぐれば、それ桟敷へ渡りたまふなるべし。門(かど)広う押しあけて、人々立てるが、「あれは物詣人(ものまうでびと)なめりな。月日しもこそ世に多かれ」と笑ふ中に、いかなる心ある人にか、「一時(ひととき)が目をこやして何にかはせむ。いみじくおぼし立ちて、仏の御徳かならず見たまふべき人にこそあめれ。よしなしかし。物見で、かうこそ思ひ立つべかりけれ」と、まめやかに言ふ人一人ぞある。

 道顕証(けんそう)ならぬさきにと、夜(よ)深(ぶか)う出でしかば、立ち遅れたる人々も待ち、いとおそろしう深き霧をも少し晴るけむとて、法性寺(ほうさうじ)の大門に立ち止まりたるに、田舎(ゐなか)より物見に上(のぼ)る者ども、水の流るるやうにぞ見ゆるや。すべて道もさりあへず。物の心知りげもなきあやしの童(わらは)べまで、ひきよきて行き過ぐるを、車を驚きあさみたることかぎりなし。これらを見るに、げにいかに出で立ちし道なりともおぼゆれど、ひたぶるに仏を念じたてまつりて、宇治(うぢ)の渡りに行き着きぬ。

 そこにも、なほしもこなたざまに渡りする者ども立ちこみ足れば、舟の楫とりたるをのこども、舟を待つ人の数も知らぬに心おごりしたるけしきにて、袖をかいまくりて、顔にあてて、棹(さを)に押しかかりて、とみに舟も寄せず、うそぶいて見まはし、いといみじうすみたるさまなり。無期(むご)にえ渡らで、つくづくと見るに、紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかんる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。げにをかしき所かな、と思ひつつ、からうじて渡りて、殿の御領所(ごらうしよ)の宇治殿を入(い)りて見るにも、浮(うき)舟(ふね)の女(をんな)君(ぎみ)のかかる所にやありけむなど、まづ思ひ出(い)でらる。

 夜深く出でしかば、人々困(こう)じて、やひろうちといふ所にとどまりて、物食ひなどするほどにしも、供なる者ども、「高名(かうみやう)の栗駒山(くりこまやま)にはあらずや。日も暮れがたになりぬめり。ぬしたち調度(てうど)とりおはさうぜよや」と言ふを、いとものおそろしう聞く。

 その山超えあてて、贄(にへ)野(の)の池のほとりへ行き着きたるほど、日は山の端(は)にかかりにたり。「今は宿とれ」とて、人々あかれて宿もとむる、所はしたにて、「いとあやしげなる下衆(げす)の小家(こいへ)なむある」と言ふに、「いかがはせむ」とてそこに宿りぬ。「みな人々京にまかりぬ」とて、あやしのをのこ二人ぞゐたる。その夜も寝(い)も寝(ね)ず、このをのこ出で入りし歩(あり)くを、奥の方(かた)なる女ども、「などかくし歩かるるぞ」と問ふなれば、「いなや、心も知らぬ人を宿したてまつりて、釜(かま)はしもひきぬかれなば、いかにすべきぞと思ひて、え寝でまはり歩くぞかし」と、寝たると思ひて言ふ、聞くに、いとむくむくしくをかし。

 つとめてそこを立ちて、東大寺に寄りて、拝みたてまつる。

 石上(いそのかみ)もまことに古(ふ)りにけること、思ひやられて、むげに荒れはてにけり。

その夜、山辺(やまのべ)といふ所の寺に宿りて、いと苦しけれど、経すこし読みたてまつりて、うちやすみたる夢に、いみじくやむごとなく清らなる女のおはするに参りたれば、風いみじく吹く。見つけて、うち笑みて、「何しにおはしつるぞ」と問ひたまへば、「いかでかは参らざらむ」と申せば、「そこは内裏(うち)にこそあらむとすれ。博士(はかせ)の命婦(みやうぶ)をこそよく語らはめ」とのたまふと思ひて、うれしく頼もしくて、いよいよ念じたてまつりて、初瀬川などうち過ぎて、その夜御寺(みてら)に詣で着きぬ。祓(はら)へなどして上(のぼ)る。三日さぶらひて、暁まかでむとて、うちねぶりたる夜あり、御堂の方より、「すは、稲荷(いなり)より賜はる験(しるし)の杉よ」とて、物を投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば、夢なりけり。

 暁、夜深く出でて、えとまらねば、奈良坂(ならさか)のこなたなる家を尋ねて宿りぬ。これもいみじげなる小家(こいへ)なり。「ここは、けしきもある所なめり。ゆめ寝ぬな。れうがいのことあらむに、あなかしこ、おびえ騒がせたまふな。息もせで臥(ふ)させたまへ」と言ふを聞くにも、いといみじうわびしくおそろしうて、夜を明かすほど、千年(ちとせ)を過ぐる心地す。からうじて明けたつほどに、「これは盗人(ぬすびと)の家なり。あるじの女、けしきあることをしてなむありける」など言ふ。

 いみじう風の吹く日、宇治の渡りをするに、網代(あじろ)いと近う漕(こ)ぎ寄りたり。

  音にのみ聞きわたりこし宇治川網代の浪(なみ)も今日ぞかぞふる  (六四)

 

(口語訳)

 その翌年の十月二十五日、大嘗会の御禊と世間で大騒ぎをしている時、初瀬詣での精進を始めて、その御禊当日、京を出発と決めたが、しかるべき周囲の人たちが、「大嘗会は天皇一代に一度しかない見もので、田舎の人ですら見るというのに、月日はいくらもある、それなのによりによってその日に、京を振り捨てて出て行こうというのも、まるで狂気の沙汰で、後々までの語り草になってしまいそうなことです」などと、兄弟に当たる人は口に出して腹を立てるが、子どもたちの親である夫は、「どうとでもこうとでも、あなたの気の済むようにするがよかろう」と言って、私の言うままに旅立たせてくれた心遣いも身に滲みる。同行する人々もとても御禊を見物しそうとする真心を、仏様はいくら何でも汲み取ってくださろう。きっと仏様の霊験が現れよう」と思い立って、その明け方に京を出るのだが、御禊の行列の通り道に当たる二条大路を、よりによって通っていくとき、先頭の者に仏前に捧げる灯明を持たせ、供の人々をも浄衣姿であるのを、大勢、桟敷などに席を取ろうとしてあちこち行き交う、馬上の人も牛車の人も徒歩の人も、「あれは何だ、あれは何だ」と、ただごとではないように言い驚き、嘲笑し、口に出して馬鹿にする者たちもいる。

 良信の兵衛督と申し上げた方の家の前を通り過ぎるとき、そこでも桟敷へお移りになるところなのだろう。門を広く押し開けて、人々が立っていたが、「あれは物詣でに行く人らしいね。月日はほかに幾らでもあるのに」と言って笑う中で、何という思慮深い人であろうか、「ほんのひととき目を楽しませてたって何になろう。こんな日に殊勝にも思い立ちなさって、仏のご利益をきっとお受けになる人であるに違いない。たわいもないこと。御禊見物などせずに、こんなふうに物詣でを思い立つべきだったのだ」と、まじめに言う人が一人だけいる。

 道中はっきり人目につかないうちにと、まだ夜深い頃に出発したので、遅れてきた人々をも待ち合わせ、何とか恐ろしいまで深い霧が少し晴れるまで待とうと思って、法性寺の大門の所で立ち止まっていると、田舎から御禊の見物に上京する者たちが、まるで水の風情なども分かりそうにない賤しい子どもたちまでが、人波を避けて通り過ぎて行く私たちを見て、その車に驚きあきれかえっているばかりである。こんな有様を見るにつけ、本当にまあ、何だってこんな旅に出てしまったのだろうかとも思われるけれど、一心に仏にお祈り申し上げて、宇治の渡し場に到着した。

