『更級日記』の夢の記述

更級日記』の夢の記述

 

源氏物語』耽読

 

はしるはしる、わづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を、一の巻よりして、人もまじらず几帳(きちやう)の内(うち)にうち臥して、引き出(い)でつつ見る心地、后(きさき)の位も何にかはせむ。昼は日ぐらし、夜は目の覚(さ)めたるかぎり、灯(ひ)を近くともして、これを見るよりほかのことなければ、おのづからなどは、そらにおぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに、夢に、いと清げなる僧の黄なる袈裟(けさ)着たるが来て、「法華経(ほけきやう)五の巻をとく習へ」と言ふと見れど、人にも語らず、習はむとも思ひかけず、物語のことをのみ心にしめて、われはこのごろわろきぞかし、さかりにならば、かたちもかぎりなくよく、髪もいみじく長くなりなむ、光の源氏の夕顔(ゆふがほ)、宇治(うぢ)の大将の浮(うき)舟(ふね)の女(をんな)君(ぎみ)のやうにこそあらめ、と思ひける心、まづいとはかなくあさまし。  (一七)

 

(口語訳)

胸をわくわくさせながら、これまでほんの少しばかり読んでは、納得がいかずじれったく思っていた『源氏物語』を、最初の巻から始めて、たった一人っきりで几帳の中に臥せって、櫃から次々に引き出しながら読むその気持ちといったら、后の位だって問題にもならない。昼はひねもす、夜は目の覚めている限り、灯火を近くともして、これ(『源氏物語』)を読むこと以外何もしないで過ごしているので、自然と物語の文章が、そらでもそのまま浮かんでくるのを、たいしたことだと思っていると、夢の中で、とてもきれいな僧で黄色の地の袈裟を着た人がやって来て、「『法華経』の第五巻をはやく習いなさい」と言う、と見たのだけれど、他の人にも話さず、『法華経』を習おうなどとは思いもかけず、物語にばかり夢中になって、私は今のところまだ器量が良くないのだ、でも年頃になったら、顔かたちもこの上なく美しくなって、髪もすばらしく長くなるに違いない、そして光源氏の寵愛した夕顔や、宇治の大将(薫)の愛を受けた浮舟の女君のようにきっとなるのだ、とそんなふうに思っていた私の心は、今考えてみると何ともたわいなく、あきれかえったことである。

 

夢と猫と

 

 花の咲き散るをりごとに、乳母(めのと)亡くなりしをりぞかし、とのみあはれなるに、同じをり亡くなりたまひし侍従(じじゆう)の大納言(だいなごん)の御むすめの手を見つつ、すずろにあはれなるに、五月(さつき)ばかり、夜(よ)更くるまで物語を読みて起きゐたれば、来(き)つらむ方(かた)も見えぬに、猫(ねこ)のいとなごう鳴いたるを、おどろきて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。いづくより来つる猫ぞと見るに、姉なる人、「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」とあるに、いみじう人馴れつつ、かたはらにうち臥(ふ)したり。尋ぬる人やあると、これを隠して飼ふに、すべて下衆(げす)のあたりにも寄らず、つと前にのみありて、物もきたなげなるは、ほかさまに顔を向けて食はず。姉おととの中につとまとはれて、をかしがりらうたがるほどに、姉のなやむことあるに、もの騒がしくて、この猫を北面(きたおもて)にのみあらせて呼ばねば、かしかましく鳴きののしれども、なほさるにてこそはと思ひてあるに、わづらふ姉おどろきて「いづら猫は。こち率(ゐ)て来(こ)」とあるを、「など」と問へば、「夢に、この猫のかたはらに来て『おのれは、侍従の大納言の御むすめの、かくなりたるなり。さるべき縁(えん)のいささかありて、この中の君のすずろにあはれと思ひ出でたまへば、ただしばしここにあるを、このごろ下衆(げす)の中にありて、いみじうわびしきこと』と言ひて、いみじう泣くさまは、あてにをかしげなる人と見えて、うちおどろきたれば、この猫(ねこ)の声にてありつるが、いみじくあはれなるなり」と語りたまふを聞くに、いみじくあはれなり。その後は、この猫を北面にも出(い)ださず、思ひかしづく。ただ一人ゐたる所に、この猫が向かひゐたれば、かいなでつつ、「侍従(じじゆう)の大納言の姫君のおはするな。大納言殿に知らせたてまつらばや」と言ひかくれば、顔をうちまもりつつなごう鳴くも、心のなし、目のうちつけに、例の猫にはあらず、聞き知り顔にあはれなり。 (二二)

 

(口語訳)

