「る・らる」の原義と多義性の処理

2015.7.18(土)於國學院大學

第18回 國學院大學日本語教育研究会

口頭発表資料

 

「る・らる(れる・られる)の原義と多義性の処理」

國學院大學兼任講師  岡田 誠

 

 

 

はじめに

 

□本発表は、いわゆる「受身・可能・自発・尊敬の助動詞」(注1)と呼ばれる「る・らる(れる・られる)」の原義について、日本語学を中心とした先行研究を整理した上で見解を述べ、文法教育として多義性のある「る・らる(れる・られる)」をどのように扱うのが妥当であるかについて、国語教育・日本語教育の視点から考察するものである。

 

1 「る・らる(れる・られる)」の原義について

 

1.1 「る・らる(れる・られる)」の原義についての先行研究

 

「る・らる(れる・られる)」の原義としては、主に二説ある。すなわち、「受身根源説」と「自発根源説」とがある(注2)。日本語学における「る・らる」の原義の先行研究としては主に、自発を根源とする説としては橋本進吉(1931)・金田一京助(1941)、時枝誠記(1941)・大野晋(1967)、受身を根源とする説は山田孝雄(1936)・松尾捨治郎(1936)・森重敏(1965)などが代表的なものとしてあげられる。

この二つの中、優勢であるのが「自発根源説」である。代表的なものとしては、大野晋(1967)の論がある。つまり、稲作農耕民は自然の成り行きを推移するのが自然で、自発から受身が出たとする古代日本人の生活習慣に注目したものである。

また、音韻の立場からは、「ゆ・らゆ」から「る・らる」の音韻交替説(yu・rayuからru・raru)で考えた結果、「ゆ・らゆ」は「自発」で用いられることが圧倒的に多いことから、「る・らる」もこの流れの延長線上にあると考え、「る・らる」の原義を自発ととらえる考える説をとることも多い。しかし、金田一春彦・奥村光雄(1976)や窪薗晴夫(1997)が述べるように、「r」からは半母音の「j」「w」に変化するのが自然である。そうすると、「ゆ・らゆ」の「y」、すなわち「j」の音が「る・らる」の「r」の音に変化するのは逆の現象であり、不自然で無理があるようにも思える。その立場で考えると、「ゆ・らゆ」から「る・らる」への変化は不自然な変化となる。そのため、「ゆ・らゆ」と「る・らる」とは別源と考えることができる。「ゆ・らゆ」と「る・らる」は、音の響きが似ているが、そのことによって、音韻交替説に縛られる必要はないと言える。したがって一般に有力とされている「る・らる」の根源的な意味が「自発」である必然性はないのではなかろうか。

 

1.2 受身と自発-その原義の扱い-

 

山田孝雄(1908)では、「る・らる」の原義には触れていないが、山田孝雄(1936)では、「る・らる」の原義を受身とし、受身、自発、可能、尊敬の順番で派生したことを述べ、自発については以下のように述べている。

 

それより一轉して自然にその事現るゝ勢にあることを示す。今これを自然勢といふべしその例

坊主山の早蕨かと怪しまる。

眺めらるゝは故郷の空なり。

この自然勢が受身の一變態なりといふことは、その勢の起る本源は大自然の勢力にありて人力を以て如何ともすべからぬことを示すものにして、人はそれに對して従順なるより外の方途なきなり。これ即ち大なる受身といふべきなり。  (pp.317-318)

 

この記述から、自発を人間の力ではどうすることもできないで、従順にならざるをえない大なる受身と考えていることがわかる。

また、自発については、山田孝雄(1908)の段階では、以下のように受身と可能とが混然一体となったものと見ていることがわかる。

 

受身と勢力との混合よりなれるが如き一種の間接作用あり。之を自然勢といふ。何が故に受身と勢力よりなるものかといへば、自然勢にありては文主は自然的に受身の地位に立ちて自家の意志にて左右しうべきさまならず、しかも其は自然に發したる勢力にして他に發動者ありて起したるにあらず。この故に、受身なる點と勢力なる點とを具有せりと見るべく、自己の勢力にて自己が受身となれるものなればなり。  (p.370)

 

山田孝雄(1936)では、最終的には以下のように述べ、受身の原義で統一し、客観性の特質を重視していることが分かる。

 

以上の四つの場合、これを還元すれば、受身の一に歸し、その作用の直接に行はるゝことを示すもの一もなし。而してその作用のあらはれ方いづれも傍観的なり。  (p.319)

 