 そこでも、やはりこちらの方へ舟で渡ってくる者たちが大勢いるので、船頭たちは、舟を待つ人が数知れないほどいるのに得意になった面持ちで、袖をまくり上げ、顔に棹を押し当て、棹にもたれかかって、すぐには船も寄せず、とぼけて舟歌などを口ずさんで辺りを見回し、ひどく澄まし返った様子である。いつまでたっても渡れないので、つくづくと風景を眺めると、『源氏物語』に宇治の八の宮の姫君たちのことが書かれているのを、いったいどういう所なので、姫君たちをそこにわざわざ住まわせることにしたのだろうかと、前から興味を持っていた場所ではないか。なるほど趣深い所だな、と思いながら、やっとのこと向こう岸に渡って、関白殿の御領所の宇治殿に入って見るにつけても、浮舟の女君はこうした所に住んでいたのかしらなどと、まずそんなことが思い出される。

 まだ夜の明けないうちに出てきたので、人々は疲れて、「やひろうち」という所で休んで、物を食べたりするちょうどそんな時、供の者たちが、「ここは盗賊が出るので有名な栗駒山ではありませんか。日も暮れ方になってしまうようです。皆さん弓矢などを手放さないでください」と言うのを、たいそう恐ろしいと思って聞く。

 その山を無事越えてきって、贄野の池のほとりに到着した頃、日は山の端にかかってしまった。「今はもう宿の手配をしなさい」と言って、人々は手分けして宿を探し求めるが、中途半端な所で、「ひどくみすぼらしい様子の下人の小家しかありません」と言うので、「しかたあるまい」と言ってそこに宿を取った。「家の者は皆京に出かけてしまいました」と言って、卑しい下男が二人だけいた。その夜も私たちはまんじりともしない。この下男が出たり入ったりして歩き回るので、奥の方の女たちが、「どうしてそんなに歩き回られるのですか」と尋ねる声が聞こえると、「なにね、気心も知れない人をお泊めして、ひょっとして釜でも盗まれてしまったら、どうしたものかと思って、寝てもいられず見回っているのですよ」と、私が寝てしまったと思って言うのを耳にすると、何とも気味悪くまたおかしくもある。

 翌朝そこを発って、東大寺に立ち寄り、拝み申し上げる。

 石上神宮も「石上ふる」の言葉さながら本当に古びてしまったことが、思いやられ、すぅかり荒れ果てていた。

その夜は、山辺という所の寺に泊まって、とても疲れていたけれど、経を少し読み申し上げ、それから休んだ夢の中で、とても高貴で美しい女人のおいでの所に参上したところ、風がひどく吹いている。その人は私を見つけて、微笑んで、「何をしにおいでになったのですか」とお尋ねになるので、「どうして参上せずにおられましょう」と申し上げると、「あなたは宮中に上がることになっています。博士の命婦とよく相談するのがよいでしょう」とおっしゃったかと思うと、夢から覚め、それが嬉しく頼もしくて、ますます熱心にお祈り申し上げ、初瀬川などを渡って、その夜長谷のお寺に到着した。祓えなどをしてから御堂に上る。三日間お籠りをして、明け方退出しようと思って、うとうとまどろんだ夜、御堂の方から、「それ、稲荷からくださった霊験あらたかな杉ですよ」と言って、何か投げ出すようにするので、はっと目を覚ますと、それは夢なのであった。

明け方、まだ暗いうちに長谷寺を出て、途中宿を取りかねたので、奈良坂のこちらよりの家を探して泊まった。これもまた何ともみすぼらしい小家である。「ここは、どうも怪しげな所らしい。決して眠りなさるな。思いがけないことが起こっても、決して怯えたり騒いだりなさるな。息を殺して寝ていらっしゃい」と言うのを聞くにつけても、ほんとうにもうとても情けなく恐ろしくて、夜明けを待つ間、千年を過ごす心地である。やっとのことで夜の明け初める頃、「これは盗人の家です。女主人が、どうもうさんくさいことをしていたんですよ」などと言う。

ひどく風の吹く日、宇治の渡しを超えると、網代のほんの近くまで船が漕ぎ寄った。

 今まで話にだけ聞いてきたあの宇治川網代を、今日はそこにうち寄せるさざ波の数を数えるまでに近々と見ることよ。

 

筑前の友

 

同じ心に、かやうに言ひかはし、世の中の憂(う)きもつらきもをかしきも、かたみに言ひ語らふ人、筑前(ちくぜん)に下りて後、会ひては、つゆまどろまずながめ明かいしものを、恋しく思ひつつ寝入りにけり。宮に参りあひて、うつつにありしやうにてありと見て、うちおどろきたれば、夢なりけり。月も山の端(は)近うなりにけり。覚めざらましをと、いとどながめられて、

 夢さめて寝覚(ねざめ)の床の浮くばかり恋ひきと告げよ西へ行く月  (七三)

 

(口語訳)

 気心が合って、こんなふうに便りを交わし、世間のいやなことも辛いこともおもしろいことも、お互いに親しく話し合っていた人が、筑前に下って後、月のことのほか明るい時分に、こうした晩には、宮家に参上し、あの人に会っては、一晩中眠らずに月を眺め明かしたものだが・・、と恋しく思いながら寝入ってしまった。すると宮家で落ち合って、実際に昔のようにその人と過ごしている夢を見て、はっと目覚めたところ、夢なのであった。月ももう西の山の端近く沈む頃になってしまっていた。古歌にあるように、夢と知っていたら覚めるのではなかったのにと、ひとしおのもの思いが募り、

あなたとお会いした夢から覚めて、寝覚めの床が涙で浮き上がるほど恋しく思われたと、どうかあの人に告げておくれ、あの人のいる西の方へ向かう月よ。

 

夫の死

 

今は、いかでこの若き人々おとなびさせむと思ふよりほかのことなきに、かへる年の四月(うづき)に上り来て、夏秋も過ぎぬ。

九月(ながつき)二十五日よりわづらひ出でて、十月(かみなづき)五日に夢のやうに見ないて思ふ心地、世の中にまたたぐひあることともおぼえず。初瀬(はつせ)に鏡奉りしに、臥しまろび泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。うれしげなりけむ影は、来しかたもなかりき。今ゆく末はあべいやうもなし。二十三日、はかなく雲煙になす夜、去年の秋、いみじくしたてかしづかれて、うち添ひて下りしを見やりしを、いと黒き衣(きぬ)の上にゆゆしげなる物を着て、車の供に泣く泣く歩み出でて行くを見出だして、思ひ出づる心地、すべてたとへむかたなきままに、やがて夢路にまどひてぞ思ふに、その人や見にけむかし。 (七七)

 

(口語訳)

夫の留守となった今は、どうかしてこの幼い子どもたちを一人前に育て上げたいと思う以外のことも考えずにいたところ、夫が翌年の四月に上京してきて、そのまま夏秋も過ぎた。

九月二十五日から病みついて、十月五日に夢のようにはかなく夫を見送って思い嘆く気持ちといったら、世の中にほかに例のあることとも思われない。かつて初瀬に鏡を奉納した時、倒れ臥して泣いている姿が見えたというのは、まさにこのことだったのだ。嬉しそうだったとかいう姿は、これまでにも思い当たることがなかった。ましてこれから先はあろうはずもない。二十三日、はかなく雲煙のように火葬にして立ち上らせる夜、昨年の秋、息子が立派に装い大事にされて、父に付き添って下向したのを見送ったのに、今日はたいそう黒い喪服の上に忌まわしい感じのするもの(素服)を着て、柩の車の供として泣きながら歩いて行く姿を家の中から見て、昨年のことを思い出す気持ちは、全く何ともたとえようもないので、そのまま夢路にさまようように思い嘆くのを、夫はあの世からきっと見たことであろうよ。

