現代文の学習参考書-堀木博礼・田村秀行-

堀木博礼 田村秀行 酒井敏行 霜栄 船口明

この四人は、基本方針は同じである。つまり、内容を論理的に読解し、開放へのアプローチを明確に示すということである。堀木博礼と霜栄は内容読解重視、田村秀行と酒井敏行は設問アプローチ重視と言える。船口明は、その中間と言えるであろう。現在の予備校の現代文の読解と解法の基本路線は、この四人でほぼ完成したといってもよいほど、影響力がある。

長所としては、設問へのアプローチが明解であるということである。内容読解と設問とのバランスが非常に取れている点があげられ、読解と切れ味鋭い解法と言えるであろう。

短所としては、理系的発想も随所にみられるので、このように細かく読解や設問のアプローチが苦手というタイプには不向きである。読むことの楽しさを満喫したいタイプには向かないであろう。

 

現代文の学習参考書-高田瑞穂・石原千秋-

高田瑞穂 石原千秋

『新釈現代文』(新塔社・ちくま学芸文庫)という、現代文の学習参考書の大ベストセラーを書いたのは、高田瑞穂である。専門は、近代文学でした。国文学科と哲学科の両方を卒業した人物で、成城大学の教授でした。教養を中心とした内容である。旧制高校の受験の頃を想定して書かれており、主に記述問題が中心という感じです。高田瑞穂の教え子である石原千秋は、この路線で『教養としての大学受験国語』『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)を執筆し、広く読まれた。入試問題の出題者が書いたということで、一般に読まれ、高等学校や予備校の業界にも影響を与えたものである。

長所としては、大学の教員はどのようなことを考えて出題しているのかがわかるということがあげられる。現代文を読むときの教養の重要さを説いたものであると言える。入試問題を解くテクニックに疑問を投げかけるタイプの参考書である。現代文を読みながら、教養を高めるための豊富な参考文献を挙げているので、現代文と教養を結び付けた有意義なものである。

短所としては、旧制高校の受験を意識しているため、大学生が読むにはよいが、果たして入試で役立つかどうか、という問題がある。これらは一試論として現場の教員が読んで、その長所をみていくのに適していると言える。また、教養を述べているので、解答・解説の水準が現在の予備校の水準ではないので、点数を上げるには不向きである。

 

国語の学習参考書の種類

国語の学習参考書の種類・選び方・活かし方

 

国語の学習参考書は、ハードカバーからソフトカバーに変化した。また、著者も教養主義旧制高校向けであり、大学教員が主な執筆者であったハードカバーの時代が変化していった。その契機になったのは、実況中継版の出現あたりである。旺文社ラジオ講座という番組があり、そのテープ版や活字版が発売されるようになった。その発想の中から生まれたのが、旺文社の『現代文標準問題精講義』・『古文標準問題精講』・『漢文標準問題精講』といったシリーズであろう。そして、「〇〇の実況中継」というタイトルの書籍が語学春秋社から発売されたあたりから、ソフトカバーがハードカバーを駆逐したといえるであろう。国語の場合には、代々木ライブラリーから、『田村の現代文講義』『田村の小論文講義』『土屋の古文講義』などのシリーズが出て、それまでの、旧制高校を受験の趣の備えた『新釈現代文』(新塔社)、『古文研究法』(洛陽社)、『漢文研究法』(洛陽社)などの教養的な学習参考書は、評価は高かったものの、完全に時代に合わなくなり、それぞれ出版社も倒産してしまった。このように、苦手な場合には講義・実況中継型の参考書を使用することになった。

或る程度、苦手意識がなくなったら、問題慣れをするためには、ドリル・練習問題型がよいのはいうまでもない。そのドリルとしては、旺文社の『小論文ミニマム攻略法』・『漢文ミニマム攻略法』などは、旺文社ラジオ講座の長所を生かしたもので、入試に焦点を絞った適切な解説を施したドリルタイプであった。それに対して日栄社の『古文の演習ノート』・『漢文の基本ノート』は、解説というよりも典型的なドリルであった。この旺文社と日栄社の長所を生かしたタイプとして、河合出版の『頻出漢字と基礎知識』・『古典文法基礎ドリル』・『古典文法トレーニング』・『漢文句形ドリルと演習』があげられ、現在のドリルの模範的な形式が定まった。

