「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法の一考察

國學院大學日本語教育研究会(第20回)

2016.7.16(土)於國學院大學

発表資料

 

「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法の一考察

-日本語学から国語教育・日本語教育へ-

 

國學院大學兼任講師

大東文化大学非常勤講師

岡田 誠

 

 

「ら抜きことば」と「可能動詞」という現象は、日本語史の上でも室町時代以降の変化として日本語のシステム化として注目され、社会言語学の上でも方言や男女差などの観点から考察が加えられてきた興味深い現象である。本発表は、「ら抜きことば」と「可能動詞」について、日本語学・国語教育・日本語教育の先行研究を整理し、「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法について考察するものである。

 

 

1 「ら抜きことば」と「可能動詞」の先行研究

 

1.1 「ら抜けことば」から「ら抜きことば」へ

 

「ら抜きことば」といわれる「来れる」「見れる」「食べれる」などの語形の指摘は、早い例としては、静岡県出身の松下大三郎(1924)が静岡の方言として紹介し、山形県出身の三矢重松(1930)の山形方言での紹介があげられる。そして、中村通夫(1953)は『静岡方言辞典』に「ら抜きことば」の記載があることを指摘し、その影響を受けた昭和初期の東京の山の手の青年たちが使用し始めたという指摘がある。その後、国立国語研究所(1981)、井上史雄(1998)などの指摘によって、「ら抜きことば」は中部地方や中国地方で生まれ、各地で方言として行われてきたが、大正から昭和の初めごろに東京などに広まったと考えられている。

しかし、当初は適当な呼び名がなく、田中章夫(1983)では、「れる言葉」などと呼んでいたと述べている。それが1992年9月27日付総理府発表の「国語に関する世論調査」のことを報じた週刊誌や新聞が契機となって注目されるようになり、『角川必携国語辞典』(1995年・初版)の編集の際に大野晋が「ら」が抜けたものであると主張したことから「ら抜けことば」となり、『NHKことばのハンドブック』(1994年・2月・第4刷)にも「ら抜け(表現)」となったが、『NHKことばのハンドブック』(1999年・6月・第9刷)では「ら抜き(表現)」というようになったと、田中章夫(1983)では指摘している。

田中章夫(1983)によると、他に1988年8月5日付の読売新聞朝刊に「ラ抜け言葉にガックリ」、1992年10月29日付の朝日新聞の朝刊に「『ら抜け』ともいう」などの注記がみられるという。これらを考え合わせて、田中章夫(2014)では、1990年ごろは「ら抜け」と「ら抜き」が激しく競いあっていたが、大勢としては「ら抜け」から「ら抜き」へと流れたと述べている。塩田雄大(2013)は、「ら抜き」以前の用語としては、「れる言葉」のほかに「『ら』音を脱落させた」「『ら』の字欠語症」「『ら』が省かれる」「れる式会話」「『ら』を落とす」の例があることを報告している。また、1995年の国語審議会中間報告で「ら抜きことば」は認めないことが話題になった。

「ら抜きことば」は、「可能動詞」と密接に関わるものである。金水敏(2003)では、「ら抜きことば」の特徴を以下のようにまとめ、話者を「非ラ抜き人」「完全ラ抜き人」「不完全ラ抜き人」の三つに分けている。

 

A 形態的には、カ行変格活用、一段活用の動詞の未然形(打ち消しの「ない」が続く形)に、下一段活用の「れる」を付けた形である。

(例「来れる」「着れる」「食べれる」)

B 「―することができる」に似た、「可能」の意味を表す。

C 基本的に、意志的動作を表す動詞からのみ作られる。

 

「ら抜きことば」が広まった理由としては、「食べられる」「先生が見られる」や「見られる」「先生が見られる」などを「食べれる」「見れる」とすることで可能の意味を明確にし、受身・可能・尊敬の区別を容易にするためという指摘がなされることが多いが、これらをまとめて、井上史雄(1998)は、「意味の明晰化」と「動詞活用の単純化」としている。この論を受けた内山みずえ(2002)は、「見れる」は「可能」、「見られる」は「受身・尊敬」とする区別は合理的であるとしている。

なお、「れる・られる」の尊敬の用法については、中村通夫(1948)が文章語か京阪地区で用いられてきたもので、下町言葉・江戸なまりでも尊敬の場合には、「お―になる」などの他の表現を用いてきたことを述べている。これは、「れる」「られる」の多義性に起因する現象でもあるといえるであろう。