 

悔恨

 

 昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて行ひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にて前のたび、「稲荷より賜ふ験の杉よ」とて投げ出でられしを、出でしままに、稲荷に詣でたらましかば、かからずやあらまし。年ごろ「天照御神を念じたてまつれ」と見ゆる夢は、人の御乳母して、内裏わたりにあり、みかど后の御かげにかくるべきさまをのみ、夢解きも合はせしかども、そのことは一つかなはでやみぬ。ただ悲しげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれに心憂し。かうのみ心に物のかなふ方なうてやみぬる人なれば、功徳も作らずなどしてただよふ。 (七八)

 

(口語訳)

 昔から、とりとめもない物語や、歌のことばかりに熱中せずに、日夜心に掛けて仏道修行をしたのであれば、全くこんな夢のようにはかない世を見ずにすんだのであろう。初瀬に最初の参籠の折、「稲荷からくださった霊験あらたかな杉ですよ」と言って投げ出されたのを夢に見て、寺を出たなりすぐさま稲荷に参詣していたなら、こんな目に合わなかったであろう。長年「天照御神をお祈り申し上げなさい」と見てきた夢は、私が高貴な人の乳母になり、宮中辺りに出仕し、天皇、后の御庇護を被るようになるだろうとばかり、夢解きも判断したのだけれど、そのことは何一つ叶えられずじまいだった。ただ悲しそうだと見た鏡の中の姿だけが的中したのが、しみじみと悲しく辛い。こんなふうに何一つ思い通りにいかずに終わってしまう私なので、功徳も作ろうとしないままに、ふらふらどっちつかずの日々を過ごしている。

 

阿弥陀仏の来迎の夢

 

さすがに命は憂きにも絶えず長らふめれど、後(のち)の世も思ふにかなはずぞあらむかしとぞうしろめたきに、頼むこと一つぞありける。天喜三年十月十三日の夜の夢に、居たる所の家のつまの庭に、阿弥陀(あみだ)仏(ぼとけ)立ちたまへり。さだかには見えたまはず、霧ひとへ隔たれるやうに透(す)きて見えたまふを、せめて絶え間に見たてまつれば、蓮華(れんげ)の座の、土を上がりたる高さ三四尺、仏の御たけ六尺ばかりにて、金色(こんじき)に光り輝(かかや)きたまひて、御手、片つ方をばひろげたるやうに、いま片つ方には印を作りたまひたるを、こと人の目には見つけたてまつらず、われ一人見たてまつるに、さすがにいみじくけおそろしければ、簾(すだれ)のもと近くよりてもえ見たてまつらねば、仏、「さは、このたびは帰りて、後に迎へに来(こ)む」とのたまふ声、わが耳一つに聞こえて、人はえ聞きつけずと見るに、うちおどろきたれば、十四日なり。この夢ばかりぞ後(のち)の頼みとしける。 (七九)

 

(口語訳)

 とは言えやはり私の命は辛いながら絶えることなく長らえているようだが、現世がこんなことでは後世も思い通りにはいくまいと気がかりだが、実は頼みに思うことが一つだけあったのだ。天喜三年十月十三日の夜の夢に、私の住んでいる家の軒先の庭に、阿弥陀仏がお立ちになっている。はっきりとはお姿は拝見でき、霧を一重隔てているかのようにぼんやり透けてお見えになるのを、強いて霧の切れ目から拝すると、蓮華の台座が、土から三、四尺上がった所に浮かんで、仏の御丈は六尺ほどで、金色に光り輝いておいでになり、御手の、片方は広げたようにして、もう片方は印を結んでいらっしゃるのを、他の人の目には拝することもできず、私だけが一人拝見していると、忝く思うもののやはりたいそうそら恐ろしいので、簾のそば近くまで寄って拝見することもできないでいたところ、仏様が、「それでは、今回は帰って、後に迎えにこよう」と仰せになる声が、私の耳だけには聞こえて、ほかの人は聞きつけることができないでいる。とそんな夢を見て、はっと目を覚ますと、十四日であった。この夢だけを後世の頼みとしたのであった。

 

孤独の日々

 

年月は過ぎ変はりゆけど、夢のやうなりしほどを思ひ出(い)づれば、心地もまどひ、目もかきくらすやうなれば、そのほどのことは、またさだかにもおぼえず。

人々はみなほかに住みあかれて、ふるさとに一人、いみじう心ぼそく悲しくて、ながめ明かしわびて、久しうおとづれぬ人に、

茂りゆく蓬(よもぎ)が露にそほちつつ人に訪(と)はれぬ音(ね)をのみぞ泣く

尼(あま)なる人なり。

  世の常の宿の蓬を思ひやれそむきはてたる庭の草むら (八二)

 

(口語訳)

歳月は過ぎ移り変わっていくけれども、夢のようであった夫との死別の当時を思い起こすと、気持ちも乱れ、目の前も真っ暗になるような気がするので、その当時のことは、再びはっきりとは思い出すことができない。

 共に住んでいた人々は皆ほかの所に別れ別れに住み、長年暮らした家にたった一人、何とも心細く悲しくて、もの思いにふけりながら夜を明かしかねて、久しく便りのない人に、

ますます生い茂る蓬の露に濡れながら、人から訪ねていただけない寂しさに声を上げて泣いてばかりです。

歌を贈った相手は尼になっている人であった。

そんなふうにおっしゃってもあなたの方は世間普通の御邸の葎の茂りですね。どうかお察しください、私のようにすっかり世を捨てた者の庭の草むらを。

 

 

クレッチマーの分類

クレッチマーの体格と病気との関係-気質の視点-

クレッチマー(1888-1964、ドイツの精神医学者、体格と性格との関係を研究)は、臨床経験から、

体格のタイプにより特定の病気の確立の高いことを述べており、人相学にも大きな影響を与えています。そのクレッチマーの三分類に手を加えたものを以下に紹介します。問題点としては、精神科医に訪れた人を対象に調査したものであるので、健康な精神状態の人に適応できるかどうかということがあげられます。

 

【概要】

1そううつ質(肥満型)

社交的で陽気な時期と暗い時期が交互にくる。

2分裂質(細長型)

非社交的。静かで敏感と鈍感の両面を持つ。

3粘着質(筋骨型)

てんかん質ともいう。几帳面で実直。

【解説】

痩せ型

全体的にやせて青白い感じで、特に手足が長い印象を受ける。

分裂症(統合失調症・ストレスを溜めやすく、消化器系が弱い。

冷たくて気難しく、非社交的で周囲に無関心な性格のことが多い。

内向的で不満が多く、劣等感・鈍感・従順さと傲慢さ・敏感さとが同居している。

物静か・内気・非社交的・繊細

超然型・不満型・理想型・夢想型・独善型・愚鈍型に細分類できる。

(例)芥川龍之介川端康成

顔の形としては、逆三角形型。頭の大きさは小さめ。「

(筆跡)「肉細」「転折角」「縦長文字」「収斂点型」が多い。

(アドバイス

適度なストレス発散を心がけてください

消化器系が弱いかもしれません。暴飲暴食を慎み、ゆっくりとよく噛んで食べましょう。

 

丸型(ふとり型)

頭でっかちで首が太くて短く、手足や短く、指が丸っこい印象を受ける。

躁鬱症・美食家や飲酒家が多く、糖尿病や心臓病などの傾向がある。

親切で明るく社交性に富み、善良さと暖かさをもつ。

美食家などに多い。

社交的・おおらか・親切・善良

躁と欝との気分のむらがあるが、屈託がない。

(例)石原裕次郎開高健

顔の形としては、丸型。「

(筆跡)「肉太」「接筆開」「転折丸」「行左よりまたは行下部左ズレ型」が多い。

(アドバイス

暴飲暴食に気をつけて、バランスの取れた食事に気をつけましょう。

 