テニスン『国王牧歌』

 

テニスン『国王牧歌』

 

本稿では、Alfled Tennyson ,Idylls of the King (2016)Createspace Independent Pubをテキストにして、ヴィクトリア王朝での意義について述べる。テニスン(1809-1892)の活躍した時代は、ヴィクトリア朝の時代とほぼ重なる。テニスンの83年の生涯は、19世紀で、ヴィクトリア朝のほとんどすべての期間にまたがるものである。

テニスン以前は、イギリスのロマン主義の時代であり、ワーズワース、コウルリッジ、バイロンシェリー、キーツなどの個性あふれる詩人の活躍した画期的かつ特異な時代であった。このロマン派の終焉を迎えようとしていたのが1830年代であり、ヴィクトリア女王(1819-1901)の即位が1837年である。テニスンは、ブラウニングとともに、このヴィクトリア朝を代表とする詩人である。その思想はヴィクトリア朝の代表的なもので、その思想や感情は女王の帝国を正当に代表するものである。それは、Idylls of the King(『国王牧歌』)に代表される。テニスンの詩に見られる思想について、西脇順三郎(1977)は以下のように述べている。

 

その絵画的感覚もその音楽的感覚も優秀なものであった。またその自然描写は特に優れている。彼の人間観・世界観は、非科学的自然観も認め、その一方では宗教的信念も捨てず、すべて神の世界から出発していたひとつの中庸説である。彼は人間の進化とか完全性ということを信じた。・・〈中略〉・・彼の思想は当時の代表的なものであった。英国の中央の思想を代表しているもので、Shelley如き革命思想とは遥かに遠いものである。今日ではTennysonの詩人としての使命はその思想ではなく、その芸術である。その美的感性の優れていること、その作詩上の技巧の正確なことなどである。その中庸を得た正確な明瞭な質朴な表現美は、特に優雅な完全な手法の美ということになっている。その細かい描法はpre-Raphaeliteという画風を思わしめるものである。(pp.121-122)

 

テニスンは、1827年1830年1832年と詩集を刊行し、10年の沈黙を経て、『1842年詩集』を出版した。この作品で、テニスンは当代一流の詩人としてその地位を確立した。その後、1850年に、イギリス文学史上、最長・最大の挽歌である、『イン・メモリアム』を刊行し、この年にワーズワースが亡くなり、桂冠詩人と評されるに至った。この年は、まさに世代交代である。

西前美巳(2003)は、以下の四つの特色を指摘している。

 

1.作品の量の豊富さが挙げられる。創作した詩は、英国詩人の中でも、屈指の豊富さと多様ぶりを誇っている。

2.テニスンの詩風は、ロマン主義の詩風の名残をとどめながらも、ヴィクトリア朝特有の時代感覚に反応しながら、テニスン独自の美感、想像の豊麗さ、斬新な描写、荘重典雅な格調を確立している。

3.発想の奔流に身を任せるのではなく、その詩風は整然として静的であり、素直な秩序のある、そして柔軟な美しさの樹立を目指して努力を惜しまなかった。

4.テニスンは一時代の国法的な存在でありながらも、身構えたような宗教、道徳の思想家としでてはなく、ミルトン、グレイなどと同様、洗練された英語の韻律美を中心とした言語芸術家としての特質をもっていた。

 

2に注目してみると、“The Coming of Arthur”の以下の箇所は、孤独な王という立場から、人生の意義について、星や大地に思いを巡らせ、壮大に描いている。ここには、ヴィクトリア女王の心情的な孤独も重ね合わされるとも読める。

 

What happiness to reign a lonely king.

Vext-O ye stars that shudder over me,

O earth that soundest hollow under me,

Vext with waste dreams?

