元号と『万葉集』

読売日本テレビ文化センター公開講座(講義資料)

 

元号の由来と『万葉集

岡田 誠

 

第一部 元号の由来

 

元号が本格的に使用されるようになったのは、明治以降である。それまでは、元号は存在してはいるが、十干十二支で示していた。また、元号にはフリガナを振らない習慣だったので、読み方の不明な元号も多い。  (参考)山田孝雄『年号読方考証稿』

 

一 元号改元の理由の分類

 

a 代始改元

天皇の即位によって改元

b 祥瑞改元

珍しい現象、めでたい現象がおきたときに改元

c 災異改元

疫病・地震・火災など不吉な現象がおきたときに改元

d 革年改元

辛酉の年甲子の年には革命がおこるとして改元。(中国の古代の予言的思想)

 

二 四文字の年号の時代

 

天平感宝(七四九)

改元理由)陸奥国から黄金が朝廷に献上

天平勝宝(七四九から七五七)

改元理由)孝謙天皇が即位

天平宝字(七五七から七六五)

改元理由)蚕が糸でめでたい文字を書いた・宮中の天井に「天下太平」という宝のようにありがたい字が浮かび上がった。

天平神護(七六五から七六七)

改元理由)不詳

神護景雲(七六七から七七〇)

改元理由)不詳

 

三 一世一元制

 

「明治」という元号

菅原在光

易経』「聖人南面而聴天下、嚮明而治」・『孔子家語』「長聡明、治五気、設五量、撫万民、度四方」

 

「大正という元号

国府種徳

易経』「大亨以正、天之命也」

 

「昭和」という元号

吉田増蔵

書経』「百姓昭明、協和万邦」・『史記』「百姓昭明、合和万国」

 

「平成」という元号

安岡正篤(考案)・山本達郎(再提出)

史記』「内平外成」・『書経』「地平天成」

「保元」「平治」元号の禁忌・

 

「令和」という年号

中西進

万葉集』「初春の令月にして、気淑く風和らぐ」(巻五)

 

 

元号法(昭和五十四年六月十二日法令第四十三号)

1 元号は、政令で定める。

2 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める

附則

1 この法律は、公布の日から施行する。

2 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

 

 

 

 

第二部 『万葉集』概説

 

 

一 上代の日本文学

 

上代文学とは、奈良時代の文学のことである。それまでは、日本語を表記する手段も確立されておらず、口承文学であった。記載文学として、まとまった日本語が書かれたのは、八世紀である。その時期の文学のことを上代文学という。上代文学の主な作品としては、以下のものがある。

 

古事記』(歴史的文学書)

日本書紀』(歴史書

万葉集』(和歌集)

風土記』(地理書)

懐風藻』(漢詩集)

 

この中でも『古事記』と『万葉集』は、重要である。『古事記』は、稗田阿礼という人物が暗誦していたといわれているが、本当に暗誦できるのか、疑問視されてきました。しかし、昭和初期にアイヌ語の研究で有名な金田一京助博士が、アイヌの間で口承されてきたユーカラを全部暗誦している女性を見つけ、自宅に呼び、原稿をおこした。つまり、その女性は、『古事記』と同じぐらいの分量の『ユーカラ』を暗誦していた。この出来事があってから、稗田阿礼が『古事記』を暗誦していたことは確実となった。

 

二 三大歌風の特色

 

○『万葉集

一 長歌・短歌・旋頭歌

二 五七調が主。二句切れ、四句切れが多い。

三 終止形止めが多くある。助詞「も」「かも」で止めるものが多い。

四 枕詞・序詞・対句・繰り返しをよく用いる。

五 生活に即して現実的。率直・直観的・写実的。

六 素朴・直線的・雄大・明朗・男性的。

 

○『古今和歌集

一 短歌が主(長歌・旋頭歌をわずかに含む)。

二 七五調が主。三句切れが多い。

三 係り結び止めが多い。推量・疑問・願望・打消の語がくることが多い。

四 掛詞・縁語・比喩が多くなる。

五 生活から遊離し遊戯的。理知的・観念的・反省的・技巧的。

六 繊細・優美・女性的。

 

○『新古今和歌集

一 すべて短歌。

二 七五調が主。初句切れ、三句切れが多い。

三 体言止めが多い。

四 掛詞・縁語・比喩・本歌取りが多くなる。

五 現実から逃避。観念的・耽美的・構成的・象徴的。

六 幽玄・艶麗・絵画的・物語的。

 

三 和歌の内容上の分類

 

四季の歌(春夏秋冬の歌)

賀歌・・祝いの歌

(例)わが君は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりてこけのむすまで

古今集・読人しらず)

離別歌・・旅などをするにあたっての別れの歌

羇旅歌・・家を離れ、自然などに接触して、その体験や感慨を述べた歌。

物名歌(隠題)・・歌の内容と関係なく与えられた題(事物の名称など)を歌の中に詠み込んだもの

(例)あしひきの山たちはなれゆく雲のやどりさだめぬ世にこそありけれ

(「橘」が詠み込まれている)

恋歌

哀傷歌・・人の死を悲しむ歌

雑歌

 

四 『万葉集』と『新古今和歌集』『百人一首

 

百人一首』二

 

(作者)「持統天皇」六四五―七〇二年。天智天皇の第二皇女。天武天皇の皇后。

藤原京を造営。

 

春過ぎて夏来たるらし白妙の衣ほしたり天の香具山(万葉集・巻一・二八)

春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香具山

 

春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山(新古今集・一七五)

(口語訳)春が過ぎて夏が来てしまっているらしい。夏になると真っ白な衣を干すという天の香具山なのだから。

(語法)

けらし   けるらし

白妙の   「衣」にかかる枕詞・純白の布

てふ    といふ

天の香具山 大和三山(香具山・畝傍山耳成山)の一つ。「天」は『万葉集』では「あめ」、『新古今和歌集』では「あま」と読む。

 

百人一首』四

 

(作者)「山部赤人」生没年未詳。奈良時代初期の宮廷歌人で叙景歌にすぐれていた。歌人として柿本人麻呂と並び称される。

 

田子の浦うち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける

万葉集・巻三・三一八)

田児之浦従打出而見者真白衣不尽能高嶺尓雪波零家留

 

田子の浦うち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ新古今集・六七五)

(口語訳)田子の浦に出てみると、真っ白な富士の高嶺にしきりに雪が降っていることだよ。

(語法)

田子の浦 駿河国静岡県)の海岸

白妙の  枕詞・純白の布

つつ   反復・継続・余情

 

五 万葉仮名の問題点

 

国語の表記をする際に漢字の音を用いる他、訓も利用した複雑巧妙な表記である。

 

訓による表記(訓がな)

大和・・八間跡

薄・・為酢木

音による表記(音がな)

国・・久尓

心・・許己呂

 

これらの万葉仮名を「どうやって読むのか」ということが平安時代以降、学者の間で研究されてきた。その中でも、訓み方が割れている有名な例として、『万葉集』四十八の歌がある。これは教科書にも掲載されている柿本人麻呂の歌である。この歌は、賀茂真淵の訓み方で定着しているが、問題点が多い。

 

東野炎立所見而反見為者月西渡(『万葉集』・四八)の訓み下し

 

賀茂真淵はこの歌を以下のように訓み下した。

 

ひむがしののにかぎろひのたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ万葉集・四八)

(東の野にかぎろひの立つ見えて返り見すれば月傾きぬ)

 

この歌は、旧訓では、以下のとおりである。

 

あづまののけぶりたてたるところみてかへりみすればつきかたぶきぬ

 

この旧訓を賀茂真淵が江戸時代に新たに調子のよい響きに訓み下して以来、その訓読にしたがっており、教材に収録されるときにもこの読み方で採用されている。

そして、与謝蕪村の以下の絵画的な俳諧を連想させる歌として、鑑賞されることが一般的である。

 

菜の花や月は東に日は西に

 

しかし、賀茂真淵の訓み下しには、語法上の面から欠点が指摘されている。その語法上の欠点を補うように訓み下したものとして、伊藤博氏と佐佐木隆氏の訓み下しを比較検討してみることにする。

 賀茂真淵の訓み下しの語法上の欠点を整理すると、以下のとおりである。

 

〇「見ゆ」が活用語を受ける場合には、「終止形+見ゆ」でないといけないのに、「野にかぎろひのの」の「の」を読み添えているために佐伯梅友(一九三八)『万葉語研究』(文学社)の説からすると、「―の―連体形」となり、「連体形+見ゆ」で、「立つ(連体形)見えて」になってしまっている。

〇「炎」を「かぎろひ」と訓んでいるが、「けぶり」ともよめる。

〇「月西渡」を「月傾きぬ」「月傾けり」「月は傾く」と訓んだり、あるいは表記をそのまま生かして、「月西渡る」ともよめる。

 

これら点を考慮して、伊藤博氏と佐佐木隆氏は、それぞれ以下のように訓み下している。

 

伊藤博(一九九五)『万葉集全注』(集英社

ひむがしののにはかぎろひたつみえてかへりみすればつきにしわたる

東の野にはかぎろひ立つ見えて返り見すれば月西渡る

 

○佐佐木隆(一九九六・二〇〇〇・二〇〇四)『上代語の構文と表記』(ひつじ書房)・『上代語の表現と構文』(笠間書院)・『万葉歌を解読する』(NHKブックス)

ひむがしののらにけぶりはたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ

東の野らに煙は立つ見えて返り見すれば月傾きぬ

 

ただし、「月西渡」を、伊藤博(一九八三)『万葉集全注』(有斐閣)では、「万葉では西空の月には必ず傾くというのを尊重してカタブキヌの訓を採る」として「月傾きぬ」としてあったものを、伊藤博(一九九五)『万葉集全注』(集英社)では、以下のように「月西渡る」としている。

 

「『東の野にはかぎろひ立つ』に対しては、原文『月西渡』の文字にそのまま則してツキニシワタルと訓ずる方が適切であろう。『西渡る』は、月や日の移る表現として漢詩文に多用される『西○』(西流・西傾・西帰など)を意識したものらしい」

 

 伊藤博(一九九五)『万葉集全注』(集英社)の訓みは、語法を重視しながらも、用例調査を行っておらず、『万葉集』の言い回しや民俗性をも重視したものであるといえる。逆にいえば、思いつきや発想に頼ってしまっているために迷いが生じて訓みを変えることにもなったともいえる。それに対して、佐佐木隆(一九九六・二〇〇〇・二〇〇四)『上代語の構文と表記』(ひつじ書房)・『上代語の表現と構文』(笠間書院)・『万葉歌を解読する』(NHKブックス)は語法を重視した上で、綿密な用例調査を施しており、たいへん説得力がある訓み下しになっている。用例調査を綿密に行っている点で、佐佐木隆(一九九六・二〇〇〇・二〇〇四)『上代語の構文と表記』(ひつじ書房)・『上代語の表現と構文』(笠間書院)・『万葉歌を解読する』(NHKブックス)の方がすぐれているといえるであろう。

 

賀茂真淵(かものまぶち)(一六九七―一七六九)は、国学者で『万葉考』『国意考』などを著したことで知られ、本居宣長の師匠として、『古事記』の研究を薦めたことでも有名である。賀茂真淵の主な主張は以下のとおりである。

 

〇『万葉集』には、古代日本人の「高く直き心」(おおらかで自然な心)が表れたものとし、和歌に古代日本人の心情が発露していると考えた。

〇『万葉集』の調べは「ますらをぶり」(男性的でおおらか)で、「高く直き心」が和歌の響きとして表れたものであるから、尊重しなければならないとした。

〇『万葉集』は素直な心情の発露で、そこには「からくにぶり」(儒教や仏教のような人為的なもの)はまったく感じられない、日本人の心そのままであるとした。

 

六 『万葉集』の概略

 

万葉集』は奈良時代に編纂された現存最古の歌集である。全部で二〇巻(第一部が巻一から巻一六まで、第二部が巻一七から巻二〇まで)、歌数は約四五〇〇首である。短歌を中心に、長歌・旋頭歌・仏足石歌・漢詩を含んでいる。舒明天皇の時代から天平宝字三年(七五九)までの、約百三十年間の歌が収められている。最終的な編者は大伴家持が有力とされている。他に、橘諸兄説や勅撰説などもある。

内容を大きく分類すると、雑歌(自然や宮中儀式、旅などで詠んだもの)・相聞歌(男女の恋を詠んだもの)・挽歌(死を悼む歌や臨終の歌、死者を追慕する気持を詠んだもの)に分けられる。この三つを「三大部立」と呼んでいる。

表記は、「万葉仮名」と呼ばれる、中国から漢字を借りて表記として用いた。この「万葉仮名」の解読には、平安時代以降に盛んに研究されてきているが、現在でも読み仮名の確定していない歌も数多くあり、研究も盛んである。また、この「万葉仮名」の研究から古代日本語には八つの母音があったことが、橋本進吉博士「古代日本語の母音について」という論文によって立証された。つまり、「ア・イ・ウ・エ・オ」の他に、やや暗い響きの「イ・エ・オ」があったと推定される。この母音の区別は、平安時代になると消滅したようである。

万葉集』の修辞技巧としては、枕詞・序詞を使用している。特に枕詞は解釈できないものがほとんどであるために、言霊で呪術的なものとしてとらえることが多い。

万葉集』の歌風の変遷としては、以下のように、四つに分けるのが一般的である。

 

(第一期)「初期万葉の時代」天智天皇天武天皇額田王・鏡王女・有間皇子

藤原鎌足など。

(第二期)「人麻呂の時代」持統天皇柿本人麻呂大津皇子・大伯皇女・志貴皇子

稲積皇子・但馬皇女石川郎女高市黒人など。

(第三期)「山部赤人山上憶良の時代」山部赤人山上憶良高橋虫麻呂など。

(第四期)「大伴家持の時代」大伴家持大伴坂上郎女・笠郎女など。

 