この「ら抜きことば」の変化に従属する形で「れ足すことば」も出現した。これらは、「れる」型によって可能を示す表現と考えられるため、井上史雄(1998)の言う「意味の明晰化」と「動詞活用の単純化」と言えるであろう。

 

1.2 「可能動詞」の成立過程

 

日本語史では、可能動詞は室町時代に成立したと考えられているが、その成立過程については諸説あり、坂梨隆三(1969)は、諸説を三つに分類整理し、抄物・キリシタン狂言資料をもとに考察を加え、三つの段階で成立したものとし、「可能動詞の成立が下二段活用に起源を持つ」としている。三つの段階とは以下の通りである。

 

(第一段階)「知るる」「切るる」に「読むる」「持つる」を加えた段階

(第二段階)第一段階の諸語が一段化していく段階

(第三段階)その対応語が下二段自動詞を持たなかった四段他動詞や、四段自動詞が下一段活用となって独立していく段階

 

坂梨隆三(2006)においても、渋谷勝己(1993)を受けて多少の加筆はしてあるものの、可能動詞の下二段活用起源説での説明を行っている。坂梨隆三(2006)と青木博史(2010)を参照すると、現在の研究では、主な可能動詞の諸説は以下の四つに分類することができる(注1)。

 

1動詞未然形+助動詞「れる」起源説・・山田孝雄(1936)・湯澤幸吉郎(1936)・福田嘉一郎(1996)

(例)「読ま+れる」→「読める」

2動詞未然形+助動詞「る」起源説・・中田祝夫編(1963)

(例)「読ま+る」→「読める」

3動詞連用形+補助動詞「得る(うる・える)」起源説・・渡辺実(1969)・渋谷勝己(1993)

(例)「読み+得る」→「読める」

4自動詞「知るる」「切るる」類推説・・坂梨隆三(1969)

(例)「知るる」「切るる」(一段)・・「読む」(四段)→「読むる」(一段)→「読める」

 

この諸説の中で、3の「得る(うる・える)」起源説については、その嚆矢として、チェンバレン(1889)の指摘をあげることができる。以下のように、チェンバレン(1889)は、可能としてeruを付けることによる自動詞を提示している。

 

TRANSITIVE.   INTRANSITIVE.

kaku,          kakeru,                “to write.”

kiru,            kireru,                 “to cut.”

toku,           tokeru,                 “to melt.”

toru,            toreru,                 “to take.”

uru,               ureru,                  “to sell.”

yomu,         yomeru,               “to read.”

(pp.200-201)

 

2 「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法の考察

 

2.1 国語教育での「ら抜きことば」と「可能動詞」

 

可能動詞については、本来、四段・五段動詞から作られるものであるが、近年、四段・五段動詞以外でも作ってしまうことが多い。例えば、「見る(上一段)」を「見れる(本来は「見られる」)」としたり、「捨てる」を「捨てれる」(本来は「捨てられる」)としたりする類である。

これらは、「ら抜きことば」や「れ足すことば」などと言われている現象である。また、文語文法の指導の際には、「書ける(書く+り)」「読める(読む+り)」のように、本来は、四段動詞に「り」がついたものを一語として扱ってしまう誤りが続出するということが起きている。

これらの文法指導では、文語文法の指導の際、四段動詞の已然形に、完了・存続の助動詞「り」の連体形が下接するときに、一語として扱ってしまい、可能動詞と間違いやすいことがあげられる。また、口語文法の指導の際、「ら抜きことば」や「れ足すことば」にしてしまうことも考えられる。以下、文語文法の「る・らる」と口語の「れる・られる」の接続及び可能動詞についての説明を、教師用指導書として用いられている渡辺正数(1993)及び会田貞夫・中野博之・中村幸弘(2004)を参照し整理すると、以下のようになる(注2)。

 

【「れる・られる」の接続】

「れる」は「ある」以外の五段動詞の未然形「ア段」と、サ変動詞の未然形「さ」につき、「られる」は右以外の動詞の未然形及び助動詞「せる」「させる」「たがる」の未然形につく。

 

【可能動詞】

可能動詞は、「できる」という意味が加わったもので、五段動詞に可能を表す助動詞「れる」がついて、「書かれる」が「書ける」のようになったものと推測される。ただし、「ある」などのように、五段活用がすべて可能動詞になるわけではない。