 

3に注目してみると、“The Coming of Arthur”の以下の箇所は、一見すると征服、平定したようにみえ、ヴィクトリア朝帝国主義的なものを彷彿とさせるが、やがて運命の流れに大きく左右される前の一時的な静的な状態を“for a space”という表現で示している。

 

And Arthur and his knighthood for a space

Were all one will, and through that strength the King

Drew in the petty princedoms under him,

Fought, and in twelve great battles overcame

The heathen hordes, and made a realm and reigned.

 

4に注目してみると、“The Coming of Arthur”は以下のように、長母音、二重母音、K音の子音を多用していることがわかる。この点について、西前美巳(1992)は、「エキゾチックな語感をもつ長い音節語の固有名詞を並べて、広い範囲にわたる諸国の首領たちを平伏させるアーサーの意気を巧みに表白している」(p.488)と評している。ここには、ヴィクトリア朝の隆盛が重ね合わされているようにも見える。

 

And mightier of his hands with every blow,

And leading all his knighthood threw the kings

Carados, Urien, Cradlemont of Wales,

Claudias, and Clariance of Northumberland,

The King Brandagoras of Latamgor,

With Anguisant of Erin, Morganore,

And Lot of Orkney.

 

テニスンは、幼少のころからアーサー王様の文学については、あらゆる詩の主題の中で最も大きいものと称したほどに魅了されたものである。その熱意は、20代のころにアーサー王物語の作品を4篇成したほどである。それらを踏まえた、Idylls of the King(『国王牧歌』)は、1859年7月に刊行された。その時テニスンは50歳である。テニスンIdylls of the King(『国王牧歌』)は、全12巻の大作であり、中世的ロマンスを題材としている。西脇順三郎(1977)は、「そこには、人間の理念や帝国主義的な理想も含まれている」(p.121)と評している。

“The Passing of Arthur”の末尾は、以下のようにベディヴィア卿がアーサー王を乗せた屋形船を見送る場面であるが、“saw,・・Or thought he saw”のように言い直している点を西前美巳(2003)は、「この王の未来帰還説を前提としている中世の伝説をも考慮に入れた筆致と言えないだろうか」(p.579)と述べている。他に、末尾の光、新しく太陽が昇る場面に、ヴィクトリア朝後期にあたり、新旧交代しても、永遠の繁栄が子々孫々続いていくという理想を重ね合併せているとみることもできるのではないだろうか。ここに、テニスンの詩想の背景にヴィクトリア朝の意味合いが映し出されていると見ることもできる。

 

Thereat once more he moved about, and clomb

Even to the highest he could climb, and saw,

Straining his eyes beneath an arch of hand,

Or thought he saw, the speck that bare the King,

Down that long water opening on the deep

Somewhere far off, pass on and on, and go

From less to less and vanish into light.

And the new sun rose bringing the new year.

 

西前美巳(2003)は、初期の四篇の関係詩は、どれもこの牧歌のプレリュードにあたり、実験的要素を持つとしている。これは、テニスンが中世アーサー王文学への精通ぶりがわかる作品である。また、どれほどアーサー王伝説を詩的に再創造するために、いかに精通・専心していたかを示す格好の作品である。

1859年に刊行された段階では「全十二巻一万行」ではなく、版を重ねるごとに手が加えられ、10年後の1869年の新版で大幅に増補され、1874年に現在の総詩行一万余という一大叙事詩が完成した。1831年に「シャロット」で本格的にアーサー王文学の口火を切って以来の50年という歳月をかけて完成された長編詩である。ほとばしるエネルギー、愛着の深さを感じずにはいられない。しかし、このヴィクトリア朝の倫理観に即してアーサー王伝説をうたった、情熱をこめた作品に対して、斎藤勇(1957)は以下のように批判している。

 

これはTennysonの最も自信ある大作であるにも拘わらず、中心思想であるVictorian moralityの因襲的なこと、TristramやGawainの性格を中世の伝説におけるよりも甚だしく堕落させていることなど、大きな欠点がある。故に作中大いにすぐれた箇所が少なからず、かつLancelot及びElaine(“Lily maid of Astolat”)の如き溌剌たる人物描写の挿入があるにも拘わらず、成功の作ではない。作者が性格描写に長じていないため、Arthurは儒者風の堅苦しい考え方に囚われて夫らしさがなく、またVivienは嘲笑の権化であるという風に、一二の人物を除けば、人形同然となっている。その上、Tennysonの通弊として、この作も各巻を通じて構成的統一に乏しい。一体、TennysonもBrowningも、当時の小説家と競争するかのように長い詩を書いたのは、遺憾なことである。(pp.408-409)