毎年桜の花の咲き散る折ごとに、乳母の亡くなった頃だなあ、とばかり思い出されて切ないのだが、その同じ頃お亡くなりになった侍従の大納言の御娘の筆跡を見ては、わけもなく悲しみが募るそんな時に、五月頃、夜更けまで物語を読んで起きていると、どこから来たとも分からないが、猫がまことにものやわらかに鳴いているので、その声のする方をはっとして見ると、いかにも可愛らしい猫がいる。どこからやってきた猫かしらと見ていると、姉にあたる人が、「あっ静かに、誰にも言わないで。ほんとに可愛らしい猫ですもの。私たちで飼いましょう」と言うと、猫は実に人馴れしていて、そばに寝そべっている。猫の行方を探す人があるのではないかと、この猫を隠して飼っていると、全く下々の者のそばに寄りつかず、じっと私たちの前にばかりいて、食べ物も汚らしいものは、顔を横に背けて食べようとしない。私たち姉妹の間にぴたりとまつわりついて、私たちがおもしろがりかわいがっているうちに、姉が病気になることがあって、ごたごたしていて、この猫を召使いのいる北側の部屋ばかりいさせて、こちらに呼ばなかったところ、やかましく鳴き騒ぐけれど、それでもやはり猫にはそう鳴くだけの理由があって鳴くのだろうと思っていると、病気の姉がふと目を覚まして「どうしたの、猫は。こちらにつれていらっしゃい」と言うので、「どうして」と尋ねると、「夢の中で、この猫がそばに来て『私は、侍従の大納言の姫君が、こうなったものなのです。こうなるべき因縁が少々あって、この中の君が私のことを無性にいとおしんで思い出してくださるので、ほんのしばらくここにおりますのに、近頃は召使いの間にいて、ひどく辛いことです』と言って、たいそう泣く様子は、上品で美しい人と見えて、ふと目覚めたら、この猫の声だったのが、しみじみと悲しく胸を打たれたの」とお話しになるのを聞くにつけ、何とも感動する。その後は、この猫を北側の部屋にも出さず、大切に世話をする。私が一人きりで座っている所に、この猫が向かい合っているので、撫で撫でしながら、「侍従の大納言の姫君がここにいらっしゃるのね。父君の大納言殿にお知らせ申し上げたいわ」と語りかけると、私の顔をじっと見つめながらものやわらかく鳴くのも、そう思って見るせいか、ふと見たところ、普通の猫ではなく、私の言葉を聞き分けているようでしみじみと心惹かれる。

 

「司召」の失意

 

かへる年、一月(むつき)の司召(つかさめし)に、親のよろこびすべきことありしに、かひなきつとめて、同じ心に思ふべき人のもとより、「さりともと思ひつつ、明くるを待ちつる心もとなさ」と言ひて、

明くる待つ鐘の声にも夢さめて秋の百夜(ももよ)の心地せしかな

と言ひたる返りごとに、

暁(あかつき)をなにに待ちけむ思ふことなるともきかぬ鐘の音(おと)ゆゑ  (二八)

 

(口語訳)

 翌年、正月の司召に、父が国司任官の喜びに与るはずだったのに、あての外れた翌朝、同じ気持ちで期待してくれているはずの人の許から、「いくらなんでも今度こそは、・・と思いながら、結果の分かる夜明けを待っていたじれったさといったら」と言って、

  結果はどうかと夜明けを待つ夜、でも暁の鐘の音にその夢も破れました。まるで秋の夜長を百夜も重ねた思いです。

と詠んできた返事に、

この夜明けを、私たちはどうしてこんなに待っていたのでしょう。願いの成就を告げて鳴る暁の鐘でもないのに。

 

清水の夢告

 

かうて、つれづれとながむるに、などか物詣(ものまうで)でもせざりけむ。母いみじかりし古代(こだい)の人にて、「初瀬(はつせ)には、あなおそろし、奈良坂(ならさか)にて人にとられなばいかがせむ。石山(いしやま)、関山(せきやま)越えていとおそろし。鞍馬(くらま)は、さる山、率(ゐ)て出でむいとおそろしや。親上(のぼ)りて、ともかくも」とさしはなちたる人のやうにわづらはしがりて、わづかに清水(きよみづ)に率てこもりたり。それにも例のくせは、まことしかべいことも思ひ申されず。彼岸(ひがん)のほどにて、いみじう騒がしうおそろしきまでおぼえて、うちまどろみ入りたるに、御帳(みちやう)のかたの犬(いぬ)防(ふせ)ぎのうちに、青き織物の衣(ころも)を着て、錦(にしき)を頭(かしら)にもかづき、足にもはいたる僧の、別当(べつとう)とおぼしきが寄り来て、「行くさきのあはれならむも知らず、さもよしなし事をのみ」と、うちむつかりて、御帳のうちに入(い)りぬと見ても、うちおどろきても、「かくなむ見えつる」とも語らず、心にも思ひとどめでまかでぬ。  (四三)

 

(口語訳)

 こんなふうにして、所在なくもの思いにふけっている間に、どうして物詣でなどもしなかったのだろう。母はたいそう昔気質の人で、「初瀬詣でなんて、ああ怖い、奈良坂で人に捕まりでもしたらどうしよう。石山寺は、関山を越えて行くのだからとても怖い。鞍馬は、ああした険しい山で、あなたを連れて出るなんてとても恐ろしくて、父親が上京してから、何とでも・・、ね」と私のことを構いつけないことにしている人のように面倒がって、それでもわずかに清水寺に連れて行ってお籠りをした。その時もいつもの私の癖では、まじめにお願いすべき後世のことなどまるでお祈り申し上げる気にもならない。ちょうど彼岸の頃で、ひどく混雑して恐ろしいまでに思われたが、ついうとうと眠り込んだところ、ご仏前の御帳の方の犬防ぎの内側に、青い織物の法衣を着て、錦を頭にもかぶり、足にもはいた僧で、この寺の別当と思われる人が近寄ってきて、「将来がみじめであるのも知らず、そんなふうにとりとめもないことばかり考えて」と不機嫌に言って、御帳の中に入ってしまった、とそんな夢を見て、はっと目を覚ましても、「こんな夢を見た」とも人に話さず、また心にも止めないで寺から退出してしまった。