この山田孝雄(1908・1936)の論をいっそう論理的に格関係の視点で発展させたものとして、森重敏(1956・1965・1971)の論があげられる。森重敏(1956・1965・1971)では、「る・らる・す・さす・しむ」は、格助詞と相関することから、「格の助動詞」であるとし、川端善明(1958・1993・1997・2004)もこの立場を踏まえて論を展開している。森重敏(1965)では、受身を主者が自由で、自発は主者が話し手に限定されるとする立場を取るため、受身根源説と考えられ、以下のように詳しく述べている(pp.73-81)。

 

動詞は、述語となることを本来とするから、自然、まず、格に関する道具として、格の助動詞ともいうべきものを分出する。いわゆる「る」「らる」「す」「さす」「しむ」など、受身・使役・自発・可能・敬語の助動詞がそれである。これらは述語に対する主語などの分出する格助詞-これもまた名詞の道具のようなものである-と相関する。たとえば、

花が風に散らされる。

のように、「れる」である以上は「が」であり「に」であり「が」「に」である限り「れる」となるのであって、他の格助詞で代えることはできないし、また、「が」と「に」とを入れ替えることも勿論できない。この緊密な論理的相関のありかたが、実は上来論理的格助詞といってきたものの一番の基礎なのである。  (p.73)

 

このように説明した上で、受身の場合は、形式上は、「花-れる」だが、「風に散らされる」の部分が「風が散らす」という力が、主者「花」に向かって働き、働かれる主者「花」が「散らす」という働きを受けることを述語とすることとなり、「散らす」力が無力な主者において実現するために「散らす」と「れる」とは一本になると解釈している。

また、自発については、

故郷が思われる。

の例をあげて、

主者の「思う」ということが、対者「故郷」からの発動で自然に実現する-そこに対者から主者への関係方向がある。  (p.74)

としている。

そして、「花が風に散らされる」のように受身の場合には、主者は話し手、第二者、第三者と自由であるが、自発の場合は、「故郷が思われる」のように、主者は話し手に限られてしまい、「故郷が-れる」その結果、「私が思う」としている。

可能の例として、

字が読まれる(める)

をあげて、「自発」とは逆に、「読む」能力が対者「字」へと積極的に力を発揮するとしている。その上で、主者は話し手に限定されず、述語は他動詞で、対者は本来それの意志の目的物-客語であるのが原則としている。

また、尊敬の例として、

先生が見られる

をあげ、尊敬では「見る」が対者「先生」の動作になっており、主者は話し手で言葉ではあらわれない点で自発と通じ、敬語特有の情意が加わるとした上で、以下のように述べている。

 

自発・可能では主者の動作の力が対者との間に働いたが、尊敬語では、話手と一応関係のない、対者そのものだけの動作「見る」になるためにほかならない。したがって、関係方面もほとんど対者を上とし、話手を下とする上下関係だけとなる。  (p.81)

 

ここで問題となるのは、森重敏(1965)のいう、「主者」である。「主者」とは、「動作主体」のことをいうのか、それとも「発話主体」のことをいうのかであるが、森重敏(1971)では以下のように述べている。

 

自発・可能」は対者に対する主者―本来話手、話手でないときは話手に準じて考えうる―の、受身・使役は対者に対する主者―本来話手でない他者、話手の時は他者に準じて考えうる―の、いづれも力的関係であるが、受身・使役の場合その力的関係が現勢的であるのに対して、自発・可能の場合はそれが潜勢的であるという相違がある。・・〈中略〉・・敬称は自発・可能の範疇に、謙称は受身・使役の範疇に、その主者・対者のありかたにまさしく共通し、それぞれあたかもよし対応するのである。  (p.243)

 

つまり、主者は「動作主体」だとすると、それは客観を代表することであり、「発話主体」だとすると、それは主観を代表するということになる。そうすると、「主者が動作主体なら受身、発話主体なら自発」ということになる。それはまた、受身から自発が出たのか、自発から受身が出たのかという問題ともつながる。さらには、動作主体が発話主体に連続するのか、発話主体が動作主体に連続するのかという問題にもつながる。つまり、その原因は、「主者」というのは、動作主体と発話主体との間を動いているものであるからであろう。そのように、主者が動作主体と発話主体との間を揺れ動くとすると、自発も受身も分けることが困難であると言える。

 

1.3 出来文と中相説

 