第一期は古代歌謡の影響を受けながら、素朴で純真な歌が多い。第二期はみずみずしく力強い歌が多い。第三期は個性的な歌人が多く現れて、多彩な歌風が展開される。第四期は政情不安なことも反映しているためか、繊細で観念的な歌が多い。

万葉集』の原本は発見されていないため、平安時代の中期に源兼行によって書かれた『桂本万葉集』が現存する最古の写本である。他の写本としては、『元暦校本万葉集』『藍紙本万葉集』『金沢本万葉集』『天治本万葉集』などがある。

平安時代以降、勅撰和歌集ということもあって『古今和歌集』が和歌の聖典のような扱いを受けていたが、それに対して正岡子規が『万葉集』の価値を力説してから、『万葉集』の研究が盛んになった。その後、斎藤茂吉が『万葉集』の歌を歌人の立場から約四〇〇首を丁寧に解釈した、『万葉秀歌』(岩波書店)という名著も出版された。学者としては折口信夫が『口訳万葉集』を出版して口語訳を示した。

万葉集』を詠むには、多くの知識が必要である。国文学・国語学・日中比較文アg九・民俗学歴史学・考古学・植物学・書誌学などである。そのため、さまざまな研究の方法がある。例えば、表記の研究・字余りの研究・文法や語法の研究・音韻の研究・風土の研究・歴史学的な研究・作者と作品との関連の研究・中国最古の漢詩集である『詩経』や『古事記』『日本書紀』との比較研究・配列の研究・類歌の研究などがある。さまざまなアプローチがあるので、研究も盛んで開かれたものとなっている。「万葉学会」にも多くの会員がいるのである。

 

七 『万葉集』の書名の訓み方の変遷

 

一、A マニエフシフ(奈良から平安初期)

B マンエフシフ(奈良から平安初期)

二、マンエフシウ(平安から鎌倉)

三、A マンヨウシュウ(室町以降・現在の通行の訓み)

B マンニョウシュウ(室町以降・連声の作用)

 

八 『万葉集』の書名の由来の諸説

 

一、多くの歌を集めた集

二、多くの世代にわたる歌集

三、万世にまで伝えるべき歌集

四、天子の御代万歳を寿福する歌集

 

九 『万葉集』の主な歌人と歌風

 

(代表的な万葉歌人

舒明天皇       素朴・清純

有間皇子       強い真実感

額田王           優雅

柿本人麻呂    長歌を完成・雄大荘重

高市黒人       瞑想的・観照

山部赤人       叙景歌人・絵画的

大伴旅人       思想的叙情歌人

山上憶良       人生歌人

高橋虫麻呂    伝説歌人

大伴家持       鋭敏・繊細

 

(第一期)初期万葉の時代・六二〇―六七〇・壬申の乱前後までの動乱の時代

 

額田王(ぬかたのおおきみ)

(特徴)力強く、情熱的で豊かな感情を華やかに歌い上げた。

 

あかねさすむらさきのゆきしめのゆきのもりはみずやきみがそでふる

あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る(一・二〇)

(美しい紫色を染め出す紫草の野を行き、立ち入りを禁じられた野を行き、野の番人が見るではありませんか、あなたがしきりに私に袖を振るのを。)

大海人皇子の返歌)

むらさきのにほへるいもをにくくあらばひとづまゆゑにわれこひめやも

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも(一・二一)

(美しい紫草のように匂い立つあなたが憎いのなら、もう人妻なのに何で私が恋をするだろうか。)

 

○有間(ありまの)皇子(みこ)

(特徴)斉明天皇の時代、謀反を企てたとして刑死。わずか十九歳であった。

 

いへにあればけにもるいひをくさまくらたびにしあればしひのはにもる

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(二・一四二)

(家にいるときにはいつも食器に盛る飯を、旅の途中なので椎の葉に盛ることだ。)

 

(第二期)万葉調の時代・六七〇―七一〇・律令国家の確立

 

○柿本(かきのもとの)人麻呂(ひとまろ)

(特徴)宮廷歌人として皇室を賛美した歌が多く、長歌形式を完成した。『万葉集』に約五〇〇首収録させる代表的歌人

 

ひむがしののにかぎろひのたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ

東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ(一・四八)

(東の野にあけぼのの光が差すのが見えて、振り返ってみると西の空に月が傾いているよ。)

 

○大津(おおつの)皇子(みこ)

(特徴)天武天皇時代、皇太子草壁皇子に謀反を起こした罪で刑死。二十四歳であった。

 

足引きの山の志津国井も待つと割れたちぬれぬやまのしづくに

あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに(二・一〇七)

(あなたを立って待っていると、私は山の木からのしずくにすっかり濡れてしまった。山のしずくに。)

 

(第三期)万葉調の最盛時代・七一〇―七三〇・律令政治の安定期

 

山部赤人(やまべのあかひと)

(特徴)叙景歌にすぐれ、これを完成。絵画的な歌風。

 

ぬばたまのよのふけゆけばひさきおふるきよきかはらにちどりしばなく

ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く(六・九二五)

(夜が更けていくと、久木の生えている清き川原に千鳥がしきりに鳴いているよ。)

 

大伴旅人(おおとものたびと)

(特徴)大宰帥、大納言などを歴任。藤原氏の圧迫に苦しんだ。

 

あわゆきのほどろほどろにふりしけばならのみやこしおもほゆるかも

沫雪のほどろほどろに降り敷けば平城の京し思ほゆるかも(八・一六三九)

(泡のように消えやすい雪がはらはらと降りしくと、奈良の都が懐かしく思われるよ。)

 

山上憶良(やまのうえのおくら)

(特徴)苦しい生活体験や妻子に対する愛情を詠んだ。

 

しろかねもくがねもたまもなにせむにまされるたからこにしかめやも

銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも(五・八〇三)

(銀も金も玉も何にしようか。優れた宝である子どもに及ぼうか、いや及びはしない。)

 

(第四期)万葉時代の終焉時代・七三〇―七六〇・天平文化爛熟期・社会矛盾拡大期

 

大伴家持(おおとものやかもち)

(特徴)『万葉集』の編者といわれている。歌風は感傷的で繊細、現実から離れ、想像の美を描く。

 

はるのそのくれなゐにほふもものはなしたてるみちにいでたつをとめ

春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出でたつ少女(一九・四三九)

(春の園の紅に美しく咲いている桃の花。その色が下に映えている道に出て立つ乙女よ。)

 

(歌の種類)部立

◇相聞           贈答の歌。恋愛歌が中心をなすが、親近者や知友などの間に交わした歌もある。

◇挽歌        柩を挽くときにうたう葬送の歌の意であるが、転じて死をいたむ歌。辞

世の歌や、故人を追想する歌も含む。

◇雑歌           行幸供奉、遊猟、宴遊、自然諷詠など、雑多な内容の歌

 

◇東歌        遠江、武蔵、信濃陸奥など東国地方の民謡で、いつとはなしに民間に

うたわれた歌。方言のはいった素朴なものが多い。

◇防人歌       西辺の守りにつくため東国から派遣された兵士の歌。

 

十 万葉集の影響を受けた歌人

 

(鎌倉)

源実朝

(江戸)

賀茂真淵田安宗武・橘曙覧・平賀元義

(明治)

正岡子規・島木赤彦・斎藤茂吉折口信夫・森信三

 

十一 万葉集の主な注釈書

 

(江戸)

万葉代匠記           契沖

万葉集考              賀茂真淵

万葉集略解           橘千蔭

万葉集古義           鹿持雅澄

(昭和)

万葉集全註釈       武田祐吉

万葉集注釈           沢瀉久孝

 

十二 万葉人の四季の景物

 

(春)一から三月

ウメ・モモ・ツバキ・スミレ・アシビ・サクラ・ツツジ・ウグイス・キザシ・サワラビ・春雨・霞

(夏)四から六月

フジ・アヤメグサ・ユリ・ウノハナ・カキツバタホトトギス・ヒグラシ

(秋)七から九月

ナデシコオミナエシ・ハギ・モミジ・ススキ・サネカズラ・ツルハミ・シカ・カリ・七夕・秋風・時雨・霧

(冬)十から十二月

ヤマタチバナ・ササ・マツ・・霜・新年

 

十三 山上憶良が詠んだ「秋の七草」と「七夕」

 

萩の花 尾花葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花

(巻八・一五三八)

〇万葉のころは、キキョウのことをアサガオと呼んでいた

 

天の川 相向き立ちて 我が恋ひし 君来ますなり 紐解き設けな

(巻八・一五一八)

(天の川で向かい合って、私が恋い焦がれているあの方が今夜おいでになる。さあ、衣の紐を解いてお待ちしよう)

 

十四 天武天皇を現人神とする思想

 

大君は神にしませば赤駒のはらばふ田井を京師となしつ(大伴御行

 

大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ(作者未詳)

 

大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも(柿本人麻呂

 

「大君」 ①天武天皇 持統天皇

「都」「京師」 ①飛鳥清御原宮 藤原京

壬申の乱(六七二年)↓現人神思想

 

十五 額田王

 

額田王は、『万葉集』第一期の女流歌人である。はじめ大海人皇子(後の天武天皇)に寵愛を受けて、十市皇女を生んだが、後には天智天皇に愛された。歌は優美で情熱的である。その歌からは、巫女的な性質を感じ取ることができる。以下、代表歌をあげてみる。

 

にきたつにふなのりせむとつきまてばしほもかなひぬいまはこぎいでな

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(巻一・八)

(熟田津で船出しようと月の出を待っていると、潮もちょうどよく満ちてきた、さあ、漕ぎ出そう。)

 

冬こもり 春さりくれば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我は(巻一・一六)

(春が来ると、冬の間は鳴かなかった鳥もやってきて鳴く。咲かなかった花も咲いているけれど、山の木々が鬱蒼と茂っているので、分け入っても取らず、草が深く茂っているので、手に取っても見ない。秋の山の木の葉を見ては、紅葉したのを手に取っては美しさを味わい、まだ青いのはそのままにして嘆く。その点こそ残念ですが、秋の山の方が優れていると私は思います。)

 

みわやまをしかもかくすかくもだにもこころあらなもかくさふべしや

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや(巻一・十八)

(なつかしい大和の国の三輪山をそのように隠すのか。せめて雲にだけでも思いやりがあってほしい。振り返り振り返り見たい山なのに、そのように雲が隠してよいものか。)

 

あかねさすむらさきのゆきしめのゆきのもりはみずやきみがそでふる

あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る(巻一・二〇)

(美しい紫色を染め出す紫草の野を行き、立ち入りを禁じられた野を行き、野の番人が見るではありませんか、あなたがしきりに私に袖を振るのを。)

大海人皇子の返歌)

むらさきのにほへるいもをにくくあらばひとづまゆゑにわれこひめやも

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋ひめやも(巻一・二一)

(美しい紫草のように匂い立つあなたが憎いのなら、もう人妻なのに何で私が恋をするだろうか。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参考資料) 『万葉集』の秀歌を詠む

 

あかねさす紫野行き標野行き野守りは見ずや君が袖振る

(巻一・二〇・額田王

(紫草を植えた御料地をあちこちとお歩きになって、まあ野の番人が見るではありませんか、あなたが袖を振ってわたしに合図しておいでなのを。)

 

秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めむ山路知らずも

(巻二・二〇八・柿本人麻呂

(秋山のもみじが茂っているために山中に迷って帰れなくなってしまった、わがいとしい妻を探し求めようにもその山道がわからないことであるよ。)

 

あしひきの山川の瀬に鳴るなべに弓月が嶽に雲立ち渡る

(巻七・一〇八八・柿本人麻呂

(山あいのを流れる川の瀬音が高く響くとともに、弓月が嶽に雲が一面に立ちのぼることだ。)

 

葦辺行く鴨の羽交に霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ

(巻一・六四・志貴皇子

(葦の生えている海辺を泳ぐ鴨の羽の合わせ目に霜が降って寒い夕べには、いま旅中にある自分としては、大和の暖かいわが家のことが思い出されてならない。)

 

近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

(巻三・二六六・柿本人麻呂

(近江の琵琶湖、その夕波に鳴き飛ぶ千鳥よ、おまえがそんなふうに鳴くと、わたしは心もしっとりとひきつけられるように、ここに天智天皇の大津の宮が栄えた昔のことが思い出されてならない。)

 

天ざかるひなの長路ゆ恋来れば明石の門より大和島見ゆ

(巻三・二五五・柿本人麻呂

(都を遠く離れたいなかの長い旅路をずっと通って、故郷の大和を早くみたいと恋いつつ来ると、明石海峡から大和の山々が見える、ああなつかしいことだ。)

 

あわ雪のほどろほどろに降りしけば平城の京し思ほゆるかも

(巻八・一六三九・大伴旅人

(あわのように解けやすい雪がはらはらと降りしきるのを見ると、こうして大宰府にいるわたしには、奈良の都のようすがしきりと思い出されてならないことであるよ。)

 

いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎたみ行きし棚無し小舟

(巻一・五八・高市黒人

(もう日暮れとなってしまった今時分、どこに船泊まりしているだろうか。さきほどは安礼の崎を漕ぎ回って行ったあの棚無し小舟は。)

 

稲つけばかかる吾が手を今宵もか殿の若子が取りて嘆かむ

(巻一四・三四五九・東歌)

(いつも稲をついているのでこんなにあかぎれのできているわたしの手を、今夜もまた御殿の若君がお取りになって、かわいそうだとお嘆きくださることだろうなあ。)

 

磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた帰り見む

(巻二・一四一・有間皇子

(わたしは今この磐代の浜を通るにあたって、世人がするように、わが命と旅の無事を祈って松の枝を結び合わせて行くが、もし無事であったならばまた帰って来てこの結んだ枝を見よう。)

 

石走る垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも

(巻八・一四一八・志貴皇子

(寒さ厳しい冬が過ぎて、石の上を激しく流れる滝のほとりのわらびが芽を出す、楽しい春になったことであるよ。)

 

石見のや高角山の木の間よりわが振る袖を妹見つらむか

(巻二・一三二・柿本人麻呂

(石見の高角山の木の間から私が振る袖を、いとしい妻は見たことであろうか。)

 

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

(巻二・一四二・有間皇子

(家にいるときにはいつも食器に盛る飯を、旅の途中であるから椎の葉に盛ることである。)

 

妹が見しあふちの花は散りぬべしわが泣く涙いまだ干なくに

(巻五・七九八・山上憶良

(いとしい妻がかつて病中に見たせんだんの花は今年も咲いたが、すぐまた散ってしまうだろう。妻を失った悲しみに泣く私の涙がまだかわきもしないのに。)

 

妹として二人造りしわが山斎は木高く繁くなりにけるかも

(巻三・四五二・大伴旅人

(今は死んでしまった妻とかつていっしょに造ったわが家の庭の植え込みは、木立も高く伸び枝も茂ってしまったことであるよ。)

 

うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山をいろせとわが見む

(巻二・一六五・大伯皇女)

(一人この世に生き残った人である私は、弟を葬った所だから、明日からはこの二上山をいとしい弟と思って眺めよう。)

 

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも一人し思へば

(巻一九・四二九二・大伴家持

(うららかに照っている春の日に、ひばりが空高く上がってさえずり、その声を聞いている私は心が傷むことであるよ、一人物思いにふけっているので。)

 

憶良らは今は罷らむ子泣くらむそを負ふ母もわを待つらむそ

(巻三・三三七・山上憶良

(わたくし憶良などは今はもうこの宴席からおいとまして引き下がりましょう。なぜって、家ではわが子が泣いておるでしょうし、その子を背負っている母、つまり愚妻もまたわたくしの帰りを待っておるころでしょうから。)

 

勝鹿の真間の井を見れば立ちならし水汲ましけむ手児奈し思ほゆ

(巻九・一八〇八・高橋虫麻呂

葛飾の真間の井を見るにつけも、昔朝夕ここの地面を平らにするほどにやってきて水を汲まれたという、あの手児奈のことがしきりと思い出されてならない。)

 

韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして

(巻二〇・四四〇一・他田舎人大島)

(わたしの着物の裾にすがりついて泣く子どもたちを置いて、わたしは防人として出てきてしまったことだよ、あの子どもたちは世話する母親もいないけれども、どうしているだろうか。)

 

君が行く道のながてを繰りたたね焼きほろぼさむ天の火もがも

(巻一五・三七二四・狭野茅上娘子)

(いとしいあなたが流されていらっしゃる越前までの長い道を、たぐりよせたたみ重ねて焼いてなくせるような天の火がほしいものですよ。道がなくなればあなたは流されて行くことがないでしょうし、たとえ流されて行っても都との距離の遠さがなくなるでしょうから)

 

君待つとわが恋ひをればわが宿のすだれ動かし秋の風吹く

(巻四・四四八・額田王

(あなたのおいでを待ってわたしが恋しく思っておりますと、わたしの家の戸口のすだれを動かして秋風が吹くことでございます。あなたのおいでになる前知らせでしょうか)

 

防人に行くはたが背と問ふ人を見るがともしさもの思ひもせず

(巻二〇・四四二五・防人歌)

(防人として行くあの人はだれの夫ですかと尋ねる人を見ることのうらやましさよ。その人はなんの心配もしないでおいでになる。わが夫が防人に行くので悲しんでいるわたしの気持ちも知らないで)

 

桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟潮干にけらし鶴鳴きわたる

(巻三・二七一・高市黒人

(桜の田の方へ鶴が鳴きながら飛んでいく。きっと年魚市潟は潮が引いて干潟となったに違いない。それで水辺を求めて鶴があんなに鳴きながら群れ飛んで行くことだ)

 

ささなみの志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも会はめやも

(巻一・三一・柿本人麻呂

(志賀の大きな入り江は昔ながらに今も水が淀んでいるが、たとえいつまでも水が淀んでいようとも、天智天皇の都を置かれた時の人にふたたび会うことができようか。いやもう会うことができないことであるよ)

 

ささなみの志賀の辛崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ

(巻一・三〇・柿本人麻呂

(この志賀の辛崎は昔と変わらず無事になるけれども、天智天皇が置かれた都はもう荒れ果ててしまったから、あの宮仕えの人たちがここで遊び興じたあの船の姿はもう待っていても見ることができなくなってしまったのだ)

 

笹の葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば

(巻二・一三三・柿本人麻呂

(笹の葉は山全体が鳴るごとく風にさやさやと鳴り騒いでいるけれども、わたしはそんな山中の道を歩きながらなにか不安な思いにかきたてられる心を抑えて、ひたすら妻のことを思っている。別れて来たので)

 

信濃路は今の墾道刈株に足踏ましなむ履はけ吾が背

(巻一四・三三九九・東歌)

信濃路は新しく切り開いたばかりの道です。だから草木の切り株があってきっとそれをお踏みになるでしょう。そうなったらたいへんですら、どうぞくつをはいていらっしゃい、わがいとしいあなたよ)

 

白珠は人に知らえず知らずともよし知らずともわれし知れらば知らずともよし

(巻六・一〇一八・元興寺の僧侶)

(真珠はその真価をなかなか人に知られないでいる。しかし、知らなくともよい。他人が知らなくともせめて自分が自分の優れた才能を知っていれば、他人などが知らなくともよい)

 

 

日本語教授法

ポスト教授法時代

岡田 誠

 

 

1.はじめに

 

1980年代後半から現在まで、ポスト教授法時代(post methodの時代、methodの死、methodを越えよう)といわれている。本稿では、先行研究などを引用しながら、教授法の変遷の枠組などの違いを紹介してみることとする。

 

 

2.ポスト教授法時代についての先行研究

 

J・V・ネウストプニー(1991)では、「ポスト・オーディンガルの語学教育はいわゆるコミュニカティブ・アプローチから始まったが、現在もまだ完成されているとはいえない。」と述べ、次の三つの問題点をあげている。

 

1日本語教育の社会的機能

2日本語教育とジャパン・リテラシーとの関係

3インターアクション場面の実際使用

 

J・V・ネウストプニー(1991)は、この中で「ビジネスのための日本語教育の必要性」、「国際友情のためになるべきである」、「コミュニケーションからインターアクション(言語、社会言語および社会文化能力)教育に向かう必要性」、「学習者が現在あるいは将来参加すると思われるすべての場面における行動への指導の必要性」などを述べている。これらのためには、D.ハイムズの八つのモデルを基本にコースデザインするとよいと述べている。

 

1点火ルール(どんな場合、何のためにコミュニケーションを始めるか)

2セッティングルール(いつ、どこでコミュニケーションをするか)

3参加者ルール(誰と誰がコミュニケーションをし、どんなネットワークを形成するか)

4バラエティルール(コミュニケーションのルールのどのようなセットを使用するか)

5内容ルール(どのような内容を伝えるか)

6形のルール(内容項目をどのようにメッセージの中で並べるか)

7媒体のルール(メッセージをどのように具体化するか、非言語コミュニケーションのチャンネルのことなど)

8操作のルール(コミュニケーションをどのように評価したり、評価の結果直したりするか)

 

また、J・V・ネウストプニー(1995)では、次のように大きく教授法の型を三つにとらえ、個々の段階において種々の学習法(ダイレクト・メソッド、TPR、サイレントウェイなど)があるが、これらは次の三つのどれかに当てはまるとしている。

 

1文法翻訳法型(GT

2オーディオ・リンガル型(AL

3ポスト・オーディオリンガル型(PAL

 

これらの三つの分類を行った上で、オーディオリンガル(PAL)の教授能力観の基盤を次のように述べている。

 

ポスト・オーディオリンガル(PAL)、つまりオーディオリンガル以後の教授能力観の基盤は、1960年以後の世界的規模における経済などの統合の結果だといえるだろう。・・〈中略〉・・PALの時代になってはじめて学習者のコミュニケーション問題の分析が行われるようになり、コース・デザインへの体系的なアプローチが見られるようになった。

 

J・V・ネウストプニー(1995)では細かく扱っていない、1960年以降の日本語教授法の状況については、伴紀子(1997)が詳しい。その要点をまとめると次のようなる。

 

1.伝統的な日本語教授法が60代にオーディオリンガル・メソッドの科学的な言語理論と体系化された指導法に影響をうけて、新しい教科書が編成され、口頭練習に文型練習などさまざまな練習方法をとり入れられるようになったのだが、それによって伝統的な日本語教授法の理論が大きく変更されることはなかった。この二つの教授法は、言語は構造であり、音声を第一とする、という基本的な言語理論において類似していた。

2.オーディオ・リンガルメソッドも変形生成文法の立場から、あるいは第二言語習得論の立場から批判を受け、また言語教育の現場からも形の練習だけでは学習者の創造的発話力はつかないという意見が強まってくると、次第に言語教育に新たな変革の波が押しよせてくるのである。そして、コミュニケーションの側面に焦点をあてた教授法、コミュニカティブアプローチの誕生となる。

3.日本語教育も80年代に入ってようやくコミュニケーションを中心とした外国語教育(CLT)理論の影響を受け、学習理論の内容が一気に方向転換し、コミュニケーションのための日本語教育をめざす教授活動が動き始めた。

4.70年代から80年代は、主要な教授法以外にも独自の教授法理論に基づいた各種の教授法、TPR、サジェストペディア、サイレントウェイ、CLLナチュラル・アプローチが提唱された。しかしながら、これらの教授法は日本語教育に大きく影響を与えるものではなかった。

5.今日の外国語教育は、言語学や心理学だけではその理論づけは不十分となり、さまざまな関連分野の影響を受けるようになっているため、外国語教育の軌道を大きく変えるほどの教授法は、もはや生まれにくくなっているのかもしれない。現在は、コミュニケーション中心の外国語教育の枠組みの中で変更や修正が求められるCLTの転換期、あるいは教授法隆盛後の状況に入っていると言えよう。

 

伴紀子(1997)のいう、「現在は、コミュニケーション中心の外国語教育の枠組みの中で変更や修正が求められるCLTの転換期、あるいは教授法隆盛後の状況に入っていると言えよう」という記述であるが、このことについては、白井恭弘(2008)が、チョムスキー生成文法の影響で言語の背後にある構造というものが重要であるとする理論が主流になったため、構造主義言語学行動主義心理学の基盤が揺らぎ、オーディオリンガル教授法は理論的支柱を失い、対照分析とオーディオリンガル教授法の時代が終わったことを述べた後、次のように述べている。

 

その後は、音楽を聞かせながら勉強するサジェストペディアや、ほとんど話さずに学習するサイレント・ウエイなど、面白い教授法がいくつか出てきましたが、教授法に関しては、決定打がない、という状況が続いています。しかし、第二言語習得や、応用言語学の知見から、望ましいと考えられている原則はあります。それは、「言語の形式にではなく言語の意味に焦点をあてる、すなわち言語を使ってメッセージを伝える」ことに学習活動の重点を置くことです。これは、「コミュニカティブ・アプローチ」、もしくは「伝達中心の教授法」などと呼ばれています。

 

このように構造主義言語学行動主義心理学という理論が主流から外れ、科学的な研究は「第二言語習得」という分野に移ったことがわかる。

ジャック・C・リチャーズ&シオドア・S・ロジャーズ(2007)では、J・V・ネウストプニー(1995)の時期区分と異なり、次のように三つの時期に分けている。

 

Ⅰ20世紀の言語教育における主要な動向

(「言語教育の歴史」「言語教育におけるアプローチとメソッド」「オーラル・アプローチと場面教授法」「オーディオリンガル・メソッド」)

Ⅱオーディオリンガル・メソッド以降のアプローチとメソッド

(「全身反応法」「サイレント・ウェイ」「コミュニティ・ランゲージ・ラーニング」「サジェストペディア」「ホール・ランゲージ」「多重知能」「神経言語プログラミング」「レクシカル・アプローチ」「コンピテンシー重視の言語教授法」)

Ⅲ現在のコミュニカティブ・アプローチ

(「コミュニカティブ言語教授法」「ナチュラル・アプローチ」「共同言語学習法」「内容重視の指導法」「タスク重視の言語教授法」「ポスト教授法時代」)

 

このように文法訳読法とオーディオリンガルメソッドを一つにまとめ、生成文法の影響後からコミュニカティブアプローチの出現までを一つの時期とし、現在のコミュニカティブ・アプローチを詳細に説明しているところに特徴がある。

また、家根橋伸子(2012)は、第二言語研究における「方法」概念の変遷という観点(注1)から、次のように三区分し、「教授法興隆の時代に定着したコミュニカティブ・アプローチは、社会言語学社会学文化人類学、異文化間コミュニケーション論など、多様な学際的学問分野を背景としている」とし、ジャック・C・リチャーズ&シオドア・S・ロジャーズ(2007)の区分と同じ傾向の区分をしている。

 

1「教授法興隆の時代」前の時代(1960年代まで)

2「教授法興隆の時代」(1970年代から1980年代前半)

3「教授法興隆の時代」後から現在(1980年代後半以降)

 