筋骨型(筋肉型)

骨組みががっしりとしており、男性は逆三角形の理想の体型で、女性は大柄な印象を受ける。

てんかん筋骨が発達し体力がある。血圧・がん・心臓系に注意が必要。

几帳面で粘り強く、頑固な人が多い。

粘着性が強く鈍感だが、いったん興奮すると不覚にもカッとなる。

几帳面・頑固・忍耐強い・凝り性・真面目

けちでしまりやで、思想的には保守的だが、ときによると急進派の先鋒となり、爆発性を示す。

(例)三船敏郎加藤剛太地喜和子美空ひばり

顔の形としては、四角型か五角形。頭は大きめ。「

(筆跡)「角ばった文字」「大字」「起筆ひねり」「ハネ強」「筆圧強」が多い。

(アドバイス

体力に自信がありそうですが、血圧などに注意しましょう。

健康を過信せずに適度に健康診断を受診しましょう。

 

④発達異常型

 の

性格

性格について

「性格は変わるか」については、さまざまな意見があります。先天的な部分と後天的な部分とがあることはいうまでもないでしょう。行動主義者は、死刑廃止の立場をとっています。つまり、どんなに歪んだ強化歴を持つ人でも、新しく望ましい、そして強力な環境の中に置かれれば悪い行動パターンを改めていけると、行動主義者は考えているようです。ユングは、人との関係性によって変わるペルソナということを述べました。そう考えると、性格は固定したものではないということになります。ウォルター・ミッチェルは性格については、「性格はその場の背景によって決まる」とも述べていますし、「性格は変えられないが行動は変えられる」ともいわれています。マルコム・グラッドウェルは、「性格とはむしろ、習慣や志向性や関心の束のようなものであり、それぞれゆるやかに結ばれ、時と場合と背景しだいに変わるものなのだ」と述べています。

心理学者の佐藤達哉氏は、性格についての研究で有名ですが、性格ができる要素を次のように三つに分類しています。

 

○生まれつき

気質や素質

○強化歴

環境(家庭環境・学校や職場の環境・友人や先生との関係)への適応

○現在

現在の家族関係・対人関係・学校・職場への適応

 

教育の三要素というものがありますが、それは「家庭教育」「学校教育」「社会教育」で教育の力も大きいと解釈できます。国分康隆氏は、「モデリング」の重要性についても指摘しています。つまり、どのような上司・先生と出逢い、尊敬したかということの重要性です。やはり、多少は師匠に似るという面もありますので、重要だと思います。

同格「の」の教え方

古典における同格「の」をどのように教えるか

岡田 誠

 

 

論者は、二十年以上、高等学校と大手予備校で、古典及び古典文法の授業を担当してきた。その際に、生徒を指名したり、練習問題の演習を行ったりすると、主格の「の」と同格の「の」の箇所で躓いてしまい、理解のできない生徒を数多く見てきた。そのため、論者も説明を工夫したり、板書事項を工夫したりと工夫をしてきた。その際、大学入試用の学習参考書も、整理整頓されていて、たいへん参考になった(注一)。生徒の躓く点としては、第一として、「の」は主格なのか、同格なのかの区別がつきにくく、どちらで解釈しても意味は通ってしまう点である。第二としては、同格の口語訳として「で」「であって」「であって、しかも」という口語訳が断定的な性質の口語訳であり、同格として違和感を覚えるというものであった(注二)。

第一の構造に関しては、椎名守(一九九四)『勝つための古典文法五〇』(三省堂・一九一頁)の図解が板書するのにたいへん有効であった(注三)。簡単に示すと以下のような図解である。「の」を挟んで、補われる名詞動詞が同格であることが明示できて、便利であった。

 

名詞+・・連体形(名詞)+読点・助詞・動詞

 

(例文)

白き鳥、嘴と足と赤き(鳥)鴫の大きさなる(鳥)水の上に遊びつつ魚を食ふ。(『伊勢物語』)

 二

小さき(葵)うつくし。(『枕草子』)

 三

卯槌の木よから(木)切りておろせ。(『枕草子』)

 

 第二の口語訳の違和感である。この点については、教師用指導書(別記)として書かれた、岡崎正継・大久保一男(一九九一)『古典文法別記』(秀英出版・一六三頁)では、「の・で・であって」の三首里の口語訳を紹介し、例文では同格の「の」はそのまま「の」と口語訳し、連体形の下に「の・のもの」を入れ、「の」を重ねて「の・・・の・のもの」としている。また、同格という立項ではなく、「対等格(同格)」と立項している。この口語訳の付け方は、たいへん参考になった。その一方で、望月光(一九九四)『望月古典文法講義の実況中継 上』(語学春秋社・二六六頁)は同格の「の」に特殊な口語訳を施しており、関係代名詞の発想で日本語の構造の上下を逆転させ、下から上へという口語訳で関係代名詞のような口語訳も紹介している(注四)。以下の先に示した例文の口語訳を示す。

 

(口語訳の例)

一 

(一般的な口語訳)

白い鳥、くちばしと足とが赤い鳥、そして鴫の大きさの鳥が水の上で遊びながら魚を食っている。

(対等格の口語訳)

白い鳥、くちばしと足とが赤い鳥、そして鴫の大きさが、水の上で遊びながら魚を食っている。

(関係代名詞的な口語訳)

くちばしと足とが赤く、鴫の大きさの白い鳥が、水の上で遊びながら魚を食っている。

二 

(一般的な口語訳)

葵で小さい葵もかわいらしい。

(対等格の口語訳)

葵の小さいのもかわいらしい。

(関係代名詞的な口語訳)

小さい葵もかわいらしい。

三 

(一般的な口語訳)

卯槌にする木適当な木を切っておろしてくれ。

(対等格の口語訳)

卯槌にする木適当なものを切っておろしてくれ。

(関係代名詞的な口語訳)

適当な卯槌にする木を切っておろしてくれ。

 

この説明は、役割としての説明としてはわかりやすいが、この口語訳を採用すると日本語の構造の上から下へという説明が崩れてしまうので、あくまで英文法の関係代名詞的な用法と似ているという説明ぐらいで止めたほうがよいであろう。口語訳しない「の」を設定するのも、古典文法の教育としては避けたいところである。

この同格の「の」の例のように、高等学校と大学とを結ぶタイプの学習参考書には、啓発される点が多い。このタイプの学習参考書も活用しながら、日々の授業に生かすことの有効性を、同格の「の」の構造と口語訳の例を用いて述べた次第である。

 

 

石井秀夫、村上本二郎、小西甚一の著作をはじめ、高等学校と大学との古典をつなぐタイプの学習参考書の存在は重要である。その重要性は、中村幸弘(國學院大學名誉教授)からの御教示いただいた。

この同格の口語訳の問題点については、英語の関係代名詞との比較立場で、拙稿(二〇〇四)「英文法との比較からみた古代日本語における同格用法への疑い」『アステリスク』(六号)で取り上げた。他に、同格という用語以外の諸説をまとめ、同格を認定しない立場を示したものとして、鈴木浩(二〇〇八)「『同格』考」『実践女子短期大学紀要』(第二九号)がある。

椎名守は、予備校や学習参考書での名義であり、本名は、千明守(故人・元國學院栃木短期大學教授)で『平家物語』の諸本の研究者である。同格の分類に関しては、近藤泰弘(一九八一)「中古語の準体構造について」『国語と国文学』(五八巻五号)、小田勝(一九九一)「所謂『同格』の表現価値について」『国語研究』(五五号)、小田勝(二〇一五)『実例詳解古典文法総覧』(和泉書院)が詳細に調査している。