 

齋藤勇(1957)の長篇詩を書いたことへの批判は、厳しすぎ、過小評価ではないだろうか。儒者風とはいうが、In Memoriamという広く読まれた長篇詩を手掛けた、テニスンの情熱は人々の心に共鳴したことも勘案したほうがよいであろう。逆にいえば、それだけ売り上げもあり、影響力も強かったことの裏返しともいえるであろう。

テニスンIdylls of the King(『国王牧歌』)は、ヴィクトリア朝後期は、それまで「世界の工場」として君臨してきたイギリスが、慢性不況に陥り、工業製品等の工業の低下になった時期である。その世相を反映し、アーサー王に、帝国主義、永遠の繁栄の持続、未来帰還説を含ませ、新旧交代の未来永劫を重ね合わせているとみることができるのではないだろうか。

 

(参考文献)

神山妙子編(1989)『はじめて学ぶイギリス文学史ミネルヴァ書房

斎藤勇(1957)『イギリス文学史』研究社

西前美巳(1991)『テニスンの詩想-ヴィクトリア朝期・時代代弁者としての詩人論』桐原書店

西前美巳(2003)「作品解説」『対訳 テニスン詩集』岩波文庫

西脇順三郎(1977)『近世英文学史慶應義塾大学通信教育部

 

 

 

 

 

カンタベリー物語

カンタベリー物語

 

 

本稿では『カンタベリー物語』の「学僧の話」と「商人の話」の女性描写を取り上げ、比較検討する(注1)。『カンタベリー物語』は、チョーサーの生涯では最後の15年の円熟期に書かれたものである(注1)。ここで見られる女性描写は対照的な人間のあり方、すなわち、「清純さ」と「欲望・非理性」が描かれているからである(注2)。

 

1.「学僧の話」

 

「学僧の話」は、女性の美徳の代表ともいうべきグリゼルダの話である(注2)。サルッツォー地方にある侯爵が臣下に勧められて、宮殿からそれほど遠くない場所にある小さな村の貧しい男の美しい娘を迎えたが、絶対服従での結婚であった。その侯爵は非常に嫉妬深く、妻の愛情を試す話である。「学僧の話」のグリゼルダは、親孝行で慈愛深く、子供と引き裂く、追放するなど次々に侯爵の夫の無理難題も受け入れている(注3)。ここでは、非常に嫉妬深い、しかも残酷な夫を描いている点が特徴的である。宮城音弥編(1979)『岩波心理学小辞典』の「サディズム」の項目では、「相手に苦痛を与えることによって、性的満足を感ずる異常性欲。ときには、一般的に残酷への傾向をいう」(p.83)とある。この記述に従えば、この残酷な夫の行為はサディズム的だと言えるであろう(注4)。

 

2.「商人の話」

 

「商人の話」は、グリゼルダの話とは正反対の、女性の浮気の物語、不徳きわまりないマイの話である。「商人の話」の前口上で、商人は直前の「学僧の話」にも触れ、以下のように述べている。

 

グリセルダのような忍耐強い女と、残酷きわまるおれの女房とは比較になりゃしねえ。大変な違いだ。・・〈中略〉・・一生女房をもたねえ男が、心を二つにさかれたところで、その苦しみなんざ、罰あたり女房をもったおれの苦しみにくらべたら、ものの数でもありゃしない。(p.348)

 

商人は、「学僧の話」に比べて、自分の妻が悪妻のため苦しむ心境を示している。ここには、「学僧の話」での以下の前口上への対抗意識がよく表れている。

 

 

この話は、イタリーのパドゥアで、立派な文章で作品を残している偉い学者からきいた話じゃ。今はもう死んで地下に埋葬されてござるが、わしはここでその方の冥福を祈ってからはじめるよ。この学者は、フランセス・ペトラルクという桂冠詩人で、美しい修辞法で書いた詩をもって、全イタリーを光栄あらしめた方だ。(p.306)