この「方法」という視点から、トップダウン的に構築される方法と、ボトムアップ的な方法とが提唱され、その両者を融合する方法が模索されてはいるが、社会的構成としての方法観は相互作用の中での学習者の学習過程上の求めに教師がどう答えるかということが方法の中心であると述べている。

白井恭弘(2008)は、コミュニカティブ・アプローチ(注2)のやり方には、「インプットモデル」と「インプット=インターアクションモデル」という二つのやり方があることを述べている。この二つの方法について、白井恭弘(2008)では次のように述べている。

 

インプットモデルは、クラシェンのインプット仮説にもとづいて、「話すことは強制しない」という方針のもと、インプットを理解させることに最大の重点を置く教授法です。それに対してインプット=インターアクションモデルは、もともとは第二言語習得のデータにもとづいて提案されたわけではありません。言語の形式だけでなくその機能も重視する「機能主義言語学」の応用として出てきたものです。ただ、その後、第二言語習得理論の「インターアクション仮説」がその理論的基盤になりました。このインターアクション仮説という理論は、マイケル・ロングが1980年代に提案しています。言語習得の根本的メカニズムとして「インプットの理解」を前提としている点では、クラシェンのインプット仮説を踏襲しているわけです。重要なのは、それに加えて、インターアクション(すなわち会話)に参加することにより、わからないところを聞き返したりして、「意味交渉」がおこるため、相手のインプットがより理解しやすいものになり、それで言語習得がすすむ、という考え方です。・・(中略)・・クラシェンがその後第二言語習得研究の主流から退いたこともあり、現在のところ、インプット=インターアクションモデルが第二言語の教授法の主流として定着してきています。

 

また、白井恭弘(2007・2008)では学習ストラテジーとして、オックスフォードの分類を紹介している。

 

○学習ストラテジー

Ⅰ直接ストラテジー

記憶ストラテジー

認知ストラテジー

補償ストラテジー

Ⅱ間接ストラテジー

メタ認知ストラテジー

情意ストラテジー

社会的ストラテジー

 

 

3.結び

 

先行研究を概観してみたが、このようにポスト教授法は、コミュニカティブアプローチの流れをどのように生かすかという方向で進んでいることがわかる。また、社会的視点や科学的・学際的・博物学的なさまざまな領域の理論を背景としてきているととらえることもできる。学習者にとって、理論と実践とのバランスのとれた教授法、実践で役立つ教授法というものに向かって進んでおり、そこに至るプロセスの違いが問題となっていることがわかる。

 

 

(注)

1

アプローチとメソッドとは大きくはどちらも教授法として理解してようであるとしながらも、伴紀子(1997)は、「原則として言語はいかに教えられるべきかといった理論的な見解を述べたものがアプローチであり、言語教材をどの順番で提示するかなど具体的な教室作業計画を示したものをメソッドとメソッドと呼んでいる」としている。家根橋伸子(2012)は、本来は、「方法」という概念は、「理念・理論のレベルであるapproachと、実践のレベルであるmethod,techniqueの大きな二つのレベルに分かれていた」としている。

2

白井恭弘(2007)では、サジェストペディアやサイレント・ウェイなどの人間の情意面を重視したものを人間重視の教授法(Humanistic Approach)としている。

 

 

(参考文献)

J・V・ネウストプニー(1982)『外国人とのコミュニケーション』岩波書店

J・V・ネウストプニー(1991)「新しい日本語教育のために」『世界の言語教育』1

J・V・ネウストプニー(1995)『新しい日本語教育のために』大修館書店

家根橋伸子(2012)「第二言語(日本語)教育における『方法』概念の変遷と現在-post method時代の『方法』の位置づけを考える-」『東亜大学紀要』第15号

伴紀子(1997)「日本語教育を支える教授法(理論)とその動向」『日本語教育』94号

岡崎眸・岡崎敏雄(2001)『日本語教育における学習の分析とデザイン-言語習得過程の視点から見た日本語教育-』凡人社

近藤安月子・小森和子編(2012)『研究社日本語教育事典』研究社

ジャック・C・リチャーズ&シオドア・S・ロジャーズ(2007)『アプローチ&メソッド 世界の言語・教授法』東京書籍

白井恭弘(2007)「言語習得・発達」『ベーシック日本語』ひつじ書房

白井恭弘(2008)『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』岩波書店

「る・らる」の原義と多義性の処理

2015.7.18(土)於國學院大學

第18回 國學院大學日本語教育研究会

口頭発表資料

 

「る・らる(れる・られる)の原義と多義性の処理」

國學院大學兼任講師  岡田 誠

 

 

 

はじめに

 

□本発表は、いわゆる「受身・可能・自発・尊敬の助動詞」(注1)と呼ばれる「る・らる(れる・られる)」の原義について、日本語学を中心とした先行研究を整理した上で見解を述べ、文法教育として多義性のある「る・らる(れる・られる)」をどのように扱うのが妥当であるかについて、国語教育・日本語教育の視点から考察するものである。

 

1 「る・らる(れる・られる)」の原義について

 

1.1 「る・らる(れる・られる)」の原義についての先行研究

 

「る・らる(れる・られる)」の原義としては、主に二説ある。すなわち、「受身根源説」と「自発根源説」とがある(注2)。日本語学における「る・らる」の原義の先行研究としては主に、自発を根源とする説としては橋本進吉(1931)・金田一京助(1941)、時枝誠記(1941)・大野晋(1967)、受身を根源とする説は山田孝雄(1936)・松尾捨治郎(1936)・森重敏(1965)などが代表的なものとしてあげられる。

この二つの中、優勢であるのが「自発根源説」である。代表的なものとしては、大野晋(1967)の論がある。つまり、稲作農耕民は自然の成り行きを推移するのが自然で、自発から受身が出たとする古代日本人の生活習慣に注目したものである。

また、音韻の立場からは、「ゆ・らゆ」から「る・らる」の音韻交替説(yu・rayuからru・raru)で考えた結果、「ゆ・らゆ」は「自発」で用いられることが圧倒的に多いことから、「る・らる」もこの流れの延長線上にあると考え、「る・らる」の原義を自発ととらえる考える説をとることも多い。しかし、金田一春彦・奥村光雄(1976)や窪薗晴夫(1997)が述べるように、「r」からは半母音の「j」「w」に変化するのが自然である。そうすると、「ゆ・らゆ」の「y」、すなわち「j」の音が「る・らる」の「r」の音に変化するのは逆の現象であり、不自然で無理があるようにも思える。その立場で考えると、「ゆ・らゆ」から「る・らる」への変化は不自然な変化となる。そのため、「ゆ・らゆ」と「る・らる」とは別源と考えることができる。「ゆ・らゆ」と「る・らる」は、音の響きが似ているが、そのことによって、音韻交替説に縛られる必要はないと言える。したがって一般に有力とされている「る・らる」の根源的な意味が「自発」である必然性はないのではなかろうか。

 

1.2 受身と自発-その原義の扱い-

 

山田孝雄(1908)では、「る・らる」の原義には触れていないが、山田孝雄(1936)では、「る・らる」の原義を受身とし、受身、自発、可能、尊敬の順番で派生したことを述べ、自発については以下のように述べている。

 

それより一轉して自然にその事現るゝ勢にあることを示す。今これを自然勢といふべしその例

坊主山の早蕨かと怪しまる。

眺めらるゝは故郷の空なり。

この自然勢が受身の一變態なりといふことは、その勢の起る本源は大自然の勢力にありて人力を以て如何ともすべからぬことを示すものにして、人はそれに對して従順なるより外の方途なきなり。これ即ち大なる受身といふべきなり。  (pp.317-318)

 

この記述から、自発を人間の力ではどうすることもできないで、従順にならざるをえない大なる受身と考えていることがわかる。

また、自発については、山田孝雄(1908)の段階では、以下のように受身と可能とが混然一体となったものと見ていることがわかる。

 

受身と勢力との混合よりなれるが如き一種の間接作用あり。之を自然勢といふ。何が故に受身と勢力よりなるものかといへば、自然勢にありては文主は自然的に受身の地位に立ちて自家の意志にて左右しうべきさまならず、しかも其は自然に發したる勢力にして他に發動者ありて起したるにあらず。この故に、受身なる點と勢力なる點とを具有せりと見るべく、自己の勢力にて自己が受身となれるものなればなり。  (p.370)

 

山田孝雄(1936)では、最終的には以下のように述べ、受身の原義で統一し、客観性の特質を重視していることが分かる。

 

以上の四つの場合、これを還元すれば、受身の一に歸し、その作用の直接に行はるゝことを示すもの一もなし。而してその作用のあらはれ方いづれも傍観的なり。  (p.319)

 

この山田孝雄(1908・1936)の論をいっそう論理的に格関係の視点で発展させたものとして、森重敏(1956・1965・1971)の論があげられる。森重敏(1956・1965・1971)では、「る・らる・す・さす・しむ」は、格助詞と相関することから、「格の助動詞」であるとし、川端善明(1958・1993・1997・2004)もこの立場を踏まえて論を展開している。森重敏(1965)では、受身を主者が自由で、自発は主者が話し手に限定されるとする立場を取るため、受身根源説と考えられ、以下のように詳しく述べている(pp.73-81)。

 

動詞は、述語となることを本来とするから、自然、まず、格に関する道具として、格の助動詞ともいうべきものを分出する。いわゆる「る」「らる」「す」「さす」「しむ」など、受身・使役・自発・可能・敬語の助動詞がそれである。これらは述語に対する主語などの分出する格助詞-これもまた名詞の道具のようなものである-と相関する。たとえば、

花が風に散らされる。

のように、「れる」である以上は「が」であり「に」であり「が」「に」である限り「れる」となるのであって、他の格助詞で代えることはできないし、また、「が」と「に」とを入れ替えることも勿論できない。この緊密な論理的相関のありかたが、実は上来論理的格助詞といってきたものの一番の基礎なのである。  (p.73)

 

このように説明した上で、受身の場合は、形式上は、「花-れる」だが、「風に散らされる」の部分が「風が散らす」という力が、主者「花」に向かって働き、働かれる主者「花」が「散らす」という働きを受けることを述語とすることとなり、「散らす」力が無力な主者において実現するために「散らす」と「れる」とは一本になると解釈している。

また、自発については、

故郷が思われる。

の例をあげて、

主者の「思う」ということが、対者「故郷」からの発動で自然に実現する-そこに対者から主者への関係方向がある。  (p.74)

としている。

そして、「花が風に散らされる」のように受身の場合には、主者は話し手、第二者、第三者と自由であるが、自発の場合は、「故郷が思われる」のように、主者は話し手に限られてしまい、「故郷が-れる」その結果、「私が思う」としている。

可能の例として、

字が読まれる(める)

をあげて、「自発」とは逆に、「読む」能力が対者「字」へと積極的に力を発揮するとしている。その上で、主者は話し手に限定されず、述語は他動詞で、対者は本来それの意志の目的物-客語であるのが原則としている。

また、尊敬の例として、

先生が見られる

をあげ、尊敬では「見る」が対者「先生」の動作になっており、主者は話し手で言葉ではあらわれない点で自発と通じ、敬語特有の情意が加わるとした上で、以下のように述べている。

 

自発・可能では主者の動作の力が対者との間に働いたが、尊敬語では、話手と一応関係のない、対者そのものだけの動作「見る」になるためにほかならない。したがって、関係方面もほとんど対者を上とし、話手を下とする上下関係だけとなる。  (p.81)

 

ここで問題となるのは、森重敏(1965)のいう、「主者」である。「主者」とは、「動作主体」のことをいうのか、それとも「発話主体」のことをいうのかであるが、森重敏(1971)では以下のように述べている。

 

自発・可能」は対者に対する主者―本来話手、話手でないときは話手に準じて考えうる―の、受身・使役は対者に対する主者―本来話手でない他者、話手の時は他者に準じて考えうる―の、いづれも力的関係であるが、受身・使役の場合その力的関係が現勢的であるのに対して、自発・可能の場合はそれが潜勢的であるという相違がある。・・〈中略〉・・敬称は自発・可能の範疇に、謙称は受身・使役の範疇に、その主者・対者のありかたにまさしく共通し、それぞれあたかもよし対応するのである。  (p.243)

 

つまり、主者は「動作主体」だとすると、それは客観を代表することであり、「発話主体」だとすると、それは主観を代表するということになる。そうすると、「主者が動作主体なら受身、発話主体なら自発」ということになる。それはまた、受身から自発が出たのか、自発から受身が出たのかという問題ともつながる。さらには、動作主体が発話主体に連続するのか、発話主体が動作主体に連続するのかという問題にもつながる。つまり、その原因は、「主者」というのは、動作主体と発話主体との間を動いているものであるからであろう。そのように、主者が動作主体と発話主体との間を揺れ動くとすると、自発も受身も分けることが困難であると言える。

 

1.3 出来文と中相説

 

尾上圭介(1998a・1998b・1999・2003)は、「る・らる(れる・られる)」が用いられた文を「出来(しゅったい)文(ぶん)」と名付け、「事態全体の生起」という、ラレル形式による事態の状況把握でとらえ、多義性の説明を可能にした。その論を踏襲する形で、川村大(2004)も論を展開している。この考え方は、現在、有力な論の一つになっているが、その考えは言語における動作主体や発話主体というものを取り除いたもので、単に物理的な場としての扱いということになる。さらには、柴谷方良(2000)の指摘にもあるように、多義性の説明としては整理できたが、通時的な考察が欠如することとなる。

他に、細江逸記(1928)のように、古代ギリシア語に存在した「中相」というものが文献以前の日本にも存在し、その「中相」は自動詞・受身・可能・自発とが混然一体となったものであり、そこから分化したとする説がある。柴谷方良(2000)は、諸外国の言語を参照し、この論を一歩進め、中相のさらに前段階で能動・自発という態対立があり、その自発文が受身文を派生させたとしている。