 

これらの記述は一般的な学校文法での記述であるが、国語教科書での「ら抜きことば」と「可能動詞」についての本文での用例調査を行った研究として、岩田祥子(2002)がある。しかし、教科書の年度も1998年度のものであり、小学校、中学校それぞれ一社のしか調査しておらず(小学校は光村図書、中学校は三省堂)での使用例の合計数を示したもので、教科書での扱い方を示したものとは異なる。そのため、主要教科書五社での扱い方を比較検討することとする。

 

「ら抜きことば」についての記述は、どの出版社も「れる・られる」の個所では触れずに、可能動詞の個所で触れている。このことは、「ら抜きことば」が可能表現であるという表現認識の現れであると考えることができる。

以下のように平成27年検定済の中学校国語教科書では、教科書会社の主要五社ともに中学校二年で扱っている(注3)。そのうち三社が可能動詞を本文で立項し、脚注や左注をつけている。以下に主要五社の中学校での国語教科書での扱いを示してみる。

 

学校図書・・本文で立項(p.278)。脚注あり。

可能動詞

「字が書ける」の「書ける」が「書くことができる」の意味であるように、「できる」の意味を含む動詞。五段活用の動詞が下一段になったもの。命令形はない。

話す→話せる 聞く→聞ける 読む→読める 言う→言える

教育出版・・本文で立項(p.260)。脚注あり。

可能動詞

五段活用の動詞を下一段に活用させてできた、「・・することができる」という意味を表す動詞を可能動詞と呼ぶことがあります。

読める(←読む) 聞ける(←聞く) 話せる(←話す) 飛べる(←飛ぶ)

行ける(←行く) 帰れる(←帰る) 泳げる(←泳ぐ) 買える(←買う)

三省堂・・本文で立項(p.226)。脚注なし。

可能動詞

五段活用の動詞から形を変えて、「-することができる」という意味を表すようになった動詞を可能動詞という。可能動詞は下一段活用だが、命令形がない。

(例)①太郎は 長い 距離を 泳げる。(←泳ぐ)

②自分の 意見を はっきり 言える。(←言う)

東京書籍・・本文で立項(p.260)。脚注あり。

可能動詞

五段活用がもとになった下一段活用動詞で、「・・できる」という意味を表す。

書く(五段)→書ける(下一段) 走る(五段)→走れる(下一段)

飛ぶ(五段)→飛べる(下一段) 言う(五段)→言える(下一段)

光村図書・・本文で立項しない。脚注で立項(p.246)。

【脚注】

可能動詞の活用

「・・できる」という意味を含んだ動詞を可能動詞という。可能動詞は、五段活用の動詞をもとにした、下一段活用の動詞である。ただし、命令形はない。

・飲む(五段)→飲める(下一段)

・走る(五段)→走れる(下一段)

 

全体的に俯瞰してみると、本文で「可能動詞」を立項していないのが光村図書であり、本文では立項するものの、脚注はつけていないのが三省堂であることがわかる。三省堂は脚注をつけずに、文節で区切った例文を示しているのが特徴である。これは、日本語の使用実態に即した教科研グループともつながりがあるため、使用されている話し言葉を中心としていることが推測できる。以下に脚注で示している出版社の特徴をまとめてみる。また、「ら抜きことば」に言及しているのが、教育出版と東京書籍であることが分かる。これは、「ら抜きことば」を容認していない1995年度の国語審議会中間報告の反映とみることもできる。

 

【脚注の特徴】

学校図書・・脚注に「泣く→泣ける」、「思う→思える」を示し、これらを「自発動詞」として取り上げている。

教育出版・・脚注で「可能動詞には命令形はない」と記している。また、「話さない」(「話す」)と「話せない」(可能動詞「話せる」)との違い、「見れる」「出れる」を「ら抜き言葉」として紹介し、「規範的ではないとされている」記述している。「切れる」には、他動詞「切る」から可能動詞になった「切れる」と、自動詞の「切れる」とがある。さらに、「切れる」「取れる」「割れる」「裂ける」などを、可能動詞と自動詞との二つがあるとして紹介している。

東京書籍・・脚注で「食べれる」「来れる」の例をあげて、「ら抜き言葉」として紹介し、「書き言葉では一般的ではない」としている。

 