 

初瀬の夢告

 

母、一尺(いつさく)の鐘を鋳(い)させて、え率(ゐ)て参らぬ代はりにとて、僧を出(い)だし立てて初瀬(はつせ)に詣(まう)でさすめり。「三日さぶらひて、この人のあべからむさま、夢に見せたまへ」など言ひて、詣でさするなめり。そのほどは精進(さうじ)せさす。

この僧帰りて、「夢をだに見で、まかでなむが、本意(ほい)なきこと、いかが帰りて、「夢をだに見で、まかでなむが、本意なきこと、いかが帰りても申すべきと、いみじうぬかづき行ひて、寝たりしかば、御帳(みちやう)の方より、いみじうけだかう清げにおはする女の、うるはしくさうぞきたまへるが、奉りし鏡をひきさげて、『この鏡には文(ふみ)や添ひたりし』と問ひたまへば、かしこまりて、『文もさぶらはざりき。この鏡をなむ奉れとはべりし』と答へたてまつれば、『あやしかりけることかな。文添ふべきものを』とて、『この鏡を、こなたにうつれる影を見よ。これ見れば、あはれに悲しきぞ』とて、さめざめと泣きたまふを、見れば、臥しまろび泣き嘆きたる影うつれり。『この影を見れば、いみじう悲しな。これ見よ』とて、いま片つ方にうつれる影を見せたまへば、御簾(みす)ども青やかに、几(き)帳(ちやう)押し出でたる下より、いろいろの衣(ころも)こぼれ出で、梅桜咲きたるに、鶯(うぐひす)、木(こ)づたひ鳴きたるを見せて、『これを見るはうれしな』とのたまふとなむ見えし」と語るなり。いかに見えけるぞとだに耳もとどめず。  (四四)

 

(口語訳)

 母は、一尺の鏡を鋳造させて、自分が連れてお参りできない代わりにと言って、代参の僧を立てて初瀬に参詣させるようだ。「三日間お籠りをして、この娘の行く末の様子を、授かった夢でお示しください」などと言って、参詣させるらしい。その間母は私にも精進をさせる。

 この僧が帰ってきて、「夢のお告げさえ見ずに、退出してしまうのは、不本意なことだ、それでは帰京して何とご報告申し上げようかと、一心不乱に礼拝しお勤めをして、寝ていましたところ、御帳の方から、たいそう気高く清楚でいらっしゃる女人で、きちんと正装しておいでの方が、奉納した鏡を手に下げて、『この鏡には願文が添えてありましたか』とお尋ねになるので、かしこまって、『願文はございませんでした。ただこの鏡を奉納するようにとのことでございました』とお答え申し上げたところ、『妙なことね。願文を添えるはずなのに』とおっしゃって、『この鏡を、こちら側に映っている姿を御覧。これを見ると、しみじみ悲しいことよ』とおっしゃり、さめざめとお泣きになるので、見ると、つっぷして泣き嘆いている姿が映っています。『この姿を見ると、とても悲しいことね。ではこちらを御覧』とおっしゃって、もう片方に映っている姿をお見せになると、そこには御簾などが青々として、几帳を端近に押し出したその下から、色とりどりの衣裳の裾、袖口などがこぼれ出て、庭には梅や桜が咲いており、鶯が枝から枝へと飛び移り鳴いています。それを指し、『これを見るのは嬉しいことね』と仰せになる、とそんな夢を見たのです」と母に語ったようである。けれども私はどんなふうに自分の将来が示されたのかということすら心に止めて聞こうともしないのである。

 

前世の夢

 

聖(ひじり)などすら、前(さき)の世のこと夢に見るは、いと難かなるを、いとかう、あとはかないやうに、はかばかしからぬ心地に、夢に見るやう、清水(きよみづ)の礼堂(らいだう)にゐたれば、別当(べつたう)とおぼしき人出で来て、「そこは前(さき)の生(しやう)に、この御寺(みてら)の僧にてなむありし。仏師(ぶつし)にて、仏をいと多く造りたてまつりし功徳(くどく)によりて、ありし素姓(すざう)まさりて人と生まれたるなり。この御堂(みだう)の東におはする丈六(ぢやうろく)の仏は、そこの造りたりしなり。箔(はく)を押しさして亡くなりにしぞ」と。「あないみじ。さは、あれに箔押したてまつらむ」と言へば、「亡くなりにしかば、こと人箔押したてまつりて、こと人供養(くやう)もしてし」と見て後、清水にねむごろ参りつかうまつらましかば、前の世にその御寺に仏念じ申しつけむ力に、おのづからようもやあらまし。いと言ふかひなく、詣(まう)でつかうまつることもなくてやみにき。 (五三)

 

(口語訳)

