カンタベリー物語

カンタベリー物語

 

 

本稿では『カンタベリー物語』の「学僧の話」と「商人の話」の女性描写を取り上げ、比較検討する(注1)。『カンタベリー物語』は、チョーサーの生涯では最後の15年の円熟期に書かれたものである(注1)。ここで見られる女性描写は対照的な人間のあり方、すなわち、「清純さ」と「欲望・非理性」が描かれているからである(注2)。

 

1.「学僧の話」

 

「学僧の話」は、女性の美徳の代表ともいうべきグリゼルダの話である(注2)。サルッツォー地方にある侯爵が臣下に勧められて、宮殿からそれほど遠くない場所にある小さな村の貧しい男の美しい娘を迎えたが、絶対服従での結婚であった。その侯爵は非常に嫉妬深く、妻の愛情を試す話である。「学僧の話」のグリゼルダは、親孝行で慈愛深く、子供と引き裂く、追放するなど次々に侯爵の夫の無理難題も受け入れている(注3)。ここでは、非常に嫉妬深い、しかも残酷な夫を描いている点が特徴的である。宮城音弥編(1979)『岩波心理学小辞典』の「サディズム」の項目では、「相手に苦痛を与えることによって、性的満足を感ずる異常性欲。ときには、一般的に残酷への傾向をいう」(p.83)とある。この記述に従えば、この残酷な夫の行為はサディズム的だと言えるであろう(注4)。

 

2.「商人の話」

 

「商人の話」は、グリゼルダの話とは正反対の、女性の浮気の物語、不徳きわまりないマイの話である。「商人の話」の前口上で、商人は直前の「学僧の話」にも触れ、以下のように述べている。

 

グリセルダのような忍耐強い女と、残酷きわまるおれの女房とは比較になりゃしねえ。大変な違いだ。・・〈中略〉・・一生女房をもたねえ男が、心を二つにさかれたところで、その苦しみなんざ、罰あたり女房をもったおれの苦しみにくらべたら、ものの数でもありゃしない。(p.348)

 

商人は、「学僧の話」に比べて、自分の妻が悪妻のため苦しむ心境を示している。ここには、「学僧の話」での以下の前口上への対抗意識がよく表れている。

 

 

この話は、イタリーのパドゥアで、立派な文章で作品を残している偉い学者からきいた話じゃ。今はもう死んで地下に埋葬されてござるが、わしはここでその方の冥福を祈ってからはじめるよ。この学者は、フランセス・ペトラルクという桂冠詩人で、美しい修辞法で書いた詩をもって、全イタリーを光栄あらしめた方だ。(p.306)

 

妖精の国王プルートのおかげで、盲目になった老騎士も目が見えるようになった際、マイは何の罪悪感すら感じることなく、目が完全に治っていないからダミアンとの姦通が見えるのだと堂々とごまかすのである。そこには妖精の国王の登場によって、純粋で穢れのないイメージの妖精と、罪の意識などなく、ごまかすことを考える、いわば穢れのイメージを喚起するマイとを対照的に浮かびあがらせるために登場していると考えたい。このように、「学僧の話」のグリゼルダと「商人の話」のマイ、同じ「商人の話」の中での妖精とマイという構図で人間の清純さと不道徳性が引き立てられていると捉えたい。松田隆美(2019)は、エデンの園のアダム、エヴァ、蛇にそれぞれ、老騎士ジャニュアリ、マイ、密通相手のダミアンを当てはめて構図化している。そして、マイの言い逃れによって誰も楽園から追放されないと解釈している(p.87)。その点では、この話は、マイという俗物的な人物の登場によって、混沌とした現実の世相を反映することに成功していると考えることもできる。

 

3.グリゼルダとマイとの比較

 

このように、「学僧の話」のグリセルダ、「商人の話」のマイとは対照的に描かれている。夫の性質も嫉妬深いという点では共通するが、一方は侯爵の臣下の勧めによる結婚で懐疑的、もう一方は老いた騎士の自発的に結婚を望んだ末の溺愛である。