A本文での記述・・学校図書・教育出版・三省堂・東京書籍

a脚注を付けたもの・・学校図書・教育出版・三省堂・東京書籍

Ⅰら抜きことばに触れたもの教育出版・東京書籍

α可能動詞と他の動詞について触れたもの・・教育出版

β可能動詞と他の動詞について触れないもの・・東京書籍

Ⅱら抜きことばに触れないもの・・学校図書

α可能動詞と他の動詞について触れたもの・・学校図書

β可能動詞と他の動詞について触れないもの

b脚注をつけないもの・・三省堂

B脚注での記述・・光村図書

 

このように「ら抜きことば」と「可能動詞」に関して、教科書の出版社を概観すると、規範性を重視しているのが東京書籍と教育出版であることがわかる。特に教育出版は細かく分類していることがわかる。三省堂と光村図書は、言語の使用実態を重視していることがわかり、規範意識は低いことがわかる。このように出版社ごとに違いがあるのは、出身や日本語教育の経験なども反映される可能性もある(注4)。このように、どの出版社の教科書を採択するかは、「ら抜きことば」と「可能動詞」について指導するスタンスの問題とも関わってくると考えられる。

 

2.2 日本語教育での「ら抜きことば」と「可能動詞」の規範性

 

日本語教育では言語の使用実態を重視する面が強いため、西尾寅弥(1973)、水谷信子(1988)、佐々木瑞枝(1994)、岩田祥子(2002)、辛昭静(2004)など、「ら抜きことば」については日本語教科書で教えはするが容認する立場が強い(注5)。実際、「ら抜きことば」は言語の実態を重視する立場からは、井上史雄(1989)、井上文子(1991)、真田信次・渋谷勝己他(1992)などの社会言語学、大久保愛(1967)のように幼児語の発達言語の面からも容認されるところである。

日本語教育においての「ら抜きことば」の扱いについては、丸山敬介(1995)の研究がある。丸山敬介(1995)は、55点(そのうち17点が触れている)の日本語教科書、学習雑誌・学習参考書6点、研究誌3点(『日本語教育』『月刊日本語』『講座日本語教育』創刊号から1995年度まで)、及び18点(そのうち8点が肯定的)の日本語教師用文法参考文献を示し、緻密に分析を行っている。その結果として、以下のように述べている。

 

日本語教育においては、研究者は肯定的なものの、教師用参考文献、教科書と学習者に近くなるにしたがって、否定的になっている。教科書の場合、今回の調査の55点の内、ら抜きことばを肯定するものはわずかに12.7%である。ら抜きことばの記載・言及がないものは実に69%を占める。今日の現実の日本語の実態と外国人に提供される日本語の情報との距離ということでいうならば、それは相当隔たっているといわざるを得ない。

 

このように、使用実態としては「ら抜きことば」は容認しているにも関わらず、規範としての日本語教科書で指導する問題点をあげている。平成20年度に文化庁が調査した「国語に関する世論調査」においても、容認が72.6%に達している現状を踏まえて国語教育と日本語教育は行われる必要があるのではなかろうか。なお、丸山敬介(1995)では、1990年代では日本語教科書の25%、教師用参考文献では55%は容認の記述であると報告している。管見に入る限り、2000年以降の日本語教科書及び教師用参考文献でも、この傾向は続いているようである。

また、岩田祥子(2002)は、「ら抜きことば」に触れているテキストとして、『An Introduction to Advanced Spoken Japanese』(創拓社)、『文化初級日本語Ⅱ教師用指導手引書』(凡人社)、『Spoken Japanese VolumeⅠ』(AKP同志社大学留学生センター編)をあげているが、先駆的なものとしてジョーデン(1990)をあげることができる。ジョーデン(1990)は以下のように、「ら抜きことば」の形も日本語教科書で示しているところに特徴がある。

 

These new potential verbals,corresponding more or less to English‘can do’sequences,are formed as follows:

Vowel-verbals./verbal root(=-ru form minus -ru)+-rare(or -re)+-ru/

Examples:

    tabe-(ra)re-ru ‘can eat’

    ake-(ra)re-ru ‘can open(something)’

    oki-(ra)re-ru ‘can get up’

(Lesson25A:p.7)

 

3 指導法に際しての便法-国語教育と日本語教育

 