修行に励む高僧などでさえ、前世のことを夢に見るのは、とても難しいことだと言うが、全くこんなふうに、頼りなく、しっかりしない身で、夢に見たことには、清水寺の礼拝堂に座っていると、別当と思われる人が出てきて、「あなたは前世に、この御寺の僧であったのだ。仏師で、仏像をたいそうたくさんお造り申し上げた功徳によって、前世の素性よりまさって菅原家の人として生まれたのだ。この御堂の東方においでになる丈六の仏像は、あなたが造ったものだ。金箔を貼っているうちに途中で亡くなってしまったのだ」と言う。「まあ大変なこと。それでは、あの仏様に箔をお押し申し上げましょう」と言うと、「あなたが亡くなってしまったので、他の人が箔をお押し申し上げ、他の人が供養もしてしまった」と言う、そんな夢を見てから、清水寺に熱心に参詣し一心にお仕え申し上げたなら、前世にそのお寺で仏様に祈念申し上げたとかいう功徳で、自然と良いこともあったでしょうに。いまさら言っても何のかいもないことだが、お参りしてお勤めすることもなくそのままになってしまった。

 

石山詣で

 

今は、昔のよしなし心もくやしかりけりとのみ思ひ知りはて、親の物へ率て参りなどせでやみにしも、もどかしく思ひ出(い)でらるれば、今はひとへに豊かなる勢ひになりて、ふたばの人をも、思ふさまにかしづきおほしたて、わが身もみくらの山に積み余るばかりにて、後の世までのことをも思はむと思ひはげみて、十一月(しもつき)の二十余日、石山に参る。

雪うち降りつつ、道のほどさへをかしきに、逢坂(あふさか)の関を見るにも、昔超えしも冬ぞかしと思ひ出でらるるに、そのほどしも、いと荒う吹いたり。

 逢坂の関のせき風吹く声は昔聞きしに変はらざりけり

関寺のいかめしう造られたるを見るにも、そのをり、荒造りの御顔ばかり見られしをり思ひ出でられて、年月の過ぎにけるもいとあはれなり。

打(うち)出(いで)の浜のほどなど、見しにも変はらず。暮れかかるほどに詣で着きて、斎屋(ゆや)に下りて、御堂(みだう)に上(のぼ)るに、人声もせず、山風おそろしうおぼえて、行ひさしてうちまどろみたる夢に、「中堂より麝香(ざかう)賜はりぬ。とくかしこへ告げよ」と言ふ人あるに、うちおどろきたれば、夢なりけりと思ふに、よきことならむかしと思ひて、行ひ明かす。

またの日も、いみじく雪降り荒れて、宮に語らひ聞こゆる人の具したまへると物語して、心ぼそきをなぐさむ。三日さぶらひて、まかでぬ。 (六十三)

 

(口語訳)

 今となっては、昔のとりとめもない浮ついた料簡も悔やまれることであったと身に滲みて分かり、親が物詣でにも連れて行かずじまいになってしまったのも、非難したい気持で思い出こされるので、今はただもう裕福な身の上になって、幼い子どもをも、思い通りに大切に育て上げ、自分自身も御倉に積みきれないほどの財宝を蓄え、来世のことまでも考えておこうと気持ちを引き立てて、十一月二十余日、石山寺に参詣する。

雪がしきりに降って、道中の景色まで風情あるところに、逢坂の関を見るにつけても、昔ここを超えたのも冬であったことよと思い出されるが、その折も折、昔と同じようにひどく風が吹き荒れている。

  今ここ逢坂の関を吹き渡る風の音は、昔聞いたそれと少しも変わらないことよ。

 関寺が荘厳に建立されているのを見るにつけても、その昔、荒造りのお顔だけが覗かれたあの時のことが思い出され、年月の過ぎ去ってしまったこともしみじみ感慨深く思われる。

 打出の浜の辺りなど、昔見たのと変わっていない。暮れかかる時分に石山寺に行き着いて、斎屋に下りて、身を清め御堂に上がると、人の声もせず、山風の音が恐ろしく感じられ、勤行を中途で止め、ついうとうとしたその時の夢に、「中堂から麝香を頂戴しました。早くあちらへ知らせなさい」と言う人があるので、はっと目を覚ましたところ、ああ夢だったと思うにつけ、きっと吉夢なのだろうと思って、勤行で夜明かしする。

 翌日も、ひどく雪が降り荒れ、宮家で親しくしていただいている方で、一緒にお籠もりしておいでの女房と話をして、心細さをまぎらわす。三日間お籠りをして、退出した。

 

初瀬詣で

 

 そのかへる年の十月(かみなづき)二十五日、大嘗会(だいじやうゑ)の御禊とののしるに、初瀬の精進(さうじ)はじめて、その日、京を出づるに、さるべき人々、「一代に一度の見物(みもの)にて、田舎(ゐなか)世界の人だに見るものを、月日多かり、その日しも京をふり出でて行かむも、いともの狂ほしく、流れての物語ともなりぬべきことなり」など、はらからなる人は言ひ腹立てど、児(ちご)どもの親なる人は、「いかにもいかにも、心にこそあらめ」とて、言ふに従ひて出だし立つる心ばへもあはれなり。ともに行く人々もいといみじく物ゆかしげなるは、いとほしけれど、「物見て何にかはせむ。かかるをりに詣でむ志を、さりともおぼしなむ。かならず仏の御しるしを見む」と思ひ立ちて、その暁に京に出づるに、二条の大路(おほぢ)をしも渡りて行くに、さきにみあかし持たせ、供の人々、浄(じやう)衣(え)姿なるを、そこら、桟敷(さじき)どもに移るとて行きちがふ馬(むま)も車もかち人も、「あれはなぞ、あれはなぞ」と、やすからず言ひおどろき、あさみ笑ひ、あざける者どももあり。