 

1.4 本発表者の立場

 

本発表では、細江逸記(1928)の中相説、時枝誠記(1941)の言語の発話者と聞き手の場、その論を踏まえて展開した近藤泰弘(2000)の言語の発話主体の主観的表現の使い分けの視点を考慮し、本来は受身と自発とが混然一体となったものが原義であり、それは動作主体と発話主体との揺れに起因するものと考える。そして、発話者の主観表現が客観化し動作主体となるときには受身となり、発話者の主観表現が強くなり発話主体となるときには自発になると考えておくこととする。

 

2 「る・らる(れる・られる)」の多義性の処理

 

2.1 国語教育での多義性の処理

 

「る・らる(れる・られる)」の多義性について、自発根源・受身根源・中相・出来文などの考え方があるが、文法教育を考えたときに(注3)、日本語教育では受動態を基軸にして説明しようとすることが多く、松下大三郎(1930)はすべてを受動態で整理した。それに対して学校文法では、四つの意味分類を行うことが一般的であるが、その基礎になった橋本進吉(1935)では、まず受身を中心に説明し、その上で可能・自発を説明するようにし、受身を中心に据えるという優先順位を示している。橋本進吉(1936)では、受身は動作主が前提であるが、可能は動作主を想定しないので、「受身」と「可能」を軸に解説し、可能の中に自発を含めて、自発を可能の一用法として処理している。また、田辺正男・和田利政(1964)では「元来、一語で表わしていた内容なのだから、相互に関連があり連続しているわけで、それをある明瞭な場合を基準としてかりに区別してみるまでである」と述べている。しかし、実際には主な四つの意味の多義性が同等であるかのように学校文法では扱われていることに対して、森山卓郎(2002)や町田健(2002)は疑問を呈している。森山卓郎(2002)は、日本語教育のように受動文と自動詞を扱い、現代の詩を教材とし、文学作品を文法的に味わうことを目指している。町田健(2002)は、自発根源説で原義をとらえているが、用法として「る・らる(れる・られる)」を見た場合、自発・可能・尊敬などは実際には使われることが少なく、日本語として受身は特徴的であり、頻繁に使われることに注目し、受身を重視して学校文法を批判している(注4)。

国語教育では、「る・らる(れる・られる)」の多義性に関しては、漢文訓読、話し言葉で受身の用法が多く使われることなどの使用頻度も考慮し、受身の機能を優先して教え、その上で他の機能を示すように指導したほうがよいと言える。

 

2.2 国語教育での提出順序

 

国語教育の分野でも、受身から掲載するか、自発から掲載するかで、提出順序が異なることがわかる。つまり、国語教育にも、受身根源説と自発根源説とで、捉え方に差があることがわかる。以下、口語の「れる・られる」は中学校の教科書を中心に調査し、文語の「る・らる」は高等学校で副読本として採用されている文法テキストや別記(教授資料)同様に現場に影響を与えていると考えられるものを中心に調査してみた。文語について扱っているものは太字で示し、文語・口語ともに示したものには□で示した。

 

【自発から始まるもの】

自発→可能→受身→尊敬

中村幸弘(1993

古文文法研究会(1986)、遠藤和夫(1990

岡崎正継・大久保一男(1991

【受身から始まるもの】

1受身→自発→可能→尊敬

馬淵和夫(1963)・田辺正男(1986

築島裕・白藤禮幸(1999

2受身→自発→尊敬→可能

三省堂(中学2年、3年)

3受身→可能→尊敬→自発

光村図書(中学1年、2年、3年)

4受身→可能→自発→尊敬

湯澤幸吉郎(1959

小西甚一(1955)、田辺正男・和田利政(1964)

永山勇(1970)、樺島忠夫(1971

湯澤幸吉郎(1953)

永野賢(1958)、鈴木康之(1977)、渡辺正数(1993)

中村幸弘・中野博之・会田貞夫(2004)

教育出版(中学2年、3年)、東京書籍(中学2年、3年)

学校図書(中学2年、3年)

5受身→尊敬→可能→自発

塚本哲三(1924

教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)

6受身→尊敬→自発→可能

山口明穂(1993

7受身

鈴木康之(1977)・・自発・可能・尊敬は受動態の一部

教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)・・受身以外は補足の扱い

 

自発から始まるものは、文語を扱ったもので、順番に揺れがないことがわかる。これは自発根源説に基づいた自然の発生を中心としたものであり、活用形の完備・不完備で分けたといえる。

受身から始めるものは、順番が一定しないが、一番多いのは、「受身・可能・自発・尊敬」の順であることがわかる。これは橋本進吉(1935・1936)の別記で示した流れと同じである。また、辛島美絵(1993)の示したように尊敬用法の発達が最後と考えられるので、尊敬は最後に置く提出順序は通時的扱いといえる。

「受身・尊敬」と「自発・可能」という提出順序があるが、この提出順序は、命令形の活用があるものを優先させた結果として、「受身・尊敬」の命令形完備と「自発・可能」の命令形不完備の分類と考えられる。

光村図書の教科書は自発を最後に置いており、使用頻度に配慮したものであると推測できる。受身の次に自発を置いている中で、三省堂の教科書は最後に可能を置いている点で、提出順序が異質である。

国語教科書の中で、口語と文語の活用表を中学3年の附録で掲載しているのは、三省堂学校図書である。これは、中学3年で古典の文章を取り上げていることに配慮しているためと考えられる。

文語と口語の両方を編纂したものとして中村幸弘と湯澤幸吉郎をあげることができる。中村幸弘は、文語は自発を最初とし、口語は受身を最初としている。これは、現代語の使用頻度を考慮したものと考えられ、国語教育に携わった経験を生かしたものと考えることができそうである。湯澤幸吉郎は文語・口語ともに受身を最初にあげている。湯澤幸吉郎は日本語教育の経験があるため、受身をから始める方針を国語教育に生かしたものと推測することもできそうである。このあたりは、国語教育と日本語教育との経歴の差が表われている印象を受ける。

受動態の一部として可能・自発を扱っている鈴木康之、受身以外の用法は補足でしか扱わない教科研グループのものは特徴的であり、松下大三郎(1928・1930)や日本語教育での扱いとほぼ同じである。

 

2.3 日本語教育での提出順序

 

日本語教育では、中国人留学生を対象とした日本語教育の経験を持つ松下大三郎(1928・1930)、教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)やその流れの鈴木康之(1977)が、受身を根源に据えて包括的に「受動態」として説明したように、受身から提出することが一般的である。本稿では、系統の異なる以下の6冊のテキストを調査対象として、「れる・られる」の意味の提出順序を調査したところ、以下のようになった(注5)。

 

【「れる・られる」の意味の提出順序】

1.NAGANUMA(1944)『FIRST LESSONS IN NIPPONGO』財団法人言語文化研究所

可能→受身

2.国際交流基金日本語国際センター(1981)『日本語初歩』凡人社

可能→受身→尊敬

3.筑波ランゲージグループ(1992)『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE VOLUME THREE:NOTES』凡人社

可能→受身

4.スリーエーネットワーク編(1998)『みんなの日本語・初級Ⅱ本冊』スリーエーネットワーク

可能→受身→尊敬

5.東京外国語大学留学生日本語教育センター編(2010)『初級日本語・下』(凡人社)

可能→受身

6.坂野永理・池田庸子・大野裕・品川恭子・渡嘉敷恭子(2011)『初級日本語[げんき]Ⅱ』The Japan Times

可能→受身

 

日本語教育では、「れる・られる」に関しては、「可能・受身」か「可能・受身・尊敬」の順番でなされていることがわかる。国語教育とは異なり、「自発」は扱わず、「可能・受身」で始まることで統一されている。このことは、実際の用例として、典型的であるのは可能・受身の用法と考えてのことであると推測できる。国語教育においては、受身を軸に扱っていないとする町田健(2002)の批判もあるが、日本語教育では受身を軸に解説が行われていることがわかる。また、中級・上級などで扱う、「と言われている」「と考えられている」などの「自然的可能」と言われている受身・可能・自発の混在している用法については、北澤尚(1987)が示したように、「『自発』とは、一人称単数の補語を隠し持った知覚・思考・発話活動を表す動詞の受身のことであり、それと他の受身とを特に区別して扱うための文法術語にすぎないと考えられる」という考え方を用いれば、自発という項目を立項しなくても、受身で説明ができそうである。築島裕(1963)、大坪併治(1981)の指摘にもあるように、古くは漢文訓読においては、専ら「る・らる」は受身の意味で用いたこと、もともと「れる・られる」を尊敬で用いるのは文章語形式か京阪的な表現で、下町言葉・江戸なまりでも「お―になる」などの他の表現が用いられたとする中村通夫(1948)の指摘や、柳田征司(2011)の指摘にある、自発の例の少なさや可能・尊敬の用法の衰退という通時的経緯も考え合わせる必要がある。

 

結び

 

本発表では、「る・らる(れる・られる)」の原義は、自発根源説と受身根源説があるが、自発と受身は混然一体としたものであると考え、その区分けの基準を、発話主体と動作主体に応じたものであるとした。発話者の主観表現が客観化し動作主体となるときには受身となり、発話者の主観表現が強くなり発話主体となるときには自発になるとした。

また、「る・らる(れる・られる)」の多義性の処理については、築島裕(1963)、大坪併治(1981)の指摘にもあるように、古くは漢文訓読においては、専ら「る・らる」は受身の意味で用いたこと、柳田征司(2011)の指摘にある、自発の例の少なさや可能・尊敬の用法の衰退という通時的経緯も考え合わせる必要がある。そして国語教育及び日本語教育の提出順序を参考に考えると、松下大三郎(1928)、教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)やその流れの鈴木康之(1977)が示したように「受動態」として広く受身で捉え、自発・可能・尊敬を含ませるのがよいと考える。自発については、橋本進吉(1935・1936)のように可能に含ませるか、北澤尚(1987)のように広く受身に含ませれば、あえて自発を立項する必要はないことを述べた。

 

1

「る・らる(れる・られる)」については、山田孝雄は複語尾の中でも「属性のあらはし方に関するもの」とし、橋本進吉は接尾語に近いと述べ、時枝記述は接尾語とするなどの、助動詞説と接尾語説があるが、古田東朔(1969-1971)では、「る・らる」を近世の国学者は、本居春庭『詞の通路』を受け継ぎ「動辞(動詞の一部)」としたことを述べている。ただし、富樫広蔭の『詞の玉橋』は「属(たぐひ)詞(ことば)」として他の動辞と区別し、鈴木重胤も『詞のちかみち』で同様の立場をとっているが、国学者の権田直助は『語学自在』で「辞」としていることを指摘している。それに対して、近藤真琴、田中義簾、中根淑などの洋風文典(蘭文典・英文典)には助動詞として扱う傾向が強く、大槻文彦は外国語文法の受身態との関係から、「る・らる」を切り離して「助動詞」とし、動辞や静辞と呼ばれるものも広く助動詞として、その範囲を広げたことについて述べ、扱いとしては権田直助『語学自在』に似ているが、全体としては鈴木重胤『詞のちかみち』に近いと推測している。また、大槻文彦と黒川真頼との交流と影響についても触れている。下二段から下一段へ、すなわち「る・らる」、「るる・らるる」、「れる・られる」への過渡期的な語形変化については、湯澤幸吉郎(1929・1936)が中世から近世にかけての資料を示しながら示している。

2

「受身根源説」と「自発根源説」に応じて、意味展開についても諸説あるが、一般的に優勢なものをまとめると、主に以下の二種類に大別できる。

a受身→自発(自然勢)→可能(能力)→尊敬(敬語)

b自発(自然的実現・勢相)→受身(所相)・可能・尊敬(敬相)

aの代表として山田孝雄(1936)、bの代表として辻村敏樹(1958)などがあげられる。原義を自発ととらえると、自発から受身・可能・尊敬が出たと説明することとなり、その順序は定まらず、同時派生的ととらえことになる。

森重敏(1965)は、一般に自動詞・他動詞と呼ばれるものを、以下のように述べ、自動詞の意味から自発というものが分出しうることを指摘している。この点で、非情の受身と通じる面がある。

一体、動詞には、受身・使役の場合のように、意志をもち、時間の経過のなかでその意志を遂行するその遂行の過程に重点をおいた意味のものと、そのほかに、意志はあるにしてもその遂行よりは遂行した結果の状態や、意志などなくて或る一つの作用が現象している状態やをあらわす意味のものがある。たとえば、「消す」は、時間をかけて火を消すことを目的とする動作であるが、「消える」は、たとい時間はかかってもそこに重点はなく、ただ消えてしまったいわば瞬間的な状態である。前者を他動詞といい、後者を自動詞といってよい。自発の場合、「思う」もこの自動詞的なものとして使われている。そして、一般に動詞にこのような意味があるからこそ、自発の「れる」も分出しうるわけである  (p.74)

また、発話主体は聴き手に理解させるためにあると考えられ、る。受身は発話主体は限定されないため、仮に、限定されないものから、限定されるものへという一般的な流れに従えば、受身から自発という流れを想定することができそうである。

森田良行(2002)は、日本語教育の視点に多くの日本語学の知見を取り入れながら述べており、意味展開と原義についての諸家の説として、受身根源説の山田孝雄(1936)、自発根源説の金田一京助(1941・1949)・時枝誠記(1941)・大野晋(1967)・世良正利(1970)・荒木博之(1980・1983)と幅広く紹介し、整理している。また、湯澤幸吉郎(1929・1936・1954)は中世から近世にかけての「る・らる」から「れる・られる」への二段化の一段化への現象を多くの資料から用例を採取して述べている。意味の提出順序は、受身・可能・自発・尊敬となっている。