鈴木浩(二〇〇八)「『同格』考」『実践女子短期大学紀要』(第二九号)によると、関係代名詞としての特性を論じたのは、湯澤幸吉郎であると指摘している。

 

 

 

 

 

 

漢文の学習参考書 中野清 宮下典男

中野清 斎京宣行 飯塚敏夫

中国語と漢文訓読という視点で捉えている著作をなしたのは、中野清、斎京宣行、飯塚敏夫の参考書である。そのため、国文法への記述にも多くを割いている。

長所としては、訓読と古典文法とを関連付けながら行った点にある。これによって、どのような訓読を行うのがよいのかを示したことにある。

短所としては、漢文の語学的な側面が強すぎて、背景的な知識が欠如することでがあげられる。漢文の背景となる知識が欠如しがちである点が惜しまれる。

 

宮下典男

 中国語と漢文訓読と英語とを折衷する形で示したのが、宮下典男の著作である。

長所としては、英語と中国語とを比較した画期的な視点である。また、漢文単語集のようなものも発売し、漢文の背景となる基礎知識も提供した点も、評価できる。

短所としては、語学的すぎ、すべてをきれいに英語と強引に対応させようとしているため、読んでいて疲労を感じる。

漢文の学習参考書ー小倉勇三・多久弘一・田中雄二

小倉勇三 多久弘一 田中雄二

小倉勇三『漢文ミニマム攻略法』、多久弘一『多久の漢文公式』『多久』の漢文講義の実況中継は、昔ながらの漢文句形を中心にした教科書的なものである。長所と短所というものはなく、特に特徴はないが、漢文の余話が取り入れられている点であろう。それぞれ、高等学校の教師を行っていた経験からくる、句形を整理して示したものである。特に、小倉勇三『漢文ミニマム攻略法』は、そののち、日栄社の『漢文の基本ノート』、河合出版の『漢文句形ドリルと演習』、田中雄二『漢文 早覚え即答彭』(学研)につながることになった点で、流れを成している。

アメリカの教育の流れ

(19)教育思想史(4単位)

 

進歩主義教育とアメリカの教育観・人間形成観の変遷

 

1.啓蒙主義期の教育思想

 

1.1フランクリンの教育思想

 

18世紀から19世紀前半の教育思想は、啓蒙主義期の教育思想の時期とされる。アメリカの教育思想を扱う上で、アメリカ人のシンボルともいわれる、ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)は重要である。自律的人間(self-made man)の体現者とも近代の啓蒙主義や資本主義のモデルを示したことで知られているからである。

フランクリンは、ボストンの蝋燭職人の息子として生まれ、印刷所の徒弟奉公で印刷技術、文章作法を学んだため、制度的な教育をほとんど受けていなかったといえる。しかし、学術組織や教育制度の整備についての構想を持っていた。それが体現されたのが、ペンシルバニア大学の前身である、1751年の「フランクリン・アカデミー」「フィラデルフィア・アカデミー」の創立である。その教育思想は、1743年に「アメリカにおけるイギリス植民地のあいだに有用な知識を普及させるための提案」の提案を示している。フランクリンの提案は、「最も有用で最も装飾的な」事柄が教えられる「アカデミー」の必要性を指摘しており、書法、絵画、算術、会計、幾何学天文学をあげている。また、語学を重視する傾向があり、要約、朗読、演説、ギリシア語・ラテン語、フランス語・ドイツ語・スペイン語を学ぶことを主張した。また、歴史を重視し、あらゆる有益な知識や地理学・年代学・古代の習俗・道徳が学ばれると考えていた(高柳:2016)。

そして、『フランクリン自伝』に代表されるように、その教育思想の基本にあるものとしては、独立、自由、勤勉とったモダンな価値観であり、全般に「親切心」を陶冶すべきであることを強調している。これは、「リベラル化されたプロテスタンティズムの資本主義精神」である(教育思想史学会編:2000)。ここには、合理性・実用性・現実性を重視することで、有益な知識習得が個人及び他者に対しても有用な人間の育成につながるという視点を有することに特徴がある。アメリカ的な「一回性の人間」というアメリカの伝統をなす最初にあたる人物である。「一回生まれ人間」とすることで、完成可能な存在としたのである。この実用的な教育・学習を志向する中等学校としてのアカデミーは、19世紀に入って、全米で普及することになった(高柳:2016・教育思想学会編:2000)。いわば、アメリカ的な教育思想に多大な影響を与えた人物であると言える。

 

1.2ジェファーソンの教育思想

 

トマス・ジェファーソン(1743-1826)は、ヴァージニア植民地に生まれ、独立宣言の最初の草稿の執筆者に選出されている。第三代大統領在任中は、教育関連の法制化は行っていないが、ヴァージニアに戻ってからは、独立した学部(スクール)によって構成される州立の高等機関を構想し、1819年にヴァージニア大学を設立した。

ジェファーソンの教育思想は、ヴァージニア議会に提出した「知識の一般的普及に関する法案」(1779)に示されている。その中で、個人の自然権の自由な行使を保護するために、民衆一般の知性をできるだけ実際的に啓蒙することが述べられている。さらには、天賦の才能と徳を持っている人物を持っている人物を養成する必要を述べている。そのためには、広く才能や徳のある子どもを見つけ出し、公費によって教育する必要がある。このように、ジェファーソンの教育思想は、共和制国家における民衆全般の知性を啓くための教育と、その国家における政治・行政的エリートを民衆から選別し、国家のリーダーにふさわしい教育という点が特徴的である(高柳:2016)。

ヴァージニアに戻ってからの書簡には教育関連の事が記されており、人間の「完成可能性」「自己統治」の実現可能性を疑わない点では、ヨーロッパの啓蒙思想を受け継いでいる(教育思想学会編:2000)。ジェファーソンの独立宣言の中では、「すべての人間が平等にかつ独立に造られている」と記されている。しかし、そこには先住民や黒人に対する記載はない。「すべての人間は」野蛮人を征服することを許された文明化された人間だけである(教育思想学会編:2000)。この点では、西欧の文明人優位思想であり、差別問題へとつながる思想の底流が感じられる。

 

1.3マンの教育思想

 

アメリカにおいて、すべての子どもが無償で公的学校教育を受けることができる制度の本格化は、19世紀前半である。その先鞭をつけたのは、アマリカ公教育の父とされる、ホーレス・マン(1796-1859)である。マンは、マサチューセッツ州で、学校教育改善に関する情報収集や資料提供に尽力し、コモン・スクールの整備のために尽力した。その時代状況としては、富裕層の子どもは私立に通い、公立学校は貧弱で設置基準が守られていなかったことがあげられる。その原因としては、工業化によって低賃金の児童労働の需用の高まりによる教育よりも労働という意識と、無償の公立学校は貧困層の通う慈善的なものであるという意識が強かった点があげられる(高柳:2016)。

マンは、教育の普及は自由で公平な社会の実現のための政治的課題であるとみなし、教育への権利は、すべての人間が生来持っている絶対的な自然権であり、すべての人に教育を提供することは、政府の義務であると主張した(高柳:2016・教育思想学会編:2000)。マンは、コモン・スクールでは、宗教的義務は自ら判断するものであるとして、異なった宗派の子どもたちが一緒に聖書を読むという中立的な宗教教育の方法を確立した。これは、義務就学・無償・共通の宗教的に中立な公教育体系の確立の構想の実践であると考えられる。  

その一方で、道徳性・知的能力を備えた有能な労働者の育成が安定性をもたらし、資本家の財産を増やし、経済的な安定をもたらすとも論じているため、功利主義啓蒙主義、楽観主義とが錯綜している特徴がある。また、公立学校システムを民衆統制機構、階級構造の再生産装置としたなどの批判もある(教育思想史学会編:2000)。マンの教育思想の基盤には、ユニテリアニズム信奉があるため、教育改革による知識の普及によって、人間の性善性・改善性が開花し、個人と社会とが救済されると確信していた(教育思想史学会編:2000)。