 

妖精の国王プルートのおかげで、盲目になった老騎士も目が見えるようになった際、マイは何の罪悪感すら感じることなく、目が完全に治っていないからダミアンとの姦通が見えるのだと堂々とごまかすのである。そこには妖精の国王の登場によって、純粋で穢れのないイメージの妖精と、罪の意識などなく、ごまかすことを考える、いわば穢れのイメージを喚起するマイとを対照的に浮かびあがらせるために登場していると考えたい。このように、「学僧の話」のグリゼルダと「商人の話」のマイ、同じ「商人の話」の中での妖精とマイという構図で人間の清純さと不道徳性が引き立てられていると捉えたい。松田隆美(2019)は、エデンの園のアダム、エヴァ、蛇にそれぞれ、老騎士ジャニュアリ、マイ、密通相手のダミアンを当てはめて構図化している。そして、マイの言い逃れによって誰も楽園から追放されないと解釈している(p.87)。その点では、この話は、マイという俗物的な人物の登場によって、混沌とした現実の世相を反映することに成功していると考えることもできる。

 

3.グリゼルダとマイとの比較

 

このように、「学僧の話」のグリセルダ、「商人の話」のマイとは対照的に描かれている。夫の性質も嫉妬深いという点では共通するが、一方は侯爵の臣下の勧めによる結婚で懐疑的、もう一方は老いた騎士の自発的に結婚を望んだ末の溺愛である。

 「学僧の話」は語り手が「未婚の学僧」であり、「清純さ・道徳性・親孝行・勤労・貞節・謙譲の美徳・嫉妬深い夫に絶対服従」のグリセルダ、「商人の話」は語り手は「既婚の商人」であり、「欲望・不道徳性・奔放・姦通・罪悪感の欠如・嫉妬深く老いた夫を翻弄」するマイ(注5)、このようにこの二話に描かれているグリゼルダとマイについて対照的に捉えることができる。

 

 

以上、『カンタベリー物語』の「学僧の話」と「商人の話」に描かれている女性を取り上げた。語り手の聖俗の違い、侯爵と老いた騎士の対比を背景として、それぞれの妻であるグリゼルダとマイの性質を述べた。グリゼルダに対するマイ、妖精に対するマイという、「清純さ・道徳性」と「欲望・不道徳性」の対立で描かれていると捉えたい。この二つの話は、斎藤勇(1984)の以下に述べるテーマで統一できそうである。

 

The Canterbury Tales に現れた世界は、多少の局部的混乱があるにせよ、全体としては秩序整然たる道徳の世界である。(p.51)

 

このように「秩序整然たる道徳の世界」と考えれば、統一して考えることができるのではないだろうか。グリセルダと妖精に対してマイを登場させ、語り手も一方は学僧、もう一方は商人という設定を行っている。

厨川文夫(1976)は、チョーサーの喜劇精神を指摘し(p.173)、「CHAUCERの初期の詩から、Troi and Criseyde を通って The Canterburu Talesへと作者の成長を見てくると、最初は重心が書物にかかっていたのが、次第に人生に移ってくる。書物は次第に前景から後景へ後退し、舞台には人生が躍動するようになる」(p.174)とチョーサーの自画像としての視点で述べている。「学僧の話」と「商人の話」にも、それぞれの生き方・価値観・思考などが表れており、「人生の躍動」を感じさせるのではなかろうか。

 

1

最初に指摘したのは、Skeat(1901)である。

2

テキストは、西脇順三郎訳(1972)『カンタベリ物語』筑摩書房【テキストは、『筑摩世界文学全集12』の文庫版(1987)】を使用する。

3

松田隆美(2019)は、「支配と和解」(p.101)を主題とし、「グリセルダの美徳は、ペトラルカやチョーサーにおいてはジェンダーに限定されない普遍的なものであったが、15、16世紀のグリセルダの話では家庭内や夫婦間の実践的な美徳へと矮小化されている」と述べている(p.113)。