それでは、どのように「ら抜きことば」の文法指導を行うのが実践的であろうか。学校文法で知られている永野賢(1958)は、以下のような原則を立てることを述べ、判断をくだすことを述べている。

 

「五段活用の動詞には、可能動詞の形がある。」「それ以外の動詞には、可能動詞の形はなく、未然形に『られる』(サ変は「れる」をつけて『される』となる)をつける。」というような原則を立てることができる。こういう原則によって、正俗の判断を下すことができるであろう。

 

しかし、これは便法以前に言葉の述語や論理がわからないと理解しにくいのではないだろうか。日本語教育では、山田敏弘(2004)や原沢伊都夫(2012)が便法のようなものを説いている。

山田敏弘(2004)や原沢伊都夫(2012)は、日本語教育の視点で、「書く(五段動詞・子音動詞)」が「書ける(可能の形)」、「食べる(一段動詞)」が「食べられる(語幹+可能の助動詞)」、「する(サ変動詞)」が「できる(特殊形)」の例をとりあげている。そして、「書く」「食べる」の例をとりあげて、ローマ字で「e」「re」を取り出して説明を加え、五段動詞(子音動詞)の「ar」が抜ける現象とし、「子音動詞の可能形には『ら』が入り、母音動詞の前には『ら』が入らない」としている。

 

五段動詞(子音動詞)「書かれる(kak-are-ru)」→「書ける(kak-e-ru)」

一段動詞(母音動詞)「食べられる(tabe-rare-ru)」→「食べれる(tabe-re-ru)」

 

この説明の特色としては、ローマ字書きすることで視点を変える見方を示している点があげられる。また、「ar」が抜ける現象であるため、「ら抜きことば」は、ことばは変化し、システム化する一環としてとらえている。しかし、この方法であっても、文法が苦手な場合には理解させることは容易ではないであろう。むしろ、原沢伊都夫(2010)の「子音語幹に『eる』を、その他の動詞には『られる』をつける」のほうが、日本語教育では理解しやすいであろう。

また、萩原一彦(2008)は、可能表現として「動詞の可能形」と「動詞(辞書形)+ことができる」の二つをあげ、「動詞の可能形」として、以下のように「ラ抜き」を認め、「見える」「聞こえる」「わかる」には、もともと可能の意味が含まれているので、可能表現にはしないと述べて便法としてまとめている。

 

1.五段動詞→命令形+る

2.一段動詞→ます形+られる(ます形+れる[話し言葉・ラ抜き])

3.する動詞→―できる

4.来る→来られる(来れる[話し言葉・ラ抜き])

 

この方法も日本語教育の方法であるが、全体的に整理されている印象を受ける。スリーエーネットワーク編(2002)『みんなの日本語初級ⅠⅡ』では、1はⅠグループ、2はⅡグループ、3と4はⅢグループに分類され、Ⅱグループ→Ⅲグループ→Ⅰグループの順で提出されている。そして、以下のように説明している。

 

Ⅰグループは、「ます」形の前の母音がaに変わり、「れる」がつく。

Ⅱグループは、「ます」形+「られる」がつく。

Ⅲグループは、「さ+れる」「こ+れる」と暗記する。

 

しかし、さらにわかりやすい便法として、本発表では、以下の方法を提示したい。この方法は、原則を立てることで理解のために有益であると考えられる。それは教師用指導書(別記)の類には見当たらない説明ではあるが、「ら抜きことば」の接続については、大矢透(1902)、山田孝雄(1908)、橋本進吉(1935)の未然形の音に注目する方法を採用している。すなわち、「ア音(未然形)+れる」「イ・エ・オ音(未然形)+られる」とする方法である。この方法を用いれば、以下の例も比較的容易に理解できる。

 

書く→書か(ア音)+れる→書かれる

食べる→食べ(エ音)+られる→食べられる

 

この方法を実際に日本人母語話者に用いてみると、助動詞の接続について理解が十分でなくても、理解は容易なようである(注6)。しかも、文語の「る」「らる」でも適用でき、Ⅱグループの「ます」形を軸とした説明に関しても整合性がとれる。

井上史雄(1998)は「ら抜きことば」を可能動詞と関連づけ、一連のものとして考察している。そして、「る」を省くと命令形として意味が通るか否かで「可能動詞」か「ら抜きことば」なのかを判定するという方法を提出している。具体例を示すと以下のようになる。

 