その点では、思想の錯綜とは思っていなかったであろうと推測できる。マンのユニテリアニズムは、後のアメリカの教育思想につながる底流の一つであると言える。

 

1.4エマソンの教育思想

 

19世紀の啓蒙主義アメリカにおいて、ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803-1882)は、次の進歩主義教育への橋渡しの存在として位置づけられている。エマソンの特徴としては、有限な人間のうちにこそ普遍へとつながる可能性があると考える超越主義があげられる。これは後に個人主義の基礎となる考え方である(高柳:2016)。

エマソンは「自己信頼」を述べたが、それは単純な楽観主義ではなく、教育を単に社会化とみなすのではなく、また個の確立を社会から切り離して主張するものでもない。社会への関わりを引き受け、その関わりの内側から社会の変容への道筋を探ることが、同時にみずからが他者との関わりにおいて変わりゆく過程となるという二重の転回のことであり、「追従」という言葉で表現している。19世紀アメリカ国民の教師として親しまれているエマソンの教育思想は、合理主義や物質主義のもとで発展・整備されてきた公教育制度が、個性を疎外している状況を批判し、個性を尊重し、子どもの自発性と可能性に絶対の信頼を寄せた点に特徴がある。

その個性尊重の教育思想は、体系や論理性を重視しない、子どもの個性の中に神性を直観する万有存在論的なロマン主義、了解的認識を特徴としている。に立脚している。後にニーチェやデューイがエマソンを愛読したことでも知られる。特に、デューイはエマソンを愛読し、「民主主義の哲学者」と呼んだ。こうして、デューイの教育論、パーカーストの教育論、20世紀の進歩主義教育の流れに実践的に受け継がれていくことになる(教育思想史学会編:2000)。

このようにエマソンは、フランクリン、ジェファーソン、マン、というアメリカ的な自由意志や合理主義主体の流れとは異なる論を展開した。その点で、次の19世紀後半以降の進歩主義教育の流れに影響を与えた点で重要である。

 

2.進歩主義教育運動の思想

 

2.1革新主義期のアメリカという社会的背景

 

啓蒙主義の合理的精神は、革新主義期のアメリカも、その流れの上にあり、「教え」「育てる」中心の「社会主義効率主義」であった。革新主義のアメリカも、その流れの上にあり、その1916年にルイス・ターマンが、「スタンフォード=ビネー」テストを出版し、メンタル・テスト運動が加速した。ロバート・ヤーキーズも軍人に使用可能な陸軍知能テストに発展させ、1920年には国民知能テストが完成した。ヘンリー・ゴダードは『カリカック家』の中で、知能が遺伝であり、知能指数が低いと犯罪者、精神薄弱者になる点などを心理学者が主張した。このメンタル・テスト運動は、環境の影響や教育の影響を受けないとする点は問題であり、ウォルター・リップマンは環境からの影響、教育が果たす役割がこのような社会では軽視されてしまうとして批判した。また、文化人類学の立場からも文化環境の視点からも、フランツ・ボアズは文化的環境がもたらす影響を論証し批判を加えた。

 

2.2進歩主義教育の代表的実践とその思想

 

教育とは「教え」「育てる」とする考え方の一方で、子どもの自主性、自発性、興味・関心を重視し、子どもの成長・発展を目指す考え方がある。この新教育運動は「進歩主義教育」と呼ばれる。アメリカでは、ドルトン・プランとウィネトカ・プランの進歩主義教育がその嚆矢である。ドルトン・プランとは、ヘレン・パーカースト(1887-1973)によって生み出されたもので、「自由」と「協働」の原理を掲げ、日本の大正自由教育に多大な影響を与えた。一方、ウィネトカ・プランは、カールトン・ウォッシュバーン(1889-1968)の生み出したもので、ドルトン・プランとの相違点は、子ども中心主義が子どもの興味・関心に流された教育になることへの強い批判意識である。また、協働を柱としたゲーリー・スクールがある。ゲーリー・スクールは、ウィリアム・ワート(1874-1938)の生み出したもので、学校を一つのコミュニティにし、そのコミュニティの文化的実践に子どもが参加することが中心になっている。ウィリアム・ワートは、シカゴ大学で学び、学校を一つのコミュニティとし、そのコミュニティの文化的実践に子どもが参加する点には、デューイの教育哲学に大きな影響を受けていることがわかる。進歩主義教育の基本的な思惟方式は、プラグマティズムであり、実践者としてデューイが代表的な人物だと言える。赤星晋作(2017)は、この進歩主義教育を「文化内容の伝達と内的本質の助成で、より内的本質の助成を強調する動きである」(p.9)と定義している。

1930年代に登場した「社会改造主義」は、既存の社会を変革する姿勢の点で不十分だとして、進歩主義教育を批判した。その中でも、ジョージ・カウンツ(1889-1974)は、学校を社会改造の起点とするためには、子どもの関心に従うよりも、民主的で協働的な文化を教え込むことが不可避だと主張した。

しかし、この主張に関しては、進歩主義教育の個人的側面を強調する一方で、社会的共同や社会改善という市民教育という両義性のウェイトの置き方に論点がある点では異なるが、思想的には子どもの成長・発達を助成するという思想的基盤としては同じである点を含んでいる。進歩主義教育の思想は、学校教育の使命とは何か、学校とはどのような場であるべきかといった、リベラリズムを基盤としたアメリカの伝統的な生活様式を支配してきたイデオロギーがよく表れている。

 

3.デューイの教育思想

 

3.1アメリカ社会とデューイ

 

アメリ進歩主義教育思想を代表する人物として知られるジョン・デューイ(1859-1952)は、19世紀後半から20世紀前半という、アメリカ社会が大きな転換点を迎えた中で、民主主義の理念を擁護して教育実践に深く関与した思想家であった。デューイは、「善い人の実現」という点でルソーの教育思想に近いとされ、哲学と教育学の業績があるが教育学の主著に『経験と教育』『学校と社会』『民主主義と教育』などがある。デューイは、シカゴ大学に教育学科を新設し、1896年にそこに一つの実験学校(1896年-1903年)を設立した。その後、1902年に「実験学校」と名称を変更した。そこでは、協同的な学びの活動を擁護し、学び合うコミュニティを中核とする学校を構想した。その学校は、ナーサリー、エレメンタリー、ミドル、ハイの四つの段階から構成された。

この実験学校でデューイは、教育の中心を教師から児童へと移し、児童中心の教育を行い、そこでの実験とその理論的裏付けを述べたものが『学校と社会』である。デューイは『学校と社会』で以下のように述べている。

 

机がきちんとならべられている伝統的な学校教室から暗示を受けるもう一つのことは、できるだけ多数の子どもたちをとりあつかうために、つまり、子どもたちを個々のものの集合体としてひとまとめにとりあつかうために、すべてあんばいされているということである。ということはまたしても、子どもたちが受動的にとりあつかわれることを意味する。子どもたちは活動する瞬間、みずからを個性化する。かれらは一群ではなくなり、各自それぞれにはっきりした個性的な人間になる。校外で、家庭で、家族のあいだで、遊び場で、隣り近所で、われわれが平素おなじみの、あのひとりひとりの子どもたちになるのである。(pp.47-48)

 

このように従来の「教える者」主体の伝統的教育を「旧教育」と呼んでいる。そして、個性的な存在としての子どもにするために、受動的な従来の旧教育を批判している。この点については、「実際には、より以上の成長以外は、成長と対比されるものは何もないのだから、より以上の教育以外に、教育が従属するものはなにもないのだ」(『民主主義と教育 上』p.89)と述べていることから、子どもの成長に焦点を当てた個性を伸ばそうとする教育に力点が置かれていることがわかる。