 良頼(よしより)の兵衛督(ひやうゑのかみ)と申しし人の家の前を過ぐれば、それ桟敷へ渡りたまふなるべし。門(かど)広う押しあけて、人々立てるが、「あれは物詣人(ものまうでびと)なめりな。月日しもこそ世に多かれ」と笑ふ中に、いかなる心ある人にか、「一時(ひととき)が目をこやして何にかはせむ。いみじくおぼし立ちて、仏の御徳かならず見たまふべき人にこそあめれ。よしなしかし。物見で、かうこそ思ひ立つべかりけれ」と、まめやかに言ふ人一人ぞある。

 道顕証(けんそう)ならぬさきにと、夜(よ)深(ぶか)う出でしかば、立ち遅れたる人々も待ち、いとおそろしう深き霧をも少し晴るけむとて、法性寺(ほうさうじ)の大門に立ち止まりたるに、田舎(ゐなか)より物見に上(のぼ)る者ども、水の流るるやうにぞ見ゆるや。すべて道もさりあへず。物の心知りげもなきあやしの童(わらは)べまで、ひきよきて行き過ぐるを、車を驚きあさみたることかぎりなし。これらを見るに、げにいかに出で立ちし道なりともおぼゆれど、ひたぶるに仏を念じたてまつりて、宇治(うぢ)の渡りに行き着きぬ。

 そこにも、なほしもこなたざまに渡りする者ども立ちこみ足れば、舟の楫とりたるをのこども、舟を待つ人の数も知らぬに心おごりしたるけしきにて、袖をかいまくりて、顔にあてて、棹(さを)に押しかかりて、とみに舟も寄せず、うそぶいて見まはし、いといみじうすみたるさまなり。無期(むご)にえ渡らで、つくづくと見るに、紫の物語に宇治の宮のむすめどものことあるを、いかんる所なれば、そこにしも住ませたるならむとゆかしく思ひし所ぞかし。げにをかしき所かな、と思ひつつ、からうじて渡りて、殿の御領所(ごらうしよ)の宇治殿を入(い)りて見るにも、浮(うき)舟(ふね)の女(をんな)君(ぎみ)のかかる所にやありけむなど、まづ思ひ出(い)でらる。

 夜深く出でしかば、人々困(こう)じて、やひろうちといふ所にとどまりて、物食ひなどするほどにしも、供なる者ども、「高名(かうみやう)の栗駒山(くりこまやま)にはあらずや。日も暮れがたになりぬめり。ぬしたち調度(てうど)とりおはさうぜよや」と言ふを、いとものおそろしう聞く。

 その山超えあてて、贄(にへ)野(の)の池のほとりへ行き着きたるほど、日は山の端(は)にかかりにたり。「今は宿とれ」とて、人々あかれて宿もとむる、所はしたにて、「いとあやしげなる下衆(げす)の小家(こいへ)なむある」と言ふに、「いかがはせむ」とてそこに宿りぬ。「みな人々京にまかりぬ」とて、あやしのをのこ二人ぞゐたる。その夜も寝(い)も寝(ね)ず、このをのこ出で入りし歩(あり)くを、奥の方(かた)なる女ども、「などかくし歩かるるぞ」と問ふなれば、「いなや、心も知らぬ人を宿したてまつりて、釜(かま)はしもひきぬかれなば、いかにすべきぞと思ひて、え寝でまはり歩くぞかし」と、寝たると思ひて言ふ、聞くに、いとむくむくしくをかし。

 つとめてそこを立ちて、東大寺に寄りて、拝みたてまつる。

 石上(いそのかみ)もまことに古(ふ)りにけること、思ひやられて、むげに荒れはてにけり。

その夜、山辺(やまのべ)といふ所の寺に宿りて、いと苦しけれど、経すこし読みたてまつりて、うちやすみたる夢に、いみじくやむごとなく清らなる女のおはするに参りたれば、風いみじく吹く。見つけて、うち笑みて、「何しにおはしつるぞ」と問ひたまへば、「いかでかは参らざらむ」と申せば、「そこは内裏(うち)にこそあらむとすれ。博士(はかせ)の命婦(みやうぶ)をこそよく語らはめ」とのたまふと思ひて、うれしく頼もしくて、いよいよ念じたてまつりて、初瀬川などうち過ぎて、その夜御寺(みてら)に詣で着きぬ。祓(はら)へなどして上(のぼ)る。三日さぶらひて、暁まかでむとて、うちねぶりたる夜あり、御堂の方より、「すは、稲荷(いなり)より賜はる験(しるし)の杉よ」とて、物を投げ出づるやうにするに、うちおどろきたれば、夢なりけり。

 暁、夜深く出でて、えとまらねば、奈良坂(ならさか)のこなたなる家を尋ねて宿りぬ。これもいみじげなる小家(こいへ)なり。「ここは、けしきもある所なめり。ゆめ寝ぬな。れうがいのことあらむに、あなかしこ、おびえ騒がせたまふな。息もせで臥(ふ)させたまへ」と言ふを聞くにも、いといみじうわびしくおそろしうて、夜を明かすほど、千年(ちとせ)を過ぐる心地す。からうじて明けたつほどに、「これは盗人(ぬすびと)の家なり。あるじの女、けしきあることをしてなむありける」など言ふ。

 いみじう風の吹く日、宇治の渡りをするに、網代(あじろ)いと近う漕(こ)ぎ寄りたり。

  音にのみ聞きわたりこし宇治川網代の浪(なみ)も今日ぞかぞふる  (六四)