尾上圭介(1998a・1998b・1999・2003)は、「る・らる(れる・られる)」が用いられた文を「出来(しゅったい)文(ぶん)」と名付け、「事態全体の生起」という、ラレル形式による事態の状況把握でとらえ、多義性の説明を可能にした。その論を踏襲する形で、川村大(2004)も論を展開している。この考え方は、現在、有力な論の一つになっているが、その考えは言語における動作主体や発話主体というものを取り除いたもので、単に物理的な場としての扱いということになる。さらには、柴谷方良(2000)の指摘にもあるように、多義性の説明としては整理できたが、通時的な考察が欠如することとなる。

他に、細江逸記(1928)のように、古代ギリシア語に存在した「中相」というものが文献以前の日本にも存在し、その「中相」は自動詞・受身・可能・自発とが混然一体となったものであり、そこから分化したとする説がある。柴谷方良(2000)は、諸外国の言語を参照し、この論を一歩進め、中相のさらに前段階で能動・自発という態対立があり、その自発文が受身文を派生させたとしている。

 

1.4 本発表者の立場

 

本発表では、細江逸記(1928)の中相説、時枝誠記(1941)の言語の発話者と聞き手の場、その論を踏まえて展開した近藤泰弘(2000)の言語の発話主体の主観的表現の使い分けの視点を考慮し、本来は受身と自発とが混然一体となったものが原義であり、それは動作主体と発話主体との揺れに起因するものと考える。そして、発話者の主観表現が客観化し動作主体となるときには受身となり、発話者の主観表現が強くなり発話主体となるときには自発になると考えておくこととする。

 

2 「る・らる(れる・られる)」の多義性の処理

 

2.1 国語教育での多義性の処理

 

「る・らる(れる・られる)」の多義性について、自発根源・受身根源・中相・出来文などの考え方があるが、文法教育を考えたときに(注3)、日本語教育では受動態を基軸にして説明しようとすることが多く、松下大三郎(1930)はすべてを受動態で整理した。それに対して学校文法では、四つの意味分類を行うことが一般的であるが、その基礎になった橋本進吉(1935)では、まず受身を中心に説明し、その上で可能・自発を説明するようにし、受身を中心に据えるという優先順位を示している。橋本進吉(1936)では、受身は動作主が前提であるが、可能は動作主を想定しないので、「受身」と「可能」を軸に解説し、可能の中に自発を含めて、自発を可能の一用法として処理している。また、田辺正男・和田利政(1964)では「元来、一語で表わしていた内容なのだから、相互に関連があり連続しているわけで、それをある明瞭な場合を基準としてかりに区別してみるまでである」と述べている。しかし、実際には主な四つの意味の多義性が同等であるかのように学校文法では扱われていることに対して、森山卓郎(2002)や町田健(2002)は疑問を呈している。森山卓郎(2002)は、日本語教育のように受動文と自動詞を扱い、現代の詩を教材とし、文学作品を文法的に味わうことを目指している。町田健(2002)は、自発根源説で原義をとらえているが、用法として「る・らる(れる・られる)」を見た場合、自発・可能・尊敬などは実際には使われることが少なく、日本語として受身は特徴的であり、頻繁に使われることに注目し、受身を重視して学校文法を批判している(注4)。

国語教育では、「る・らる(れる・られる)」の多義性に関しては、漢文訓読、話し言葉で受身の用法が多く使われることなどの使用頻度も考慮し、受身の機能を優先して教え、その上で他の機能を示すように指導したほうがよいと言える。

 

2.2 国語教育での提出順序

 

国語教育の分野でも、受身から掲載するか、自発から掲載するかで、提出順序が異なることがわかる。つまり、国語教育にも、受身根源説と自発根源説とで、捉え方に差があることがわかる。以下、口語の「れる・られる」は中学校の教科書を中心に調査し、文語の「る・らる」は高等学校で副読本として採用されている文法テキストや別記(教授資料)同様に現場に影響を与えていると考えられるものを中心に調査してみた。文語について扱っているものは太字で示し、文語・口語ともに示したものには□で示した。

 

【自発から始まるもの】

自発→可能→受身→尊敬

中村幸弘(1993

古文文法研究会(1986)、遠藤和夫(1990

岡崎正継・大久保一男(1991

【受身から始まるもの】

1受身→自発→可能→尊敬

馬淵和夫(1963)・田辺正男(1986

築島裕・白藤禮幸(1999

2受身→自発→尊敬→可能

三省堂(中学2年、3年)

3受身→可能→尊敬→自発

光村図書(中学1年、2年、3年)