また、「間違いは、将来の必要のための準備を重視するのではなく、それを現在の努力の主要動機とする点にあるのである。絶えず発展しつつある生活のために準備することは大いに必要なのであるから、現在の経験をできるだけ豊かに有意義にすることにあらゆる勢力を傾注することが絶対に必要なのである」(『民主主義と教育 上』p.96)と述べているように、子どもの活動を通じて個性を尊重し、「為すことによって学ぶ」という意味において、経験の連続性と相互作用、経験の再構成等を重視していることがわかる。

 

私は旧教育の類型的な諸点、すなわち、旧教育は子どもたちの態度を受動的にすること、子どもたちを機械的に集団化すること、カリキュラムと教育方法が画一的であることをあきらかにするためにいくぶん誇張してきたかもしれない。旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の本能と活動以外のところにある。それでゆくなら、子どもの生活はあまり問題にはならない。・・〈中略〉・・いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり、革命である。このたびは子どもが太陽となり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。(p.49-50)

 

このように、「教えられる者」が主体となる教育は進歩的教育、民主主義教育などと呼ばれるが、このことをデューイは、「コペルニクス的転回」と表現している。これはまさに、伝統的教育への挑戦状のようなものである。デューイの思想は、経験・行動・実践を重視する思想学派である、プラグマティズムの中から生まれたといわている。しかし、プラグマティズムの影響も受けてはいるが、パース、ジェイムズ、ミードの三者の影響を受けながらも(教育思想史学会編:2000)、教育を成長としてとらえており、むしろ、「子どもの発見」という意味では、ルソーの流れであろう。村井実(1976a)は、以下のように述べている。

 

歴史上の思想に具体例をとれば、たとえばデューイの教育思想は、教育において目的像すら必要でないという彼自身の主張にしたがえば、少なくとも意図的には過程像志向のタイプに属する。これに対して、多くの教育思想は、たとえば武士教育の思想というばあいのように、積極的な結果像志向のタイプに属する。(p.173)

 

ただし、ルソーとデユーイとの相違点も指摘されている。それは、「善い人」の実現である。村井実(1976a)は、E-MⅢがデューイの特徴であるとして以下のように述べている。

 

もっぱら、自分自身の自発性によって、しかも、E(過程像)のイメージによる外からの働きかけを手がかりとしつつ、自分自身のE(結果像)としての『善い人』を実現していくことになる。(p.192)

 

ルソーの流れでは、MⅡ(自発性に任せる・自由に放任する)という手段像も結果像としての「善い人」に支配されることへの反発である点で「善い人」=「結果像」という単純な図式に陥っていることになる。この二つに対してデューイのEⅢという一方では子ども自身がいずれはE=「善い人」(結果像)を自分で作り出すものとして期待されており、同時に親や教師がE=「善い人」(過程像)のイメージで子どもに働きかけることが期待されている(注1)。

 

3.2教育の公共性と民主主義

 

デューイは、19世紀の自由放任的な市場のリベラリズムと1930年代以降のニューディール的なリベラリズムの両方を批判し、民主主義と公共性を原理とした教育を探究し続け、民主主義と教育とは、相互的、互恵的な関係にあると考えた。赤星晋作(2017)は、以下のように評価している。

 

デューイ、キルパトリック、ホプキンス等の進歩主義教育学者によるカリキュラム改革運動の中での生活問題の解決を中心とするコアカリキュラム、それらの問題の解決過程を学習形態として組織した問題解決型学習やプロジェクト・メソッド、さらには社会的現実と取り組み、より良い社会の実現をめざそうとするコミュニティ・スクール等もデューイ及びその学派の進歩主義教育学から生まれ、アメリカ教育の基盤が形成されていく。

 

4.進歩主義教育批判の諸相

 

4.1公的教育の整備とアメリカ社会の変動

 

19世紀末から国民国家の発展にともなって各国ではそれを支える公的な教育制度の整備が進んだ。アメリカの場合にはそれが進歩主義教育であった。その時期、人口も大きく変化した。1890年に6300万人だったものが、1910年には9197万人に増加した。それは移民が主なものであった。こうした中で、1890年代から1920年代にかけて「革新主義」「進歩主義」と呼ばれる改革運動が展開された。特徴としては、第一に産業化と都市化を社会の不安定要因とみなしていたこと、第二に大都市と大企業が個人のイニシアティブや機会の平等というアメリカの理想や理念を阻害するとみていたこと、第三は社会の秩序の回復には政党よりも専門家が主導権をとる政府が権限を行使することが不可欠であると考えていたことである。

 

4.2革新主義期社会改革と新教育運動の交差としての進歩主義教育

 

進歩主義教育の多元性は、一方で国内の革新主義による社会改革、もう一方で新教育運動という世界的な教育動向との交差のうえに成立・展開している。国民国家の発展に伴い整備・発展した公的な教育制度が、新たな産業や資本主義の成長に対応するための革新を求められたものとみることができる。アメリカでは州ごとに教育の制度的発展や形態、特色が異なる。19世紀の半ばにマサチューセッツ州において、先駆的に就学義務や教員養成の制度化が推進され、南北戦争の19世紀末までには、ケンタッキーとウェスト・ヴァージニア以外の南部を除く多くの州で義務就学が法制化された。一番遅いミシシッピでも、1918年には法制化されたのである。

 

4.3主流化とそれへの対抗・批判としての教育思想

 

20世紀初頭のアメリカの教育改革運動は、大きく二つの方向が競合しながら共存していた。つまり、「子どもの自己活動を組織して社会化を図る子ども中心主義的・生活主義的方向」と、「将来の社会生活に最低限必要とされる基本的教育内容やその教育効果を科学的方法によって測定することで、教育の標準化や効率化、個別化を図ろうとする社会生活優先主義的、教科主義的方向」である。この二つを含める広義の進歩主義教育と、前者だけを示す狭義の進歩主義教育とがあることになる。

こうした動向の中で、1910年代以降、それまでの8年生の小学校・4年生のハイ・スクールという制度に代わり、小学校6年制ですべての子どもが共通の基礎的な家庭で学び、続いて進学するジュニア・ハイ・スクールの3年間で将来の進路や職業に応じた課程への振り分けを行い、その後、就職する者やシニア・ハイ・スクールへ進学する者とにコースを分けて行くという考え方が有力になった。

20世紀アメリカの教育思想を類型化する考え方がある。単純なものとしては、「伝統主義(保守主義)」と「進歩主義自由主義)」とがある。前者は、教師主導で教科書中心の教授様式や子どもの受動的な学習態度のもとで、過去から伝承された知識や技能を教えることを重視する立場である。後者は、子ども(学習者)の自由や積極的な活動。経験を中心として教育を組織化し、社会生活やコミュニティ構成に有用な学習を促進しようとする立場である。

他に、「伝統主義」を「エッセンシャリズム(本質主義)」と「ペレニアリズム(永遠主義)」の二つに、「進歩主義」を「進歩主義」と「改造主義」の二つに区分けするブラメルドの示した枠組みもある。エッセンシャリズムは、社会や文化が伝統的に継承してきた遺産、学問的知識、芸術、道徳、慣習、技術などを本質的な知識として着実に伝達することが使命であるとする考え方である。ペレニアリズムは、永遠の知識や原理、真・善・美という永遠不変の価値観を理性によって習得することを目指したものである。

 

4.4進歩主義批判

 