 

(口語訳)

 その翌年の十月二十五日、大嘗会の御禊と世間で大騒ぎをしている時、初瀬詣での精進を始めて、その御禊当日、京を出発と決めたが、しかるべき周囲の人たちが、「大嘗会は天皇一代に一度しかない見もので、田舎の人ですら見るというのに、月日はいくらもある、それなのによりによってその日に、京を振り捨てて出て行こうというのも、まるで狂気の沙汰で、後々までの語り草になってしまいそうなことです」などと、兄弟に当たる人は口に出して腹を立てるが、子どもたちの親である夫は、「どうとでもこうとでも、あなたの気の済むようにするがよかろう」と言って、私の言うままに旅立たせてくれた心遣いも身に滲みる。同行する人々もとても御禊を見物しそうとする真心を、仏様はいくら何でも汲み取ってくださろう。きっと仏様の霊験が現れよう」と思い立って、その明け方に京を出るのだが、御禊の行列の通り道に当たる二条大路を、よりによって通っていくとき、先頭の者に仏前に捧げる灯明を持たせ、供の人々をも浄衣姿であるのを、大勢、桟敷などに席を取ろうとしてあちこち行き交う、馬上の人も牛車の人も徒歩の人も、「あれは何だ、あれは何だ」と、ただごとではないように言い驚き、嘲笑し、口に出して馬鹿にする者たちもいる。

 良信の兵衛督と申し上げた方の家の前を通り過ぎるとき、そこでも桟敷へお移りになるところなのだろう。門を広く押し開けて、人々が立っていたが、「あれは物詣でに行く人らしいね。月日はほかに幾らでもあるのに」と言って笑う中で、何という思慮深い人であろうか、「ほんのひととき目を楽しませてたって何になろう。こんな日に殊勝にも思い立ちなさって、仏のご利益をきっとお受けになる人であるに違いない。たわいもないこと。御禊見物などせずに、こんなふうに物詣でを思い立つべきだったのだ」と、まじめに言う人が一人だけいる。

 道中はっきり人目につかないうちにと、まだ夜深い頃に出発したので、遅れてきた人々をも待ち合わせ、何とか恐ろしいまで深い霧が少し晴れるまで待とうと思って、法性寺の大門の所で立ち止まっていると、田舎から御禊の見物に上京する者たちが、まるで水の風情なども分かりそうにない賤しい子どもたちまでが、人波を避けて通り過ぎて行く私たちを見て、その車に驚きあきれかえっているばかりである。こんな有様を見るにつけ、本当にまあ、何だってこんな旅に出てしまったのだろうかとも思われるけれど、一心に仏にお祈り申し上げて、宇治の渡し場に到着した。

 そこでも、やはりこちらの方へ舟で渡ってくる者たちが大勢いるので、船頭たちは、舟を待つ人が数知れないほどいるのに得意になった面持ちで、袖をまくり上げ、顔に棹を押し当て、棹にもたれかかって、すぐには船も寄せず、とぼけて舟歌などを口ずさんで辺りを見回し、ひどく澄まし返った様子である。いつまでたっても渡れないので、つくづくと風景を眺めると、『源氏物語』に宇治の八の宮の姫君たちのことが書かれているのを、いったいどういう所なので、姫君たちをそこにわざわざ住まわせることにしたのだろうかと、前から興味を持っていた場所ではないか。なるほど趣深い所だな、と思いながら、やっとのこと向こう岸に渡って、関白殿の御領所の宇治殿に入って見るにつけても、浮舟の女君はこうした所に住んでいたのかしらなどと、まずそんなことが思い出される。

 まだ夜の明けないうちに出てきたので、人々は疲れて、「やひろうち」という所で休んで、物を食べたりするちょうどそんな時、供の者たちが、「ここは盗賊が出るので有名な栗駒山ではありませんか。日も暮れ方になってしまうようです。皆さん弓矢などを手放さないでください」と言うのを、たいそう恐ろしいと思って聞く。

 その山を無事越えてきって、贄野の池のほとりに到着した頃、日は山の端にかかってしまった。「今はもう宿の手配をしなさい」と言って、人々は手分けして宿を探し求めるが、中途半端な所で、「ひどくみすぼらしい様子の下人の小家しかありません」と言うので、「しかたあるまい」と言ってそこに宿を取った。「家の者は皆京に出かけてしまいました」と言って、卑しい下男が二人だけいた。その夜も私たちはまんじりともしない。この下男が出たり入ったりして歩き回るので、奥の方の女たちが、「どうしてそんなに歩き回られるのですか」と尋ねる声が聞こえると、「なにね、気心も知れない人をお泊めして、ひょっとして釜でも盗まれてしまったら、どうしたものかと思って、寝てもいられず見回っているのですよ」と、私が寝てしまったと思って言うのを耳にすると、何とも気味悪くまたおかしくもある。