4受身→可能→自発→尊敬

湯澤幸吉郎(1959

小西甚一(1955)、田辺正男・和田利政(1964)

永山勇(1970)、樺島忠夫(1971

湯澤幸吉郎(1953)

永野賢(1958)、鈴木康之(1977)、渡辺正数(1993)

中村幸弘・中野博之・会田貞夫(2004)

教育出版(中学2年、3年)、東京書籍(中学2年、3年)

学校図書(中学2年、3年)

5受身→尊敬→可能→自発

塚本哲三(1924

教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)

6受身→尊敬→自発→可能

山口明穂(1993

7受身

鈴木康之(1977)・・自発・可能・尊敬は受動態の一部

教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)・・受身以外は補足の扱い

 

自発から始まるものは、文語を扱ったもので、順番に揺れがないことがわかる。これは自発根源説に基づいた自然の発生を中心としたものであり、活用形の完備・不完備で分けたといえる。

受身から始めるものは、順番が一定しないが、一番多いのは、「受身・可能・自発・尊敬」の順であることがわかる。これは橋本進吉(1935・1936)の別記で示した流れと同じである。また、辛島美絵(1993)の示したように尊敬用法の発達が最後と考えられるので、尊敬は最後に置く提出順序は通時的扱いといえる。

「受身・尊敬」と「自発・可能」という提出順序があるが、この提出順序は、命令形の活用があるものを優先させた結果として、「受身・尊敬」の命令形完備と「自発・可能」の命令形不完備の分類と考えられる。

光村図書の教科書は自発を最後に置いており、使用頻度に配慮したものであると推測できる。受身の次に自発を置いている中で、三省堂の教科書は最後に可能を置いている点で、提出順序が異質である。

国語教科書の中で、口語と文語の活用表を中学3年の附録で掲載しているのは、三省堂学校図書である。これは、中学3年で古典の文章を取り上げていることに配慮しているためと考えられる。

文語と口語の両方を編纂したものとして中村幸弘と湯澤幸吉郎をあげることができる。中村幸弘は、文語は自発を最初とし、口語は受身を最初としている。これは、現代語の使用頻度を考慮したものと考えられ、国語教育に携わった経験を生かしたものと考えることができそうである。湯澤幸吉郎は文語・口語ともに受身を最初にあげている。湯澤幸吉郎は日本語教育の経験があるため、受身をから始める方針を国語教育に生かしたものと推測することもできそうである。このあたりは、国語教育と日本語教育との経歴の差が表われている印象を受ける。

受動態の一部として可能・自発を扱っている鈴木康之、受身以外の用法は補足でしか扱わない教科研グループのものは特徴的であり、松下大三郎(1928・1930)や日本語教育での扱いとほぼ同じである。

 

2.3 日本語教育での提出順序

 

日本語教育では、中国人留学生を対象とした日本語教育の経験を持つ松下大三郎(1928・1930)、教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)やその流れの鈴木康之(1977)が、受身を根源に据えて包括的に「受動態」として説明したように、受身から提出することが一般的である。本稿では、系統の異なる以下の6冊のテキストを調査対象として、「れる・られる」の意味の提出順序を調査したところ、以下のようになった(注5)。

 

【「れる・られる」の意味の提出順序】

1.NAGANUMA(1944)『FIRST LESSONS IN NIPPONGO』財団法人言語文化研究所

可能→受身

2.国際交流基金日本語国際センター(1981)『日本語初歩』凡人社

可能→受身→尊敬

3.筑波ランゲージグループ(1992)『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE VOLUME THREE:NOTES』凡人社

可能→受身

4.スリーエーネットワーク編(1998)『みんなの日本語・初級Ⅱ本冊』スリーエーネットワーク

可能→受身→尊敬

5.東京外国語大学留学生日本語教育センター編(2010)『初級日本語・下』(凡人社)

可能→受身

6.坂野永理・池田庸子・大野裕・品川恭子・渡嘉敷恭子(2011)『初級日本語[げんき]Ⅱ』The Japan Times

可能→受身

 