なお、柳田征司(1989)は「ゆ・らゆ」と「る・らる」とは別源であるとしながらも、無意志動詞を意志動詞化する四段活用の「ス」と対応して成立したとすると、意志動詞を無意志化する助動詞として「ユ」「ル」は自発を原義として、そこから可能・受身が出たとしている。また、柳田征司(2011)では、通時的な展開として、以下のように述べ、尊敬が衰退に向かっていることの指摘に注目している。

平安時代になると、よく知られているように尊敬の意味用法が生まれた。室町時代の虎明狂言では、「ル」「ラル」は尊敬の意味で用いることが最も多く、受身の例がこれに次ぐ。可能の意味の例は少なく、自発の意味になると、「思い出される」「知られる」「くすまれる」くらいで、極めて稀である。いわゆるラ抜き言葉によって可能の意味用法が分離して行きつつあることはよく知られている。それとともに重要なのは受身と尊敬との相克において後者が衰退に向かっているとの指摘があることであろう。(p.191)

3

大学入試センター試験においても、古文だけではなく、現代文においても1991年の追試験で加藤周一『文学とは何か』が出題され、「その手に感じられる重み」の「られる」の説明を分類して選択させる、多義性の処理についての問題が出題されたことがある。この問題に関しては、動作主のニ格に注目して受身、心情・知覚に下接するものを自発とすることで処理ができる一般的なものであり、小西甚一(1955)、近藤泰弘(1983)、中村幸弘(2001)などにまとめられている文語文法の処理法で解けるタイプの問題であった。

4

町田健(2002)の以下の批判もあるが、多くのテキストが提出順序を受身から始めてあることを考えると、この批判は妥当ではないのではなかろうか。

日本語でこの助動詞がもっている一番大事な働きが「受け身」だということになります。そして日本語の受け身は、ほかのいろんな言語と比べても、幅広い条件で使われることができるという特徴をもっています。日本語より受け身を使う条件が限られている英語の文法でさえ、「受動態」は重要な項目として取り扱われているのに、私たちの国文法では、一つの助動詞の、さらにいくつかの働きの一つとしてさらっと説明されているだけです。本当に勉強する価値のある文法として国文法を変革するとしたら、まず「受け身」のことを真剣に考えてほしいものです。   (p.154)

5

『FIRST LESSONS IN NIPPONGO』は長沼直兄によって英語で書かれた日本語入門書であり、口頭の習得を目指したロングセラーである。『日本語初歩』は国際学友会系の基本的な表現文型のテキストである。『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE VOLUME THREE:NOTES』は基本的な場面中心のコミュニケーション志向のテキストである。『みんなの日本語』は海外技術者研修協会系の実用会話重視の採択率の高いテキストとして知られている。『初級日本語・下』は場面と基本文型を徹底させたテキストである。『初級日本語[げんき]Ⅱ』は、現場でのコミュニカティブ実践を目指す、採択率の高いテキストである。

 

調査資料

【国語教科書】

加藤周一ほか(2012)『伝え合う言葉 中学国語1・2・3』教育出版

樺島忠夫宮地裕渡辺実監修(2012)『国語1・2・3』光村図書

中洌正堯(2012)『中学生の国語1年・2年・3年』三省堂

三角洋一・相澤秀夫代表(2012)『新しい国語1・2・3』東京書籍

野地潤家・安岡章太郎新井満(2012)『中学校国語1・2・3』学校図書

【日本語教科書】

NAGANUMA(1944)『FIRST LESSONS IN NIPPONGO』財団法人言語文化研究所

国際交流基金日本語国際センター(1981)『日本語初歩』凡人社

筑波ランゲージグループ(1992)『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE VOLUME THREE:NOTES』

凡人社

スリーエーネットワーク編(1998)『みんなの日本語・初級Ⅱ本冊』スリーエーネットワーク

東京外国語大学留学生日本語教育センター編(2010)『初級日本語・下』(凡人社)

坂野永理・池田庸子・大野裕・品川恭子・渡嘉敷恭子(2011)『初級日本語[げんき]Ⅱ』

The Japan Times

 

参考文献

会田貞夫・中野博之・中村幸弘(2004)『学校で教えてきている現代日本語の文法』右文書院

荒木博之(1980)『日本語から日本人を考える』朝日新聞社

荒木博之(1983)『やまとことばの人類学』朝日新聞社

遠藤和夫(1990)『演習古典文法』高橋情報システム株式会社

大坪併治(1981)『平安時代における訓点語の研究』風間書房

大野晋(1955)「万葉時代の音韻」『万葉集大成6』平凡社

大野晋(1967)「日本人の思考と日本語」『文学』12号

大野晋(1968)「助動詞の役割」『解釈と鑑賞』

岡崎正継・大久保一男(1991)『古典文法別記』秀英出版

尾上圭介(1998a)「文法を考える-出来文(1)」『日本語学』17巻6号

尾上圭介(1998b)「文法を考える-出来文(2)」『日本語学』17巻9号

尾上圭介(1999)「文法を考える-出来文(3)」『日本語学』18巻1号

尾上圭介(2003)「ラレル文の多義性と主語」『月刊言語』32巻4号

樺島忠夫(1971)『日本文法』三省堂

辛島美絵(1993)「「る」「らる」の尊敬用法の発生と展開―古文書の用例から」『国語学

172集

川端善明(1958)「動詞の活用-むしろVoice論の前提に-」『国語国文』第28巻12号

川端善明(1993)「日本語の品詞」『集英社国語辞典』集英社

川端善明(1997)『活用の研究Ⅱ』清文堂

川端善明(2004)「文法と意味」『朝倉日本語講座・6・文法Ⅱ』朝倉書店

川村大(2004)「受身・自発・可能・尊敬-動詞ラレル形の世界-」『朝倉日本語講座・6・文法Ⅱ』朝倉書店

北澤尚(1987)「無生名詞を主語とする受身文-日本史教科書を資料として-」『東横国文学』第19号

教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)『文法教育 その内容と方法』麦書房

金田一京助1941)『新国文法』武蔵野書院

金田一京助(1949)『国語学入門』吉川弘文館

金田一春彦・奥村光雄(1976)「国語史と方言」『国語学』3号

窪薗晴夫(1997)「音声学・音韻論」『日英対照による英語学概論』くろしお出版

小路一光(1980)『萬葉集助動詞の研究』明治書院

国語学会編(1985)『国語学大辞典』東京堂

小西甚一(1955)『古文研究法』洛陽社

古文文法研究会(1986)『古典文法』桐原書店

近藤泰弘(1983)「自発」「可能」『研究資料日本古典文学・12巻』明治書院

近藤泰弘(2000)『日本語記述文法の理論』ひつじ書房

佐伯梅友・鈴木康之監修(1986)『文学のための日本語文法』三省堂

柴谷方良(1978)『日本語の分析』大修館書店

Shibatani Masayoshi1985)「Passives,and Related Constructions:a prototype analysis」『Language61-4

柴谷方良(2000)「ヴォイス」『文の骨格』岩波書店

渋谷勝己(1993)「日本語可能表現の諸相と発展」『大阪大学文学部紀要』第33巻第1分冊

鈴木康之(1977)『日本語文法の基礎』三省堂

世良正利(1970)「日本語と日本人の発想法」『言語生活』

田辺正男・和田利政(1964)『学研国文法』学習研究社

田辺正男(1986)『新訂 古典文法』大修館書店

塚本哲三(1924)『国文解釈法 全』有朋堂

辻村敏樹(1958)「いわゆる受身・尊敬・可能・自発の助動詞」『国文学』12号増刊号

築島裕(1963)『平安時代の漢文訓読語に就きての研究』東京大学出版

築島裕・白藤禮幸(1999)『古典文法 改訂版 指導資料』明治書院

時枝誠記(1941)『国語学原論』岩波書店

永野賢(1958)『学校文法概説』共文社

中村通夫(1948)『東京語の性格』川田書房

中村幸弘(1993)『先生のための古典文法Q&A100』右文書院

中村幸弘(2001)『正しく読める古典文法』駿台文庫

中村幸弘・中野博之・会田貞夫(2004)『学校で教えてきている現代日本語の文法』右文書院

永山勇(1970)『国文法の基礎』洛陽社

西田直敏(1969)「る・らる(付ゆ・らゆ)-可能・自発(古典語)」『助詞助動詞詳説』学燈  

  社

仁科明(2011)「『受身』と『自発』-万葉集の『(ら)ゆ』『(ら)る』について」『日本語文法の歴史と変化』くろしお出版

橋本進吉(1929の講義)「日本文法論」[テキストは、橋本進吉(1959)『国文法体系論』岩波書店]

橋本進吉(1931の講義)「助詞・助動詞の研究」[テキストは、橋本進吉(1969)『助詞・助動詞の研究』岩波書店]

橋本進吉1935)『新文典別記上級用』冨山房

橋本進吉1936)『改訂新文典別記初級用』冨山房

濱田敦(1930)「助動詞」『万葉集大成6』平凡社

濱田敦(1957)「中世の文法」『日本文法講座3 文法史』明治書院

古田東朔(1969-1971)「大槻文彦伝(1-16)」『月刊文法』(テキストは『古田東朔 近現代 日本語生成史コレクション 東朔夜話―伝記と随筆』くろしお出版・2014)

細江逸記(1928)「我が国語の相(Voice)を論じ、動詞の活用形式を分岐するに至りし原理の一端に及ぶ」『岡倉先生記念論文集』研究社

町田健(2002)『まちがいだらけの日本語文法』講談社

松尾捨治郎(1943)『助動詞の研究』文学社

松下大三郎(1928)『改選標準日本文法』紀元社

松下大三郎(1930)『標準日本口語法』中文館書店

松村明編(1969)『助詞助動詞詳説』学燈社

馬淵和夫(1963)『古文の文法別記』武蔵野書院

森田良行(2002)『日本語文法の発想』ひつじ書房

森重敏(1959)『日本文法通論』風間書房

森重敏(1965)『日本語文法-主語と述語-』武蔵野書院

森重敏(1971)『日本文法の諸問題』笠間書院

森山卓郎(2002)『表現を味わうための日本語文法』岩波書店

山口明穂(1993)『古典文法』明治書院

山口佳紀(1995)『古事記の表記と訓読』有精堂

山口佳紀(2005)『古事記の表現と解釈』風間書房

柳田征司(1989)「助動詞『ユ』『ラユ』と『ル』『ラル』との関係」『奥村三雄教授退官記念・国語学論叢』桜楓社

柳田征司(2011)『日本語の歴史2』武蔵野書院

山田敏弘(2004)『国語教師が知っておきたい日本語文法』くろしお出版

山田孝雄(1908)『日本文法論』宝文館

山田孝雄(1936)『日本文法学概論』宝文館

山田孝雄(1952)『平安朝文法史』宝文館

山田孝雄(1954)『平家物語の語法』宝文館

湯澤幸吉郎(1929)『室町時代言語の研究』[テキストは(1970)『室町時代言語の研究』風間書房]

湯澤幸吉郎(1936)『徳川時代言語の研究』[テキストは(1970)『徳川時代言語の研究』風間書房]

湯澤幸吉郎(1954)『江戸言葉の研究』[テキストは(1991)『江戸言葉の研究』明治書院]

湯澤幸吉郎(1951)『現代口語の実相』習文社[テキストは『著作集4』(勉誠社・1980)所収]

湯澤幸吉郎(1953)『口語法精鋭』[テキストは湯澤幸吉郎(1977)『口語法精鋭』明治書院]

湯澤幸吉郎(1959)『文語文法詳説』右文書院

和田利政(1969)「る・らる(付ゆ・らゆ)-受身(古典語)」『助詞助動詞詳説』学燈社

渡辺正数(1993)『教師のための口語文法』右文書院

 

(付記)

本稿作成にあたり、多数の先生方のご意見をいただきました。御礼申し上げます。

 

 

「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法の一考察

國學院大學日本語教育研究会(第20回)

2016.7.16(土)於國學院大學

発表資料

 

「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法の一考察

-日本語学から国語教育・日本語教育へ-

 

國學院大學兼任講師

大東文化大学非常勤講師

岡田 誠

 

 

「ら抜きことば」と「可能動詞」という現象は、日本語史の上でも室町時代以降の変化として日本語のシステム化として注目され、社会言語学の上でも方言や男女差などの観点から考察が加えられてきた興味深い現象である。本発表は、「ら抜きことば」と「可能動詞」について、日本語学・国語教育・日本語教育の先行研究を整理し、「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法について考察するものである。

 

 

1 「ら抜きことば」と「可能動詞」の先行研究

 

1.1 「ら抜けことば」から「ら抜きことば」へ

 

「ら抜きことば」といわれる「来れる」「見れる」「食べれる」などの語形の指摘は、早い例としては、静岡県出身の松下大三郎(1924)が静岡の方言として紹介し、山形県出身の三矢重松(1930)の山形方言での紹介があげられる。そして、中村通夫(1953)は『静岡方言辞典』に「ら抜きことば」の記載があることを指摘し、その影響を受けた昭和初期の東京の山の手の青年たちが使用し始めたという指摘がある。その後、国立国語研究所(1981)、井上史雄(1998)などの指摘によって、「ら抜きことば」は中部地方や中国地方で生まれ、各地で方言として行われてきたが、大正から昭和の初めごろに東京などに広まったと考えられている。