「書ける」→書け→命令形として意味が通る

→「書ける」は可能動詞

「食べれる」→食べれ→命令形として意味が通らない

→「食べれる」は「ら抜きことば」

 

この方法は、萩原一彦(2008)の「五段動詞→命令形+る」の形式や、原沢伊都夫(2010)の「子音語幹に『eる』を、その他の動詞には『られる』をつける」にも通じるものがあり、日本語教育でも、初級の後半の内容なので、「Ⅰグループの命令の形」という表現でも理解できると思う。そのため、国語教育でも日本語教育でも整合性が取れているのではなかろうか。文法が苦手でも理解しやすいと考えられる。このように便法を示したのちに、再び文法説明を行うことも一案であると思う。

 

 

結び

 

本発表では、第一に、「ら抜きことば」と「可能動詞」についての日本語学の先行研究を整理し、諸説があることを述べた。第二に、国語教育での規範性と日本語教育での規範性について考察した。国語教育では言語の規範性という点で「ら抜きことば」は教科書ごとに異なり、そこには、日本語教育の経験や出身地域の言語文化の影響もあることを指摘した。また、日本語教育での「ら抜きことば」に対しては、日本語教育研究者は柔軟ではあるものの、教科書としては規範性を保つ必要性があることが要求されている面を述べた。第三に、国語教育でも日本語教育でも活用できそうな便法についても考えてみた。特に、接続や活用以外に、「る」を取り除いて命令の意味として通るかどうかで判断する方法を便法として取り入れた上での文法指導を述べた。

 

 

(注)

1

青木博史(2010)は、1と2の説は「読まるる→読むる」や「読まれる→読める」などの語形変化を想定しなくてはいけない点、3はの説は「読みうる→読むる」や「読みえる→読める」という1と2よりは許容度が高い語形変化の想定だが、このような母音融合の例は少なく補助動詞「得る」は文語化していたという問題点を指摘している。また、4については1、2、3の説の折衷で無理のない説明であり評価しているが、自動詞と可能動詞との関係性についての諸説への配慮に欠けるのが弱点であるとし、以下の三段階を設定している。

第一段階 対応する自動詞を持たない四段他動詞から生成される段階

第二段階 その他の四段動詞から生成される段階

第三段階 四段動詞以外の一段動詞・カ変動詞から生成される段階   (p.38)

2

学校文法では、可能動詞の説明は、山田孝雄(1936)・湯澤幸吉郎(1936)・福田嘉一郎(1996)などの語形変化説(「読ま+れる→読める」など)の「動詞未然形+助動詞「れる」起源説」で行われている。小柳智一(2008)の指摘にあるように、未然形とは未実現を示すものであるのに、「る・らる・す・さす・しむ」という既実現を示すものが接続するという、未然形接続の中では異質なものであるのが、言語変化の主な原因のようにも感じられる。

 

3

光村図書は脚注で可能動詞を補足的に説明し、三省堂は中学三年の教科書でも軽く可能動詞を復習している。

4

教科書編纂者の中で、文法的な項目執筆に関わった可能性がある日本語学専攻の編纂者を見てみると、以下のような特徴が見られるのが興味深い点である。

学校図書

編纂者が関東中心で日本語学専攻

ら抜きは一般的でない地域の執筆者

教育出版

編纂者が関東中心で日本語学専攻

ら抜きは一般的でない地域の執筆者

三省堂

編纂者が教科研や日本語教育との関わりがある

東京書籍

編纂者の中に論理学者も加わっている

光村図書

編纂者が関西中心で日本語学専攻だが日本語教育も行っている

ら抜きは一般的である地域の執筆者。

5

佐々木瑞枝(1994)は、以下のように、国語教育と日本語教育との違いを述べている。

大学の留学生教育では、まだ「着られる・寝られる」の形を教えている。日本語の教科書もまだ「寝れる、食べれる」の例は見かけない。しかし、留学生は日常この表現を耳にするだろうから、「最近はこんな言い方も出ています」と「見れる」「食べれる」も教えるようにしている。

また、原沢伊都夫(2010)は、「ら抜き言葉」を会話では広く使用されることを記すだけではなく、「さ入れ言葉」も市民権を得ているものとして紹介し、浅川哲也(2017)は、「ら抜き言葉」「れれる言葉」「ら入れ言葉」「可能動詞」と四分類で考察している。

 