日本語教育では、「れる・られる」に関しては、「可能・受身」か「可能・受身・尊敬」の順番でなされていることがわかる。国語教育とは異なり、「自発」は扱わず、「可能・受身」で始まることで統一されている。このことは、実際の用例として、典型的であるのは可能・受身の用法と考えてのことであると推測できる。国語教育においては、受身を軸に扱っていないとする町田健(2002)の批判もあるが、日本語教育では受身を軸に解説が行われていることがわかる。また、中級・上級などで扱う、「と言われている」「と考えられている」などの「自然的可能」と言われている受身・可能・自発の混在している用法については、北澤尚(1987)が示したように、「『自発』とは、一人称単数の補語を隠し持った知覚・思考・発話活動を表す動詞の受身のことであり、それと他の受身とを特に区別して扱うための文法術語にすぎないと考えられる」という考え方を用いれば、自発という項目を立項しなくても、受身で説明ができそうである。築島裕(1963)、大坪併治(1981)の指摘にもあるように、古くは漢文訓読においては、専ら「る・らる」は受身の意味で用いたこと、もともと「れる・られる」を尊敬で用いるのは文章語形式か京阪的な表現で、下町言葉・江戸なまりでも「お―になる」などの他の表現が用いられたとする中村通夫(1948)の指摘や、柳田征司(2011)の指摘にある、自発の例の少なさや可能・尊敬の用法の衰退という通時的経緯も考え合わせる必要がある。

 

結び

 

本発表では、「る・らる(れる・られる)」の原義は、自発根源説と受身根源説があるが、自発と受身は混然一体としたものであると考え、その区分けの基準を、発話主体と動作主体に応じたものであるとした。発話者の主観表現が客観化し動作主体となるときには受身となり、発話者の主観表現が強くなり発話主体となるときには自発になるとした。

また、「る・らる(れる・られる)」の多義性の処理については、築島裕(1963)、大坪併治(1981)の指摘にもあるように、古くは漢文訓読においては、専ら「る・らる」は受身の意味で用いたこと、柳田征司(2011)の指摘にある、自発の例の少なさや可能・尊敬の用法の衰退という通時的経緯も考え合わせる必要がある。そして国語教育及び日本語教育の提出順序を参考に考えると、松下大三郎(1928)、教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)やその流れの鈴木康之(1977)が示したように「受動態」として広く受身で捉え、自発・可能・尊敬を含ませるのがよいと考える。自発については、橋本進吉(1935・1936)のように可能に含ませるか、北澤尚(1987)のように広く受身に含ませれば、あえて自発を立項する必要はないことを述べた。

 

1

「る・らる(れる・られる)」については、山田孝雄は複語尾の中でも「属性のあらはし方に関するもの」とし、橋本進吉は接尾語に近いと述べ、時枝記述は接尾語とするなどの、助動詞説と接尾語説があるが、古田東朔(1969-1971)では、「る・らる」を近世の国学者は、本居春庭『詞の通路』を受け継ぎ「動辞(動詞の一部)」としたことを述べている。ただし、富樫広蔭の『詞の玉橋』は「属(たぐひ)詞(ことば)」として他の動辞と区別し、鈴木重胤も『詞のちかみち』で同様の立場をとっているが、国学者の権田直助は『語学自在』で「辞」としていることを指摘している。それに対して、近藤真琴、田中義簾、中根淑などの洋風文典(蘭文典・英文典)には助動詞として扱う傾向が強く、大槻文彦は外国語文法の受身態との関係から、「る・らる」を切り離して「助動詞」とし、動辞や静辞と呼ばれるものも広く助動詞として、その範囲を広げたことについて述べ、扱いとしては権田直助『語学自在』に似ているが、全体としては鈴木重胤『詞のちかみち』に近いと推測している。また、大槻文彦と黒川真頼との交流と影響についても触れている。下二段から下一段へ、すなわち「る・らる」、「るる・らるる」、「れる・られる」への過渡期的な語形変化については、湯澤幸吉郎(1929・1936)が中世から近世にかけての資料を示しながら示している。

2

「受身根源説」と「自発根源説」に応じて、意味展開についても諸説あるが、一般的に優勢なものをまとめると、主に以下の二種類に大別できる。

a受身→自発(自然勢)→可能(能力)→尊敬(敬語)

b自発(自然的実現・勢相)→受身(所相)・可能・尊敬(敬相)

aの代表として山田孝雄(1936)、bの代表として辻村敏樹(1958)などがあげられる。原義を自発ととらえると、自発から受身・可能・尊敬が出たと説明することとなり、その順序は定まらず、同時派生的ととらえことになる。

森重敏(1965)は、一般に自動詞・他動詞と呼ばれるものを、以下のように述べ、自動詞の意味から自発というものが分出しうることを指摘している。この点で、非情の受身と通じる面がある。