しかし、当初は適当な呼び名がなく、田中章夫(1983)では、「れる言葉」などと呼んでいたと述べている。それが1992年9月27日付総理府発表の「国語に関する世論調査」のことを報じた週刊誌や新聞が契機となって注目されるようになり、『角川必携国語辞典』(1995年・初版)の編集の際に大野晋が「ら」が抜けたものであると主張したことから「ら抜けことば」となり、『NHKことばのハンドブック』(1994年・2月・第4刷)にも「ら抜け(表現)」となったが、『NHKことばのハンドブック』(1999年・6月・第9刷)では「ら抜き(表現)」というようになったと、田中章夫(1983)では指摘している。

田中章夫(1983)によると、他に1988年8月5日付の読売新聞朝刊に「ラ抜け言葉にガックリ」、1992年10月29日付の朝日新聞の朝刊に「『ら抜け』ともいう」などの注記がみられるという。これらを考え合わせて、田中章夫(2014)では、1990年ごろは「ら抜け」と「ら抜き」が激しく競いあっていたが、大勢としては「ら抜け」から「ら抜き」へと流れたと述べている。塩田雄大(2013)は、「ら抜き」以前の用語としては、「れる言葉」のほかに「『ら』音を脱落させた」「『ら』の字欠語症」「『ら』が省かれる」「れる式会話」「『ら』を落とす」の例があることを報告している。また、1995年の国語審議会中間報告で「ら抜きことば」は認めないことが話題になった。

「ら抜きことば」は、「可能動詞」と密接に関わるものである。金水敏(2003)では、「ら抜きことば」の特徴を以下のようにまとめ、話者を「非ラ抜き人」「完全ラ抜き人」「不完全ラ抜き人」の三つに分けている。

 

A 形態的には、カ行変格活用、一段活用の動詞の未然形(打ち消しの「ない」が続く形)に、下一段活用の「れる」を付けた形である。

(例「来れる」「着れる」「食べれる」)

B 「―することができる」に似た、「可能」の意味を表す。

C 基本的に、意志的動作を表す動詞からのみ作られる。

 

「ら抜きことば」が広まった理由としては、「食べられる」「先生が見られる」や「見られる」「先生が見られる」などを「食べれる」「見れる」とすることで可能の意味を明確にし、受身・可能・尊敬の区別を容易にするためという指摘がなされることが多いが、これらをまとめて、井上史雄(1998)は、「意味の明晰化」と「動詞活用の単純化」としている。この論を受けた内山みずえ(2002)は、「見れる」は「可能」、「見られる」は「受身・尊敬」とする区別は合理的であるとしている。

なお、「れる・られる」の尊敬の用法については、中村通夫(1948)が文章語か京阪地区で用いられてきたもので、下町言葉・江戸なまりでも尊敬の場合には、「お―になる」などの他の表現を用いてきたことを述べている。これは、「れる」「られる」の多義性に起因する現象でもあるといえるであろう。

この「ら抜きことば」の変化に従属する形で「れ足すことば」も出現した。これらは、「れる」型によって可能を示す表現と考えられるため、井上史雄(1998)の言う「意味の明晰化」と「動詞活用の単純化」と言えるであろう。

 

1.2 「可能動詞」の成立過程

 

日本語史では、可能動詞は室町時代に成立したと考えられているが、その成立過程については諸説あり、坂梨隆三(1969)は、諸説を三つに分類整理し、抄物・キリシタン狂言資料をもとに考察を加え、三つの段階で成立したものとし、「可能動詞の成立が下二段活用に起源を持つ」としている。三つの段階とは以下の通りである。

 

(第一段階)「知るる」「切るる」に「読むる」「持つる」を加えた段階

(第二段階)第一段階の諸語が一段化していく段階

(第三段階)その対応語が下二段自動詞を持たなかった四段他動詞や、四段自動詞が下一段活用となって独立していく段階

 

坂梨隆三(2006)においても、渋谷勝己(1993)を受けて多少の加筆はしてあるものの、可能動詞の下二段活用起源説での説明を行っている。坂梨隆三(2006)と青木博史(2010)を参照すると、現在の研究では、主な可能動詞の諸説は以下の四つに分類することができる(注1)。

 

1動詞未然形+助動詞「れる」起源説・・山田孝雄(1936)・湯澤幸吉郎(1936)・福田嘉一郎(1996)

(例)「読ま+れる」→「読める」

2動詞未然形+助動詞「る」起源説・・中田祝夫編(1963)

(例)「読ま+る」→「読める」

3動詞連用形+補助動詞「得る(うる・える)」起源説・・渡辺実(1969)・渋谷勝己(1993)

(例)「読み+得る」→「読める」

4自動詞「知るる」「切るる」類推説・・坂梨隆三(1969)

(例)「知るる」「切るる」(一段)・・「読む」(四段)→「読むる」(一段)→「読める」

 

この諸説の中で、3の「得る(うる・える)」起源説については、その嚆矢として、チェンバレン(1889)の指摘をあげることができる。以下のように、チェンバレン(1889)は、可能としてeruを付けることによる自動詞を提示している。

 

TRANSITIVE.   INTRANSITIVE.

kaku,          kakeru,                “to write.”

kiru,            kireru,                 “to cut.”

toku,           tokeru,                 “to melt.”

toru,            toreru,                 “to take.”

uru,               ureru,                  “to sell.”

yomu,         yomeru,               “to read.”

(pp.200-201)

 

2 「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法の考察

 

2.1 国語教育での「ら抜きことば」と「可能動詞」

 

可能動詞については、本来、四段・五段動詞から作られるものであるが、近年、四段・五段動詞以外でも作ってしまうことが多い。例えば、「見る(上一段)」を「見れる(本来は「見られる」)」としたり、「捨てる」を「捨てれる」(本来は「捨てられる」)としたりする類である。

これらは、「ら抜きことば」や「れ足すことば」などと言われている現象である。また、文語文法の指導の際には、「書ける(書く+り)」「読める(読む+り)」のように、本来は、四段動詞に「り」がついたものを一語として扱ってしまう誤りが続出するということが起きている。

これらの文法指導では、文語文法の指導の際、四段動詞の已然形に、完了・存続の助動詞「り」の連体形が下接するときに、一語として扱ってしまい、可能動詞と間違いやすいことがあげられる。また、口語文法の指導の際、「ら抜きことば」や「れ足すことば」にしてしまうことも考えられる。以下、文語文法の「る・らる」と口語の「れる・られる」の接続及び可能動詞についての説明を、教師用指導書として用いられている渡辺正数(1993)及び会田貞夫・中野博之・中村幸弘(2004)を参照し整理すると、以下のようになる(注2)。

 

【「れる・られる」の接続】

「れる」は「ある」以外の五段動詞の未然形「ア段」と、サ変動詞の未然形「さ」につき、「られる」は右以外の動詞の未然形及び助動詞「せる」「させる」「たがる」の未然形につく。

 

【可能動詞】

可能動詞は、「できる」という意味が加わったもので、五段動詞に可能を表す助動詞「れる」がついて、「書かれる」が「書ける」のようになったものと推測される。ただし、「ある」などのように、五段活用がすべて可能動詞になるわけではない。

 

これらの記述は一般的な学校文法での記述であるが、国語教科書での「ら抜きことば」と「可能動詞」についての本文での用例調査を行った研究として、岩田祥子(2002)がある。しかし、教科書の年度も1998年度のものであり、小学校、中学校それぞれ一社のしか調査しておらず(小学校は光村図書、中学校は三省堂)での使用例の合計数を示したもので、教科書での扱い方を示したものとは異なる。そのため、主要教科書五社での扱い方を比較検討することとする。

 

「ら抜きことば」についての記述は、どの出版社も「れる・られる」の個所では触れずに、可能動詞の個所で触れている。このことは、「ら抜きことば」が可能表現であるという表現認識の現れであると考えることができる。

以下のように平成27年検定済の中学校国語教科書では、教科書会社の主要五社ともに中学校二年で扱っている(注3)。そのうち三社が可能動詞を本文で立項し、脚注や左注をつけている。以下に主要五社の中学校での国語教科書での扱いを示してみる。

 

学校図書・・本文で立項(p.278)。脚注あり。

可能動詞

「字が書ける」の「書ける」が「書くことができる」の意味であるように、「できる」の意味を含む動詞。五段活用の動詞が下一段になったもの。命令形はない。

話す→話せる 聞く→聞ける 読む→読める 言う→言える

教育出版・・本文で立項(p.260)。脚注あり。

可能動詞

五段活用の動詞を下一段に活用させてできた、「・・することができる」という意味を表す動詞を可能動詞と呼ぶことがあります。

読める(←読む) 聞ける(←聞く) 話せる(←話す) 飛べる(←飛ぶ)

行ける(←行く) 帰れる(←帰る) 泳げる(←泳ぐ) 買える(←買う)

三省堂・・本文で立項(p.226)。脚注なし。

可能動詞

五段活用の動詞から形を変えて、「-することができる」という意味を表すようになった動詞を可能動詞という。可能動詞は下一段活用だが、命令形がない。

(例)①太郎は 長い 距離を 泳げる。(←泳ぐ)

②自分の 意見を はっきり 言える。(←言う)

東京書籍・・本文で立項(p.260)。脚注あり。

可能動詞

五段活用がもとになった下一段活用動詞で、「・・できる」という意味を表す。

書く(五段)→書ける(下一段) 走る(五段)→走れる(下一段)

飛ぶ(五段)→飛べる(下一段) 言う(五段)→言える(下一段)

光村図書・・本文で立項しない。脚注で立項(p.246)。

【脚注】

可能動詞の活用

「・・できる」という意味を含んだ動詞を可能動詞という。可能動詞は、五段活用の動詞をもとにした、下一段活用の動詞である。ただし、命令形はない。

・飲む(五段)→飲める(下一段)

・走る(五段)→走れる(下一段)

 

全体的に俯瞰してみると、本文で「可能動詞」を立項していないのが光村図書であり、本文では立項するものの、脚注はつけていないのが三省堂であることがわかる。三省堂は脚注をつけずに、文節で区切った例文を示しているのが特徴である。これは、日本語の使用実態に即した教科研グループともつながりがあるため、使用されている話し言葉を中心としていることが推測できる。以下に脚注で示している出版社の特徴をまとめてみる。また、「ら抜きことば」に言及しているのが、教育出版と東京書籍であることが分かる。これは、「ら抜きことば」を容認していない1995年度の国語審議会中間報告の反映とみることもできる。

 

【脚注の特徴】

学校図書・・脚注に「泣く→泣ける」、「思う→思える」を示し、これらを「自発動詞」として取り上げている。

教育出版・・脚注で「可能動詞には命令形はない」と記している。また、「話さない」(「話す」)と「話せない」(可能動詞「話せる」)との違い、「見れる」「出れる」を「ら抜き言葉」として紹介し、「規範的ではないとされている」記述している。「切れる」には、他動詞「切る」から可能動詞になった「切れる」と、自動詞の「切れる」とがある。さらに、「切れる」「取れる」「割れる」「裂ける」などを、可能動詞と自動詞との二つがあるとして紹介している。

東京書籍・・脚注で「食べれる」「来れる」の例をあげて、「ら抜き言葉」として紹介し、「書き言葉では一般的ではない」としている。

 

A本文での記述・・学校図書・教育出版・三省堂・東京書籍

a脚注を付けたもの・・学校図書・教育出版・三省堂・東京書籍

Ⅰら抜きことばに触れたもの教育出版・東京書籍

α可能動詞と他の動詞について触れたもの・・教育出版

β可能動詞と他の動詞について触れないもの・・東京書籍

Ⅱら抜きことばに触れないもの・・学校図書

α可能動詞と他の動詞について触れたもの・・学校図書

β可能動詞と他の動詞について触れないもの

b脚注をつけないもの・・三省堂

B脚注での記述・・光村図書

 

このように「ら抜きことば」と「可能動詞」に関して、教科書の出版社を概観すると、規範性を重視しているのが東京書籍と教育出版であることがわかる。特に教育出版は細かく分類していることがわかる。三省堂と光村図書は、言語の使用実態を重視していることがわかり、規範意識は低いことがわかる。このように出版社ごとに違いがあるのは、出身や日本語教育の経験なども反映される可能性もある(注4)。このように、どの出版社の教科書を採択するかは、「ら抜きことば」と「可能動詞」について指導するスタンスの問題とも関わってくると考えられる。

 

2.2 日本語教育での「ら抜きことば」と「可能動詞」の規範性

 

日本語教育では言語の使用実態を重視する面が強いため、西尾寅弥(1973)、水谷信子(1988)、佐々木瑞枝(1994)、岩田祥子(2002)、辛昭静(2004)など、「ら抜きことば」については日本語教科書で教えはするが容認する立場が強い(注5)。実際、「ら抜きことば」は言語の実態を重視する立場からは、井上史雄(1989)、井上文子(1991)、真田信次・渋谷勝己他(1992)などの社会言語学、大久保愛(1967)のように幼児語の発達言語の面からも容認されるところである。

日本語教育においての「ら抜きことば」の扱いについては、丸山敬介(1995)の研究がある。丸山敬介(1995)は、55点(そのうち17点が触れている)の日本語教科書、学習雑誌・学習参考書6点、研究誌3点(『日本語教育』『月刊日本語』『講座日本語教育』創刊号から1995年度まで)、及び18点(そのうち8点が肯定的)の日本語教師用文法参考文献を示し、緻密に分析を行っている。その結果として、以下のように述べている。

 

日本語教育においては、研究者は肯定的なものの、教師用参考文献、教科書と学習者に近くなるにしたがって、否定的になっている。教科書の場合、今回の調査の55点の内、ら抜きことばを肯定するものはわずかに12.7%である。ら抜きことばの記載・言及がないものは実に69%を占める。今日の現実の日本語の実態と外国人に提供される日本語の情報との距離ということでいうならば、それは相当隔たっているといわざるを得ない。

 