主流化した進歩主義教育に対しての伝統的な批判ということも行われた。むしろ、伝統的なもののほうが革新的に見えることの反映であろう。デューイに対しての批判者として、ハグリー(1874-1946)とハッチンズ(1899-1977)をあげることができる(注3)。これに対してデューイは、三点の批判を行った。第一に、ハッチンズが人間性を固定的であると捉え、また真理もあらゆる場所で同一であるから、いかなる政治的・社会的・経済的条件のもとでも教育は同じものとなるとする点である。第二に、ハッチンズが職業教育を問題視し、一般教育と完全に切り離して考えている点である。第三に、ハッチンズが普遍的学問の中に存在するとする真理を、理性によって認識することを重視する点である。これに対してハッチンズは反論した。その反論は、第一に古代・中世の哲学者の教えを学ぶことで、知的伝統を学び直し、再活性させる必要があるとする点である。第二に、経験科学は単なるデータの収集とする考え方を論難し、古典的名著の3分の1は自然科学に属するとした点である。第三に、古典的名著は、現代の問題を議論するために社会科学が重要な位置を占めているとした点である。第四に、ファシズムは哲学不在の帰結であり、直接的・実際的な関心にかまけて、知的伝統や知的訓練が崩壊したときに起こるものだと主張した点である。

ハグリーも、ハッチンズも、デューイの思想と二律背反するものではなかった。主流化した進歩主義思想に対抗した伝統主義教育思想が、実は革新的な役割を担ったのである。ハグリー、ハッチング、デューイの論争は、第二次世界大戦ソヴィエト連邦の情勢の変化、生活適応教育運動を通じて、進歩主義教育は衰退していった。進歩主義協会も1955年には解散された。1957年には、「スプートニク・ショック」によって、アメリカ教育のあり方は根本的な見直しが迫られることになった。

このスプートニク・ショックによって、「国際防衛教育法」(1958年)が成立し、1950年代末からは、科学技術教育の強化、外国語教育の振興が重視され、自然科学関連の教科のカリキュラム改革が実施されていった。そして、教科や学問を重視する教育思想が主流となったが、ドロップアウトする学生の問題が生じた。その結果、1960年代の後半には、マズロー、ロジャースの影響化の下、人間中心の教育である進歩主義的な教育への関心が高まった。しかし、学力低下の問題が生じてしまい、1980年代には再び学力を重視する立場が主流となり、現在に至っている。

 

 

アメリカの啓蒙主義的思想の教育思想から進歩主義的思想への流れは、フランクリン、ジェファーソン、マンに代表されるように、合理的・独立自尊の精神という意味では父性的な教育と呼べそうである。これは、伝統的なアメリカの思想の底流にあると考えられる。その一方で、エマソンを嚆矢として進歩主義教育やデューイのように、子どもの個性を伸ばすための自発性を重視するものは、母性的な教育と呼べそうである。この両方の流れがアメリカの教育の基盤であると考えることができる。

植民地時代に必要であった啓蒙主義から、個性を尊重する進歩主義という時代の要請も加わっているのであろう。そのどちらも必要であるといわざるを得ない。赤星晋作(2017)は、以下のように示唆的なことを述べている。

 

時代ごとによって、どちらか一方が強調されることにより問題が発生し非難され、もう一方の教育観に基づく教育が注目され主張されてくる。考えればこの二つの教育観は二者択一のものではなくて、教育という営みにおける両側面なのであり、それぞれに必要な側面である。(p.28)

 

進歩主義思想の中心にある「子ども中心主義」にしても、デューイは放任主義ではなく、またその批判としての社会改造主義も学校における学びの経験の協働を重視して社会の更新・変革を目指すと言う進歩主義教育であった。植民地時代に必要であった啓蒙主義から、世界恐慌、第一次・第二次世界大戦を経て、人間性中心の個性を尊重する進歩主義という時代背景も反映していると言える。啓蒙主義進歩主義、その両者を含みながらアメリカの教育思想は展開されている。その両者のウェイトの置き方を考慮しながら、時代の状況や社会状況に合わせて教育は変化してきたといえる。啓蒙主義進歩主義の長所と短所とを考慮し、理解した上で教育を考える必要があるのではないか(注2)。

 

(注)

1

この点について、村井実(1976a)では、以下のように述べている。

ルソーとジョン・デューイとは、同じ過程像志向に属する教育思想家として分類することができる。だが、特にこの方法モデルに着目すれば、ルソーの思想は典型的にE-MⅡ型に属するといわなければならない。ところが、デューイは必ずしもそうではない。彼の思想は、一方ではきわめてルソーのそれに近いことを認めざるをえないにもかかわらず、明らかにそこを超え出ることを意図して、E-MⅢに近づいた形跡を示しているのである。(p.193)

また、これらと対照的なカントは、『教育学講義他』に代表されるように、教育とは「教え」「育てる」ことであるとする。カントの流れではE(善い人)を結果像としてしか見ないため、MⅠ(押し付ける・刻印する・注入する・詰め込む・訓練する・指導する)という手段像になる。

2

宮澤康人(1993)は、デューイについて以下のように述べ、問題点も指摘している。

ただしデューイは、その主な活動期がむしろ20世紀に属するばかりか、思想的特徴においても、19世紀までの思想家と肌合いを異にしている。その点を強調してデューイを現代の教育思想家と位置づけることも可能である。しかしその場合、教育思想における現代的とは何かということが問題になる。しかも、デューイの思想の特徴も、現代的と捉えるのが正しいのか、それとも、ヨーロッパと対比して単にアメリカ的と捉える方が適切なのか、という問題も残る。(p.164)

3

エッセンシャリズムの立場からハグリーが6名の教育者とともに刊行した「アメリカ教育振興のためのエッセンシャリスト綱領」は広く知られている。その中では、進歩主義の教育が一定の役割を果たしたことは認めながらも、「個人・社会」「自由・規律」のように教育の理論を二項対立図式で捉えられることを批判している。ただし、二元論の克服はデューイと同じ立場であり、理解していなかったとも言える。また、ハグリーは知能検査を始めとするメンタル・テストの批判者でもあったのである。

ハグリーのエッセンシャリズムとは異なる立場で進歩主義を批判した人物として、ハッチンズがいる。ハッチンズは、すべての人々に共通の知的訓練である一般教育の重要性を強調した。その一般教育は「普遍的学問」から構成されるべきであるとしたもので、西洋世界の古典的名著とリベラル・アーツであった。実験・実証的方法による経験科学が著しい発展をみせ、社会の変化に効率的に適応する教育が求められ、職業教育が推進される当時、ハッチンズの主張は、主流化した進歩主義教育思想に真っ向から挑戦するものであった。

 

(参考文献)

赤星晋作(2017)『アメリカの学校教育』学文社

上野正道(2016)「デューイの教育思想」『教育思想史』慶應義塾大学出版会

カント(勝田守一・伊勢田耀子訳1971)『教育学講義他』明治図書

岸本智典(2016)「アメリカ『児童研究』から教育心理学へ」『教育思想史』慶應義塾大学出版会

教育思想史学会編(2000)『教育思想事典』勁草書房

高柳充利(2016)「アメリ啓蒙主義期の教育思想」『教育思想史』慶應義塾大学出版会

デューイ(宮原誠一訳1957)『学校と社会』岩波文庫

デューイ(松野安男訳1975)『民主主義と教育 上・下』岩波文庫

古屋惠太(2016)「進歩主義教育運動の思想」『教育思想史』慶應義塾大学出版会

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松浦良充(1993)「デューイ―成長そのものとしての教育」『近代の教育思想』放送大学教育振興会

松浦良充(2016)「進歩主義教育批判の諸相」『教育思想史』慶應義塾大学出版会

宮澤康人編(1993)『近代の教育思想』放送大学教育振興会

宮澤康人(1993)「教育思想の近代から現代へ」『近代の教育思想』放送大学教育振興会

村井実(1976a)『教育学入門』講談社学術文庫

村井実(1976b)『教育学入門』講談社学術文庫