一体、動詞には、受身・使役の場合のように、意志をもち、時間の経過のなかでその意志を遂行するその遂行の過程に重点をおいた意味のものと、そのほかに、意志はあるにしてもその遂行よりは遂行した結果の状態や、意志などなくて或る一つの作用が現象している状態やをあらわす意味のものがある。たとえば、「消す」は、時間をかけて火を消すことを目的とする動作であるが、「消える」は、たとい時間はかかってもそこに重点はなく、ただ消えてしまったいわば瞬間的な状態である。前者を他動詞といい、後者を自動詞といってよい。自発の場合、「思う」もこの自動詞的なものとして使われている。そして、一般に動詞にこのような意味があるからこそ、自発の「れる」も分出しうるわけである  (p.74)

また、発話主体は聴き手に理解させるためにあると考えられ、る。受身は発話主体は限定されないため、仮に、限定されないものから、限定されるものへという一般的な流れに従えば、受身から自発という流れを想定することができそうである。

森田良行(2002)は、日本語教育の視点に多くの日本語学の知見を取り入れながら述べており、意味展開と原義についての諸家の説として、受身根源説の山田孝雄(1936)、自発根源説の金田一京助(1941・1949)・時枝誠記(1941)・大野晋(1967)・世良正利(1970)・荒木博之(1980・1983)と幅広く紹介し、整理している。また、湯澤幸吉郎(1929・1936・1954)は中世から近世にかけての「る・らる」から「れる・られる」への二段化の一段化への現象を多くの資料から用例を採取して述べている。意味の提出順序は、受身・可能・自発・尊敬となっている。

なお、柳田征司(1989)は「ゆ・らゆ」と「る・らる」とは別源であるとしながらも、無意志動詞を意志動詞化する四段活用の「ス」と対応して成立したとすると、意志動詞を無意志化する助動詞として「ユ」「ル」は自発を原義として、そこから可能・受身が出たとしている。また、柳田征司(2011)では、通時的な展開として、以下のように述べ、尊敬が衰退に向かっていることの指摘に注目している。

平安時代になると、よく知られているように尊敬の意味用法が生まれた。室町時代の虎明狂言では、「ル」「ラル」は尊敬の意味で用いることが最も多く、受身の例がこれに次ぐ。可能の意味の例は少なく、自発の意味になると、「思い出される」「知られる」「くすまれる」くらいで、極めて稀である。いわゆるラ抜き言葉によって可能の意味用法が分離して行きつつあることはよく知られている。それとともに重要なのは受身と尊敬との相克において後者が衰退に向かっているとの指摘があることであろう。(p.191)

3

大学入試センター試験においても、古文だけではなく、現代文においても1991年の追試験で加藤周一『文学とは何か』が出題され、「その手に感じられる重み」の「られる」の説明を分類して選択させる、多義性の処理についての問題が出題されたことがある。この問題に関しては、動作主のニ格に注目して受身、心情・知覚に下接するものを自発とすることで処理ができる一般的なものであり、小西甚一(1955)、近藤泰弘(1983)、中村幸弘(2001)などにまとめられている文語文法の処理法で解けるタイプの問題であった。

4

町田健(2002)の以下の批判もあるが、多くのテキストが提出順序を受身から始めてあることを考えると、この批判は妥当ではないのではなかろうか。

日本語でこの助動詞がもっている一番大事な働きが「受け身」だということになります。そして日本語の受け身は、ほかのいろんな言語と比べても、幅広い条件で使われることができるという特徴をもっています。日本語より受け身を使う条件が限られている英語の文法でさえ、「受動態」は重要な項目として取り扱われているのに、私たちの国文法では、一つの助動詞の、さらにいくつかの働きの一つとしてさらっと説明されているだけです。本当に勉強する価値のある文法として国文法を変革するとしたら、まず「受け身」のことを真剣に考えてほしいものです。   (p.154)

5

『FIRST LESSONS IN NIPPONGO』は長沼直兄によって英語で書かれた日本語入門書であり、口頭の習得を目指したロングセラーである。『日本語初歩』は国際学友会系の基本的な表現文型のテキストである。『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE VOLUME THREE:NOTES』は基本的な場面中心のコミュニケーション志向のテキストである。『みんなの日本語』は海外技術者研修協会系の実用会話重視の採択率の高いテキストとして知られている。『初級日本語・下』は場面と基本文型を徹底させたテキストである。『初級日本語[げんき]Ⅱ』は、現場でのコミュニカティブ実践を目指す、採択率の高いテキストである。

 