このように、使用実態としては「ら抜きことば」は容認しているにも関わらず、規範としての日本語教科書で指導する問題点をあげている。平成20年度に文化庁が調査した「国語に関する世論調査」においても、容認が72.6%に達している現状を踏まえて国語教育と日本語教育は行われる必要があるのではなかろうか。なお、丸山敬介(1995)では、1990年代では日本語教科書の25%、教師用参考文献では55%は容認の記述であると報告している。管見に入る限り、2000年以降の日本語教科書及び教師用参考文献でも、この傾向は続いているようである。

また、岩田祥子(2002)は、「ら抜きことば」に触れているテキストとして、『An Introduction to Advanced Spoken Japanese』(創拓社)、『文化初級日本語Ⅱ教師用指導手引書』(凡人社)、『Spoken Japanese VolumeⅠ』(AKP同志社大学留学生センター編)をあげているが、先駆的なものとしてジョーデン(1990)をあげることができる。ジョーデン(1990)は以下のように、「ら抜きことば」の形も日本語教科書で示しているところに特徴がある。

 

These new potential verbals,corresponding more or less to English‘can do’sequences,are formed as follows:

Vowel-verbals./verbal root(=-ru form minus -ru)+-rare(or -re)+-ru/

Examples:

    tabe-(ra)re-ru ‘can eat’

    ake-(ra)re-ru ‘can open(something)’

    oki-(ra)re-ru ‘can get up’

(Lesson25A:p.7)

 

3 指導法に際しての便法-国語教育と日本語教育

 

それでは、どのように「ら抜きことば」の文法指導を行うのが実践的であろうか。学校文法で知られている永野賢(1958)は、以下のような原則を立てることを述べ、判断をくだすことを述べている。

 

「五段活用の動詞には、可能動詞の形がある。」「それ以外の動詞には、可能動詞の形はなく、未然形に『られる』(サ変は「れる」をつけて『される』となる)をつける。」というような原則を立てることができる。こういう原則によって、正俗の判断を下すことができるであろう。

 

しかし、これは便法以前に言葉の述語や論理がわからないと理解しにくいのではないだろうか。日本語教育では、山田敏弘(2004)や原沢伊都夫(2012)が便法のようなものを説いている。

山田敏弘(2004)や原沢伊都夫(2012)は、日本語教育の視点で、「書く(五段動詞・子音動詞)」が「書ける(可能の形)」、「食べる(一段動詞)」が「食べられる(語幹+可能の助動詞)」、「する(サ変動詞)」が「できる(特殊形)」の例をとりあげている。そして、「書く」「食べる」の例をとりあげて、ローマ字で「e」「re」を取り出して説明を加え、五段動詞(子音動詞)の「ar」が抜ける現象とし、「子音動詞の可能形には『ら』が入り、母音動詞の前には『ら』が入らない」としている。

 

五段動詞(子音動詞)「書かれる(kak-are-ru)」→「書ける(kak-e-ru)」

一段動詞(母音動詞)「食べられる(tabe-rare-ru)」→「食べれる(tabe-re-ru)」

 

この説明の特色としては、ローマ字書きすることで視点を変える見方を示している点があげられる。また、「ar」が抜ける現象であるため、「ら抜きことば」は、ことばは変化し、システム化する一環としてとらえている。しかし、この方法であっても、文法が苦手な場合には理解させることは容易ではないであろう。むしろ、原沢伊都夫(2010)の「子音語幹に『eる』を、その他の動詞には『られる』をつける」のほうが、日本語教育では理解しやすいであろう。

また、萩原一彦(2008)は、可能表現として「動詞の可能形」と「動詞(辞書形)+ことができる」の二つをあげ、「動詞の可能形」として、以下のように「ラ抜き」を認め、「見える」「聞こえる」「わかる」には、もともと可能の意味が含まれているので、可能表現にはしないと述べて便法としてまとめている。

 

1.五段動詞→命令形+る

2.一段動詞→ます形+られる(ます形+れる[話し言葉・ラ抜き])

3.する動詞→―できる

4.来る→来られる(来れる[話し言葉・ラ抜き])

 

この方法も日本語教育の方法であるが、全体的に整理されている印象を受ける。スリーエーネットワーク編(2002)『みんなの日本語初級ⅠⅡ』では、1はⅠグループ、2はⅡグループ、3と4はⅢグループに分類され、Ⅱグループ→Ⅲグループ→Ⅰグループの順で提出されている。そして、以下のように説明している。

 

Ⅰグループは、「ます」形の前の母音がaに変わり、「れる」がつく。

Ⅱグループは、「ます」形+「られる」がつく。

Ⅲグループは、「さ+れる」「こ+れる」と暗記する。

 

しかし、さらにわかりやすい便法として、本発表では、以下の方法を提示したい。この方法は、原則を立てることで理解のために有益であると考えられる。それは教師用指導書(別記)の類には見当たらない説明ではあるが、「ら抜きことば」の接続については、大矢透(1902)、山田孝雄(1908)、橋本進吉(1935)の未然形の音に注目する方法を採用している。すなわち、「ア音(未然形)+れる」「イ・エ・オ音(未然形)+られる」とする方法である。この方法を用いれば、以下の例も比較的容易に理解できる。

 

書く→書か(ア音)+れる→書かれる

食べる→食べ(エ音)+られる→食べられる

 

この方法を実際に日本人母語話者に用いてみると、助動詞の接続について理解が十分でなくても、理解は容易なようである(注6)。しかも、文語の「る」「らる」でも適用でき、Ⅱグループの「ます」形を軸とした説明に関しても整合性がとれる。

井上史雄(1998)は「ら抜きことば」を可能動詞と関連づけ、一連のものとして考察している。そして、「る」を省くと命令形として意味が通るか否かで「可能動詞」か「ら抜きことば」なのかを判定するという方法を提出している。具体例を示すと以下のようになる。

 

「書ける」→書け→命令形として意味が通る

→「書ける」は可能動詞

「食べれる」→食べれ→命令形として意味が通らない

→「食べれる」は「ら抜きことば」

 

この方法は、萩原一彦(2008)の「五段動詞→命令形+る」の形式や、原沢伊都夫(2010)の「子音語幹に『eる』を、その他の動詞には『られる』をつける」にも通じるものがあり、日本語教育でも、初級の後半の内容なので、「Ⅰグループの命令の形」という表現でも理解できると思う。そのため、国語教育でも日本語教育でも整合性が取れているのではなかろうか。文法が苦手でも理解しやすいと考えられる。このように便法を示したのちに、再び文法説明を行うことも一案であると思う。

 

 

結び

 

本発表では、第一に、「ら抜きことば」と「可能動詞」についての日本語学の先行研究を整理し、諸説があることを述べた。第二に、国語教育での規範性と日本語教育での規範性について考察した。国語教育では言語の規範性という点で「ら抜きことば」は教科書ごとに異なり、そこには、日本語教育の経験や出身地域の言語文化の影響もあることを指摘した。また、日本語教育での「ら抜きことば」に対しては、日本語教育研究者は柔軟ではあるものの、教科書としては規範性を保つ必要性があることが要求されている面を述べた。第三に、国語教育でも日本語教育でも活用できそうな便法についても考えてみた。特に、接続や活用以外に、「る」を取り除いて命令の意味として通るかどうかで判断する方法を便法として取り入れた上での文法指導を述べた。

 

 

(注)

1

青木博史(2010)は、1と2の説は「読まるる→読むる」や「読まれる→読める」などの語形変化を想定しなくてはいけない点、3はの説は「読みうる→読むる」や「読みえる→読める」という1と2よりは許容度が高い語形変化の想定だが、このような母音融合の例は少なく補助動詞「得る」は文語化していたという問題点を指摘している。また、4については1、2、3の説の折衷で無理のない説明であり評価しているが、自動詞と可能動詞との関係性についての諸説への配慮に欠けるのが弱点であるとし、以下の三段階を設定している。

第一段階 対応する自動詞を持たない四段他動詞から生成される段階

第二段階 その他の四段動詞から生成される段階

第三段階 四段動詞以外の一段動詞・カ変動詞から生成される段階   (p.38)

2

学校文法では、可能動詞の説明は、山田孝雄(1936)・湯澤幸吉郎(1936)・福田嘉一郎(1996)などの語形変化説(「読ま+れる→読める」など)の「動詞未然形+助動詞「れる」起源説」で行われている。小柳智一(2008)の指摘にあるように、未然形とは未実現を示すものであるのに、「る・らる・す・さす・しむ」という既実現を示すものが接続するという、未然形接続の中では異質なものであるのが、言語変化の主な原因のようにも感じられる。

 

3

光村図書は脚注で可能動詞を補足的に説明し、三省堂は中学三年の教科書でも軽く可能動詞を復習している。

4

教科書編纂者の中で、文法的な項目執筆に関わった可能性がある日本語学専攻の編纂者を見てみると、以下のような特徴が見られるのが興味深い点である。

学校図書

編纂者が関東中心で日本語学専攻

ら抜きは一般的でない地域の執筆者

教育出版

編纂者が関東中心で日本語学専攻

ら抜きは一般的でない地域の執筆者

三省堂

編纂者が教科研や日本語教育との関わりがある

東京書籍

編纂者の中に論理学者も加わっている

光村図書

編纂者が関西中心で日本語学専攻だが日本語教育も行っている

ら抜きは一般的である地域の執筆者。

5

佐々木瑞枝(1994)は、以下のように、国語教育と日本語教育との違いを述べている。

大学の留学生教育では、まだ「着られる・寝られる」の形を教えている。日本語の教科書もまだ「寝れる、食べれる」の例は見かけない。しかし、留学生は日常この表現を耳にするだろうから、「最近はこんな言い方も出ています」と「見れる」「食べれる」も教えるようにしている。

また、原沢伊都夫(2010)は、「ら抜き言葉」を会話では広く使用されることを記すだけではなく、「さ入れ言葉」も市民権を得ているものとして紹介し、浅川哲也(2017)は、「ら抜き言葉」「れれる言葉」「ら入れ言葉」「可能動詞」と四分類で考察している。

 

6

また、同様にこの方法で、「ア音(未然形)+せる」「イ・エ・オ音(未然形)+させる」とすれば、以下のように「さ入れことば」の判定にも役立つと考えられる。

書く→書か(ア音)+せる→書かせる

食べる→食べ(エ音)+させる→食べさせる

 

 

(参考文献)

 

会田貞夫・中野博之・中村幸弘(2004)『学校で教えてきている現代日本語の文法』右文書院

青木博史(2010)『語形成から見た日本語文法史』ひつじ書房

浅川哲也(2017)「ら抜き言葉と〈れれる言葉〉の拡大-日本語母語話者の〈誤用〉問題-」『文学・語学』第221号

浅野鶴子(1973)「文法の与え方」『日本語教育』20号

井上史雄(1989)『言葉づかいと新風景(敬語と方言)』秋山書店

井上史雄(1998)『日本語ウォッチング』岩波書店

井上文子(1991)「男女の違いから見たことばの世代差」『月刊 日本語』第4巻6号

岩田祥子(2002)「日本語教育といわゆる『ら抜きことば』」『梅花短期大学国語国文学会』第15号

内山みずえ(2002)「方言におけるラ抜き言葉-井上史雄『日本語ウォッチング』を読んで-」『跡見学園女子大学国文科報』第29号

岡崎和夫(1980)「『見レル』『食ベレル』型の可能表現について」『言語生活』340巻4号

岡崎正継・大久保一男(1991)『古典文法別記』秀英出版

大矢透(1902)『東文易解』大日本東京・泰東同文局【テキストは李長波編(2010)『近代日本語選集・第七巻』栄光】

尾崎喜光(1994)「ラ抜きことばはどのように成立したか?」『国文学 解釈と教材の研究』第39巻14号

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A Teaching Method for potential verband the word called ranuki

「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法

 

Abstract

 

This research note reports the guidance of “potential verb”and“the word called ranuki”between Japanese as the First and a Foreign Language in connnection.I discuss three points observing many researches in field of Japanese Linguistics.The First is many researchers about “potential verb”and“the word called ranuki”in field of Japanese linguistics.The Second is a model between Japanese as the First and a Foreign Language. There are many difference in textbooks to Japanese as the First Language on “potential verb”and“the word called ranuki”,and the editorial staff is how to teach the Japanese as a Foreign Language or where come from.I report that the editorial staff experienced the Japanese as a Foreign Language require the model of “the word called ranuki”,but Spoken Language don’t require.The Third is the method of convenience in Japanese for the First and a Foreign Language.When people speak the word without “ru”without, whether “the word called ranuki”is understood or not is important.

 

Keywords: the word called ranuki; potential verb; Japanese Linguistics; Japanese as a Foreign Language;Japanese as the First Language

 

本稿では、「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法について、主に国語教育と日本語教育との連携という立場で論じた。その際に、日本語学の先行研究を適宜参照しながら、以下の三点について述べた。第一に、「ら抜きことば」と「可能動詞」についての日本語学の先行研究を整理し、諸説があることを述べた。第二に、国語教育での規範性と日本語教育での規範性について考察した。国語教育では言語の規範性という点で「ら抜きことば」は教科書ごとに異なり、そこには、日本語教育の経験や出身地域の言語文化の影響もあることを指摘した。また、日本語教育での「ら抜きことば」は、日本語教育研究者は柔軟ではあるものの、教科書としては規範性を保つ必要性があることが要求されている面を述べた。第三に、国語教育でも日本語教育でも活用できそうな便法についても考えてみた。特に、接続や活用以外に、「る」を取り除いて命令の意味として通るかどうかで判断する方法を便法として取り入れた上での文法指導もよいことを述べた。

 

キーワード:ら抜きことば、可能動詞、日本語学、日本語教育、国語教育