 翌朝そこを発って、東大寺に立ち寄り、拝み申し上げる。

 石上神宮も「石上ふる」の言葉さながら本当に古びてしまったことが、思いやられ、すぅかり荒れ果てていた。

その夜は、山辺という所の寺に泊まって、とても疲れていたけれど、経を少し読み申し上げ、それから休んだ夢の中で、とても高貴で美しい女人のおいでの所に参上したところ、風がひどく吹いている。その人は私を見つけて、微笑んで、「何をしにおいでになったのですか」とお尋ねになるので、「どうして参上せずにおられましょう」と申し上げると、「あなたは宮中に上がることになっています。博士の命婦とよく相談するのがよいでしょう」とおっしゃったかと思うと、夢から覚め、それが嬉しく頼もしくて、ますます熱心にお祈り申し上げ、初瀬川などを渡って、その夜長谷のお寺に到着した。祓えなどをしてから御堂に上る。三日間お籠りをして、明け方退出しようと思って、うとうとまどろんだ夜、御堂の方から、「それ、稲荷からくださった霊験あらたかな杉ですよ」と言って、何か投げ出すようにするので、はっと目を覚ますと、それは夢なのであった。

明け方、まだ暗いうちに長谷寺を出て、途中宿を取りかねたので、奈良坂のこちらよりの家を探して泊まった。これもまた何ともみすぼらしい小家である。「ここは、どうも怪しげな所らしい。決して眠りなさるな。思いがけないことが起こっても、決して怯えたり騒いだりなさるな。息を殺して寝ていらっしゃい」と言うのを聞くにつけても、ほんとうにもうとても情けなく恐ろしくて、夜明けを待つ間、千年を過ごす心地である。やっとのことで夜の明け初める頃、「これは盗人の家です。女主人が、どうもうさんくさいことをしていたんですよ」などと言う。

ひどく風の吹く日、宇治の渡しを超えると、網代のほんの近くまで船が漕ぎ寄った。

 今まで話にだけ聞いてきたあの宇治川網代を、今日はそこにうち寄せるさざ波の数を数えるまでに近々と見ることよ。

 

筑前の友

 

同じ心に、かやうに言ひかはし、世の中の憂(う)きもつらきもをかしきも、かたみに言ひ語らふ人、筑前(ちくぜん)に下りて後、会ひては、つゆまどろまずながめ明かいしものを、恋しく思ひつつ寝入りにけり。宮に参りあひて、うつつにありしやうにてありと見て、うちおどろきたれば、夢なりけり。月も山の端(は)近うなりにけり。覚めざらましをと、いとどながめられて、

 夢さめて寝覚(ねざめ)の床の浮くばかり恋ひきと告げよ西へ行く月  (七三)

 

(口語訳)

 気心が合って、こんなふうに便りを交わし、世間のいやなことも辛いこともおもしろいことも、お互いに親しく話し合っていた人が、筑前に下って後、月のことのほか明るい時分に、こうした晩には、宮家に参上し、あの人に会っては、一晩中眠らずに月を眺め明かしたものだが・・、と恋しく思いながら寝入ってしまった。すると宮家で落ち合って、実際に昔のようにその人と過ごしている夢を見て、はっと目覚めたところ、夢なのであった。月ももう西の山の端近く沈む頃になってしまっていた。古歌にあるように、夢と知っていたら覚めるのではなかったのにと、ひとしおのもの思いが募り、

あなたとお会いした夢から覚めて、寝覚めの床が涙で浮き上がるほど恋しく思われたと、どうかあの人に告げておくれ、あの人のいる西の方へ向かう月よ。

 

夫の死

 

今は、いかでこの若き人々おとなびさせむと思ふよりほかのことなきに、かへる年の四月(うづき)に上り来て、夏秋も過ぎぬ。

九月(ながつき)二十五日よりわづらひ出でて、十月(かみなづき)五日に夢のやうに見ないて思ふ心地、世の中にまたたぐひあることともおぼえず。初瀬(はつせ)に鏡奉りしに、臥しまろび泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。うれしげなりけむ影は、来しかたもなかりき。今ゆく末はあべいやうもなし。二十三日、はかなく雲煙になす夜、去年の秋、いみじくしたてかしづかれて、うち添ひて下りしを見やりしを、いと黒き衣(きぬ)の上にゆゆしげなる物を着て、車の供に泣く泣く歩み出でて行くを見出だして、思ひ出づる心地、すべてたとへむかたなきままに、やがて夢路にまどひてぞ思ふに、その人や見にけむかし。 (七七)

 

(口語訳)

夫の留守となった今は、どうかしてこの幼い子どもたちを一人前に育て上げたいと思う以外のことも考えずにいたところ、夫が翌年の四月に上京してきて、そのまま夏秋も過ぎた。

九月二十五日から病みついて、十月五日に夢のようにはかなく夫を見送って思い嘆く気持ちといったら、世の中にほかに例のあることとも思われない。かつて初瀬に鏡を奉納した時、倒れ臥して泣いている姿が見えたというのは、まさにこのことだったのだ。嬉しそうだったとかいう姿は、これまでにも思い当たることがなかった。ましてこれから先はあろうはずもない。二十三日、はかなく雲煙のように火葬にして立ち上らせる夜、昨年の秋、息子が立派に装い大事にされて、父に付き添って下向したのを見送ったのに、今日はたいそう黒い喪服の上に忌まわしい感じのするもの(素服)を着て、柩の車の供として泣きながら歩いて行く姿を家の中から見て、昨年のことを思い出す気持ちは、全く何ともたとえようもないので、そのまま夢路にさまようように思い嘆くのを、夫はあの世からきっと見たことであろうよ。

 

悔恨

 

 昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて行ひをせましかば、いとかかる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にて前のたび、「稲荷より賜ふ験の杉よ」とて投げ出でられしを、出でしままに、稲荷に詣でたらましかば、かからずやあらまし。年ごろ「天照御神を念じたてまつれ」と見ゆる夢は、人の御乳母して、内裏わたりにあり、みかど后の御かげにかくるべきさまをのみ、夢解きも合はせしかども、そのことは一つかなはでやみぬ。ただ悲しげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれに心憂し。かうのみ心に物のかなふ方なうてやみぬる人なれば、功徳も作らずなどしてただよふ。 (七八)

 

(口語訳)

 昔から、とりとめもない物語や、歌のことばかりに熱中せずに、日夜心に掛けて仏道修行をしたのであれば、全くこんな夢のようにはかない世を見ずにすんだのであろう。初瀬に最初の参籠の折、「稲荷からくださった霊験あらたかな杉ですよ」と言って投げ出されたのを夢に見て、寺を出たなりすぐさま稲荷に参詣していたなら、こんな目に合わなかったであろう。長年「天照御神をお祈り申し上げなさい」と見てきた夢は、私が高貴な人の乳母になり、宮中辺りに出仕し、天皇、后の御庇護を被るようになるだろうとばかり、夢解きも判断したのだけれど、そのことは何一つ叶えられずじまいだった。ただ悲しそうだと見た鏡の中の姿だけが的中したのが、しみじみと悲しく辛い。こんなふうに何一つ思い通りにいかずに終わってしまう私なので、功徳も作ろうとしないままに、ふらふらどっちつかずの日々を過ごしている。

 

阿弥陀仏の来迎の夢

 

さすがに命は憂きにも絶えず長らふめれど、後(のち)の世も思ふにかなはずぞあらむかしとぞうしろめたきに、頼むこと一つぞありける。天喜三年十月十三日の夜の夢に、居たる所の家のつまの庭に、阿弥陀(あみだ)仏(ぼとけ)立ちたまへり。さだかには見えたまはず、霧ひとへ隔たれるやうに透(す)きて見えたまふを、せめて絶え間に見たてまつれば、蓮華(れんげ)の座の、土を上がりたる高さ三四尺、仏の御たけ六尺ばかりにて、金色(こんじき)に光り輝(かかや)きたまひて、御手、片つ方をばひろげたるやうに、いま片つ方には印を作りたまひたるを、こと人の目には見つけたてまつらず、われ一人見たてまつるに、さすがにいみじくけおそろしければ、簾(すだれ)のもと近くよりてもえ見たてまつらねば、仏、「さは、このたびは帰りて、後に迎へに来(こ)む」とのたまふ声、わが耳一つに聞こえて、人はえ聞きつけずと見るに、うちおどろきたれば、十四日なり。この夢ばかりぞ後(のち)の頼みとしける。 (七九)

 

(口語訳)

 とは言えやはり私の命は辛いながら絶えることなく長らえているようだが、現世がこんなことでは後世も思い通りにはいくまいと気がかりだが、実は頼みに思うことが一つだけあったのだ。天喜三年十月十三日の夜の夢に、私の住んでいる家の軒先の庭に、阿弥陀仏がお立ちになっている。はっきりとはお姿は拝見でき、霧を一重隔てているかのようにぼんやり透けてお見えになるのを、強いて霧の切れ目から拝すると、蓮華の台座が、土から三、四尺上がった所に浮かんで、仏の御丈は六尺ほどで、金色に光り輝いておいでになり、御手の、片方は広げたようにして、もう片方は印を結んでいらっしゃるのを、他の人の目には拝することもできず、私だけが一人拝見していると、忝く思うもののやはりたいそうそら恐ろしいので、簾のそば近くまで寄って拝見することもできないでいたところ、仏様が、「それでは、今回は帰って、後に迎えにこよう」と仰せになる声が、私の耳だけには聞こえて、ほかの人は聞きつけることができないでいる。とそんな夢を見て、はっと目を覚ますと、十四日であった。この夢だけを後世の頼みとしたのであった。

 

孤独の日々

 

年月は過ぎ変はりゆけど、夢のやうなりしほどを思ひ出(い)づれば、心地もまどひ、目もかきくらすやうなれば、そのほどのことは、またさだかにもおぼえず。

人々はみなほかに住みあかれて、ふるさとに一人、いみじう心ぼそく悲しくて、ながめ明かしわびて、久しうおとづれぬ人に、

茂りゆく蓬(よもぎ)が露にそほちつつ人に訪(と)はれぬ音(ね)をのみぞ泣く

尼(あま)なる人なり。

  世の常の宿の蓬を思ひやれそむきはてたる庭の草むら (八二)

 

(口語訳)

歳月は過ぎ移り変わっていくけれども、夢のようであった夫との死別の当時を思い起こすと、気持ちも乱れ、目の前も真っ暗になるような気がするので、その当時のことは、再びはっきりとは思い出すことができない。

 共に住んでいた人々は皆ほかの所に別れ別れに住み、長年暮らした家にたった一人、何とも心細く悲しくて、もの思いにふけりながら夜を明かしかねて、久しく便りのない人に、

ますます生い茂る蓬の露に濡れながら、人から訪ねていただけない寂しさに声を上げて泣いてばかりです。

歌を贈った相手は尼になっている人であった。

そんなふうにおっしゃってもあなたの方は世間普通の御邸の葎の茂りですね。どうかお察しください、私のようにすっかり世を捨てた者の庭の草むらを。