調査資料

【国語教科書】

加藤周一ほか(2012)『伝え合う言葉 中学国語1・2・3』教育出版

樺島忠夫宮地裕渡辺実監修(2012)『国語1・2・3』光村図書

中洌正堯(2012)『中学生の国語1年・2年・3年』三省堂

三角洋一・相澤秀夫代表(2012)『新しい国語1・2・3』東京書籍

野地潤家・安岡章太郎新井満(2012)『中学校国語1・2・3』学校図書

【日本語教科書】

NAGANUMA(1944)『FIRST LESSONS IN NIPPONGO』財団法人言語文化研究所

国際交流基金日本語国際センター(1981)『日本語初歩』凡人社

筑波ランゲージグループ(1992)『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE VOLUME THREE:NOTES』

凡人社

スリーエーネットワーク編(1998)『みんなの日本語・初級Ⅱ本冊』スリーエーネットワーク

東京外国語大学留学生日本語教育センター編(2010)『初級日本語・下』(凡人社)

坂野永理・池田庸子・大野裕・品川恭子・渡嘉敷恭子(2011)『初級日本語[げんき]Ⅱ』

The Japan Times

 

参考文献

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荒木博之(1980)『日本語から日本人を考える』朝日新聞社

荒木博之(1983)『やまとことばの人類学』朝日新聞社

遠藤和夫(1990)『演習古典文法』高橋情報システム株式会社

大坪併治(1981)『平安時代における訓点語の研究』風間書房

大野晋(1955)「万葉時代の音韻」『万葉集大成6』平凡社

大野晋(1967)「日本人の思考と日本語」『文学』12号

大野晋(1968)「助動詞の役割」『解釈と鑑賞』

岡崎正継・大久保一男(1991)『古典文法別記』秀英出版

尾上圭介(1998a)「文法を考える-出来文(1)」『日本語学』17巻6号

尾上圭介(1998b)「文法を考える-出来文(2)」『日本語学』17巻9号

尾上圭介(1999)「文法を考える-出来文(3)」『日本語学』18巻1号

尾上圭介(2003)「ラレル文の多義性と主語」『月刊言語』32巻4号

樺島忠夫(1971)『日本文法』三省堂

辛島美絵(1993)「「る」「らる」の尊敬用法の発生と展開―古文書の用例から」『国語学

172集

川端善明(1958)「動詞の活用-むしろVoice論の前提に-」『国語国文』第28巻12号

川端善明(1993)「日本語の品詞」『集英社国語辞典』集英社

川端善明(1997)『活用の研究Ⅱ』清文堂

川端善明(2004)「文法と意味」『朝倉日本語講座・6・文法Ⅱ』朝倉書店

川村大(2004)「受身・自発・可能・尊敬-動詞ラレル形の世界-」『朝倉日本語講座・6・文法Ⅱ』朝倉書店

北澤尚(1987)「無生名詞を主語とする受身文-日本史教科書を資料として-」『東横国文学』第19号

教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)『文法教育 その内容と方法』麦書房

金田一京助1941)『新国文法』武蔵野書院

金田一京助(1949)『国語学入門』吉川弘文館

金田一春彦・奥村光雄(1976)「国語史と方言」『国語学』3号

窪薗晴夫(1997)「音声学・音韻論」『日英対照による英語学概論』くろしお出版

小路一光(1980)『萬葉集助動詞の研究』明治書院

国語学会編(1985)『国語学大辞典』東京堂

小西甚一(1955)『古文研究法』洛陽社

古文文法研究会(1986)『古典文法』桐原書店

近藤泰弘(1983)「自発」「可能」『研究資料日本古典文学・12巻』明治書院

近藤泰弘(2000)『日本語記述文法の理論』ひつじ書房

佐伯梅友・鈴木康之監修(1986)『文学のための日本語文法』三省堂

柴谷方良(1978)『日本語の分析』大修館書店

Shibatani Masayoshi1985)「Passives,and Related Constructions:a prototype analysis」『Language61-4