6

また、同様にこの方法で、「ア音(未然形)+せる」「イ・エ・オ音(未然形)+させる」とすれば、以下のように「さ入れことば」の判定にも役立つと考えられる。

書く→書か(ア音)+せる→書かせる

食べる→食べ(エ音)+させる→食べさせる

 

 

(参考文献)

 

会田貞夫・中野博之・中村幸弘(2004)『学校で教えてきている現代日本語の文法』右文書院

青木博史(2010)『語形成から見た日本語文法史』ひつじ書房

浅川哲也(2017)「ら抜き言葉と〈れれる言葉〉の拡大-日本語母語話者の〈誤用〉問題-」『文学・語学』第221号

浅野鶴子(1973)「文法の与え方」『日本語教育』20号

井上史雄(1989)『言葉づかいと新風景(敬語と方言)』秋山書店

井上史雄(1998)『日本語ウォッチング』岩波書店

井上文子(1991)「男女の違いから見たことばの世代差」『月刊 日本語』第4巻6号

岩田祥子(2002)「日本語教育といわゆる『ら抜きことば』」『梅花短期大学国語国文学会』第15号

内山みずえ(2002)「方言におけるラ抜き言葉-井上史雄『日本語ウォッチング』を読んで-」『跡見学園女子大学国文科報』第29号

岡崎和夫(1980)「『見レル』『食ベレル』型の可能表現について」『言語生活』340巻4号

岡崎正継・大久保一男(1991)『古典文法別記』秀英出版

大矢透(1902)『東文易解』大日本東京・泰東同文局【テキストは李長波編(2010)『近代日本語選集・第七巻』栄光】

尾崎喜光(1994)「ラ抜きことばはどのように成立したか?」『国文学 解釈と教材の研究』第39巻14号

神田寿美子(1964)「見れる・出れる」『口語文法講座・3』明治書院

金杉高雄(2012)「日本語の現在-『ラ抜き言葉』の創発」『太成学院大学紀要』第14巻31号

教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)『文法教育 その内容と方法』むぎ書房

金水敏(2003)「ラ抜き言葉の歴史的研究」『月刊 言語』大修館書店

金水敏(2012)「日本語の正しさとは何か」『日本語学』31巻13号(明治書院

金田一春彦(1957)『日本語』岩波書店

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A Teaching Method for potential verband the word called ranuki

「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法

 

Abstract

 

This research note reports the guidance of “potential verb”and“the word called ranuki”between Japanese as the First and a Foreign Language in connnection.I discuss three points observing many researches in field of Japanese Linguistics.The First is many researchers about “potential verb”and“the word called ranuki”in field of Japanese linguistics.The Second is a model between Japanese as the First and a Foreign Language. There are many difference in textbooks to Japanese as the First Language on “potential verb”and“the word called ranuki”,and the editorial staff is how to teach the Japanese as a Foreign Language or where come from.I report that the editorial staff experienced the Japanese as a Foreign Language require the model of “the word called ranuki”,but Spoken Language don’t require.The Third is the method of convenience in Japanese for the First and a Foreign Language.When people speak the word without “ru”without, whether “the word called ranuki”is understood or not is important.

 

Keywords: the word called ranuki; potential verb; Japanese Linguistics; Japanese as a Foreign Language;Japanese as the First Language

 

本稿では、「ら抜きことば」と「可能動詞」の指導法について、主に国語教育と日本語教育との連携という立場で論じた。その際に、日本語学の先行研究を適宜参照しながら、以下の三点について述べた。第一に、「ら抜きことば」と「可能動詞」についての日本語学の先行研究を整理し、諸説があることを述べた。第二に、国語教育での規範性と日本語教育での規範性について考察した。国語教育では言語の規範性という点で「ら抜きことば」は教科書ごとに異なり、そこには、日本語教育の経験や出身地域の言語文化の影響もあることを指摘した。また、日本語教育での「ら抜きことば」は、日本語教育研究者は柔軟ではあるものの、教科書としては規範性を保つ必要性があることが要求されている面を述べた。第三に、国語教育でも日本語教育でも活用できそうな便法についても考えてみた。特に、接続や活用以外に、「る」を取り除いて命令の意味として通るかどうかで判断する方法を便法として取り入れた上での文法指導もよいことを述べた。

 

キーワード:ら抜きことば、可能動詞、日本語学、日本語教育、国語教育