 「学僧の話」は語り手が「未婚の学僧」であり、「清純さ・道徳性・親孝行・勤労・貞節・謙譲の美徳・嫉妬深い夫に絶対服従」のグリセルダ、「商人の話」は語り手は「既婚の商人」であり、「欲望・不道徳性・奔放・姦通・罪悪感の欠如・嫉妬深く老いた夫を翻弄」するマイ(注5)、このようにこの二話に描かれているグリゼルダとマイについて対照的に捉えることができる。

 

 

以上、『カンタベリー物語』の「学僧の話」と「商人の話」に描かれている女性を取り上げた。語り手の聖俗の違い、侯爵と老いた騎士の対比を背景として、それぞれの妻であるグリゼルダとマイの性質を述べた。グリゼルダに対するマイ、妖精に対するマイという、「清純さ・道徳性」と「欲望・不道徳性」の対立で描かれていると捉えたい。この二つの話は、斎藤勇(1984)の以下に述べるテーマで統一できそうである。

 

The Canterbury Tales に現れた世界は、多少の局部的混乱があるにせよ、全体としては秩序整然たる道徳の世界である。(p.51)

 

このように「秩序整然たる道徳の世界」と考えれば、統一して考えることができるのではないだろうか。グリセルダと妖精に対してマイを登場させ、語り手も一方は学僧、もう一方は商人という設定を行っている。

厨川文夫(1976)は、チョーサーの喜劇精神を指摘し(p.173)、「CHAUCERの初期の詩から、Troi and Criseyde を通って The Canterburu Talesへと作者の成長を見てくると、最初は重心が書物にかかっていたのが、次第に人生に移ってくる。書物は次第に前景から後景へ後退し、舞台には人生が躍動するようになる」(p.174)とチョーサーの自画像としての視点で述べている。「学僧の話」と「商人の話」にも、それぞれの生き方・価値観・思考などが表れており、「人生の躍動」を感じさせるのではなかろうか。

 

1

最初に指摘したのは、Skeat(1901)である。

2

テキストは、西脇順三郎訳(1972)『カンタベリ物語』筑摩書房【テキストは、『筑摩世界文学全集12』の文庫版(1987)】を使用する。

3

松田隆美(2019)は、「支配と和解」(p.101)を主題とし、「グリセルダの美徳は、ペトラルカやチョーサーにおいてはジェンダーに限定されない普遍的なものであったが、15、16世紀のグリセルダの話では家庭内や夫婦間の実践的な美徳へと矮小化されている」と述べている(p.113)。

4

西脇順三郎(1972)は、以下のように述べている。

この話では最大に嫉妬深い残酷な夫を描いている。今日の精神分析からすれば、サディズムの男とされるだろう。要するに愛をためすことは危険である。(p.432)

5

松田隆美(2019)は「商人の話」を論者とは異なり、「文学的アリュージョンや大げさな修辞的文体を次々と過剰に用いた暑苦しい話で、ファブリオ的なプロットとの齟齬によって笑いを誘う」(p.82)と述べている。

 

(参考文献)

厨川文夫(1976)『中世英文学史慶應義塾大学通信教育部

斎藤勇(1984)『カンタベリ物語』中央公論社(pp.45-54)

清水孝純(1990)『祝祭空間の想像力』講談社学術文庫

チョーサー(西脇順三郎訳1972訳)『カンタベリ物語』筑摩書房【テキストは、『筑摩世界文学全集12』の文庫版(1987)】

西脇順三郎(1972)「解説」『カンタベリ物語』筑摩書房

松田隆美(2019)『チョーサー カンタベリー物語-ジャンルをめぐる冒険』慶應義塾大学出版会

宮城音弥編(1979)『岩波心理学小辞典』岩波書店

F.J Furnnivall(ed.),The Six-Text Edition of Chaucer`s Caunterbury Tales.

Skeat,W.W.ed.The Cmplete Works of Geoffrey Chaucer. Oxford,1901