柴谷方良(2000)「ヴォイス」『文の骨格』岩波書店

渋谷勝己(1993)「日本語可能表現の諸相と発展」『大阪大学文学部紀要』第33巻第1分冊

鈴木康之(1977)『日本語文法の基礎』三省堂

世良正利(1970)「日本語と日本人の発想法」『言語生活』

田辺正男・和田利政(1964)『学研国文法』学習研究社

田辺正男(1986)『新訂 古典文法』大修館書店

塚本哲三(1924)『国文解釈法 全』有朋堂

辻村敏樹(1958)「いわゆる受身・尊敬・可能・自発の助動詞」『国文学』12号増刊号

築島裕(1963)『平安時代の漢文訓読語に就きての研究』東京大学出版

築島裕・白藤禮幸(1999)『古典文法 改訂版 指導資料』明治書院

時枝誠記(1941)『国語学原論』岩波書店

永野賢(1958)『学校文法概説』共文社

中村通夫(1948)『東京語の性格』川田書房

中村幸弘(1993)『先生のための古典文法Q&A100』右文書院

中村幸弘(2001)『正しく読める古典文法』駿台文庫

中村幸弘・中野博之・会田貞夫(2004)『学校で教えてきている現代日本語の文法』右文書院

永山勇(1970)『国文法の基礎』洛陽社

西田直敏(1969)「る・らる(付ゆ・らゆ)-可能・自発(古典語)」『助詞助動詞詳説』学燈  

  社

仁科明(2011)「『受身』と『自発』-万葉集の『(ら)ゆ』『(ら)る』について」『日本語文法の歴史と変化』くろしお出版

橋本進吉(1929の講義)「日本文法論」[テキストは、橋本進吉(1959)『国文法体系論』岩波書店]

橋本進吉(1931の講義)「助詞・助動詞の研究」[テキストは、橋本進吉(1969)『助詞・助動詞の研究』岩波書店]

橋本進吉1935)『新文典別記上級用』冨山房

橋本進吉1936)『改訂新文典別記初級用』冨山房

濱田敦(1930)「助動詞」『万葉集大成6』平凡社

濱田敦(1957)「中世の文法」『日本文法講座3 文法史』明治書院

古田東朔(1969-1971)「大槻文彦伝(1-16)」『月刊文法』(テキストは『古田東朔 近現代 日本語生成史コレクション 東朔夜話―伝記と随筆』くろしお出版・2014)

細江逸記(1928)「我が国語の相(Voice)を論じ、動詞の活用形式を分岐するに至りし原理の一端に及ぶ」『岡倉先生記念論文集』研究社

町田健(2002)『まちがいだらけの日本語文法』講談社

松尾捨治郎(1943)『助動詞の研究』文学社

松下大三郎(1928)『改選標準日本文法』紀元社

松下大三郎(1930)『標準日本口語法』中文館書店

松村明編(1969)『助詞助動詞詳説』学燈社

馬淵和夫(1963)『古文の文法別記』武蔵野書院

森田良行(2002)『日本語文法の発想』ひつじ書房

森重敏(1959)『日本文法通論』風間書房

森重敏(1965)『日本語文法-主語と述語-』武蔵野書院

森重敏(1971)『日本文法の諸問題』笠間書院

森山卓郎(2002)『表現を味わうための日本語文法』岩波書店

山口明穂(1993)『古典文法』明治書院

山口佳紀(1995)『古事記の表記と訓読』有精堂

山口佳紀(2005)『古事記の表現と解釈』風間書房

柳田征司(1989)「助動詞『ユ』『ラユ』と『ル』『ラル』との関係」『奥村三雄教授退官記念・国語学論叢』桜楓社

柳田征司(2011)『日本語の歴史2』武蔵野書院

山田敏弘(2004)『国語教師が知っておきたい日本語文法』くろしお出版

山田孝雄(1908)『日本文法論』宝文館

山田孝雄(1936)『日本文法学概論』宝文館

山田孝雄(1952)『平安朝文法史』宝文館

山田孝雄(1954)『平家物語の語法』宝文館

湯澤幸吉郎(1929)『室町時代言語の研究』[テキストは(1970)『室町時代言語の研究』風間書房]

湯澤幸吉郎(1936)『徳川時代言語の研究』[テキストは(1970)『徳川時代言語の研究』風間書房]

湯澤幸吉郎(1954)『江戸言葉の研究』[テキストは(1991)『江戸言葉の研究』明治書院]

湯澤幸吉郎(1951)『現代口語の実相』習文社[テキストは『著作集4』(勉誠社・1980)所収]

湯澤幸吉郎(1953)『口語法精鋭』[テキストは湯澤幸吉郎(1977)『口語法精鋭』明治書院]

湯澤幸吉郎(1959)『文語文法詳説』右文書院

和田利政(1969)「る・らる(付ゆ・らゆ)-受身(古典語)」『助詞助動詞詳説』学燈社

渡辺正数(1993)『教師のための口語文法』右文書院

 

(付記)

本稿作成にあたり、多数の先生方のご意見をいただきました。御礼申し上げます。