4

西脇順三郎(1972)は、以下のように述べている。

この話では最大に嫉妬深い残酷な夫を描いている。今日の精神分析からすれば、サディズムの男とされるだろう。要するに愛をためすことは危険である。(p.432)

5

松田隆美(2019)は「商人の話」を論者とは異なり、「文学的アリュージョンや大げさな修辞的文体を次々と過剰に用いた暑苦しい話で、ファブリオ的なプロットとの齟齬によって笑いを誘う」(p.82)と述べている。

 

(参考文献)

厨川文夫(1976)『中世英文学史慶應義塾大学通信教育部

斎藤勇(1984)『カンタベリ物語』中央公論社(pp.45-54)

清水孝純(1990)『祝祭空間の想像力』講談社学術文庫

チョーサー(西脇順三郎訳1972訳)『カンタベリ物語』筑摩書房【テキストは、『筑摩世界文学全集12』の文庫版(1987)】

西脇順三郎(1972)「解説」『カンタベリ物語』筑摩書房

松田隆美(2019)『チョーサー カンタベリー物語-ジャンルをめぐる冒険』慶應義塾大学出版会

宮城音弥編(1979)『岩波心理学小辞典』岩波書店

F.J Furnnivall(ed.),The Six-Text Edition of Chaucer`s Caunterbury Tales.

Skeat,W.W.ed.The Cmplete Works of Geoffrey Chaucer. Oxford,1901

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学力を考える

1.学力とは何か

 

「学力とは何か」について考える。一般的には、学力とは、多くの知識を得ることだという、日本型学校知識の認識がある(注1)。また、学力は、学校知識とほぼ同義で使用されることもある。

学校の知識秩序の特性としては、主に三つあげることができる。第一に「教科・科目への区分」があげられる。各々の知識が本来生産されたり、活用されたりする学問・芸術・文化の諸領域におおまかに対応する形で区分されており、どの国でもほぼ、「言語(自国語と外国語)、数量、自然科学、社会科学、芸術(音楽・美術など)、保健・体育、技術など」で構成されている。第二に「順序性をもったカリキュラム」をあげることができる。学年の順序、学年の単元の並び、毎時間の課題として順序性を持っている。それらは学習者にとっての「学ぶ道筋=カリキュラム」として区分と秩序をもった体系をなしている。第三に「規範化する知識」をあげることができる。知識は本来的には規範ではないのであるが、学校知識は、テストや成績という形で、学習者に規範化を迫るという特徴を持つ。

久冨善之(1999)は、学校知識を「現代社会で、子どもたちが学校制度を通じて、学ぶように要求され、実際に学び、その習得の程度を評価される、そのような知識群」だと述べている。それに対して小澤浩明(2008)は、学校内部の格差要因として、日本型学校知識の克服の必要性を述べている。日本の学校知識は、それを学ぶ者に要素還元的、手続き的、断片的知識を吸収し、記憶し、正確に再現することを強く要請する点で、「要素的学力観」をともなったバーンスティンのいう、「寄せ集めコード」(要素主義的寄せ集めコード)であると性格づけられる。つまり、「意味や意義が見出せなくても、可能なかぎり数多く取り込んでおけば、いつかは役に立つ」といった知識観・学力観のことである。この学力観は、学ぶ意義や効能を実感しにくく、知識を可能なかぎり多量に収集・記憶することを迫る。そして、教科知識と自らの着想を結び付けて認識世界を広げ、深める機会から多くの子どもたちを疎外してしまっている。

すべての階層にとっては、「異文化」であった西洋の科学・文化知識の大量かつ効率的な伝達を緊急の課題としていた近代日本の学校は、子どもたちの学習状況を日常的に点検し、獲得された知識の量や程度を測定し競わせる仕組みを取り込んだ。この要素的学力観が、学校制度の担い手と利用者に浸透し、教師・父母・子どもたちの意識に刷り込まれ、職業世界における将来の地位を保証する象徴的な交換価値としての学力(=「学歴」)の価値が高まった1960年代以降には職業世界における人物評価基準にも深く浸透し、学力・学歴獲得競争を激化させた。

この流れに対して「ゆとり教育」とは学校知識の性格転換を行うものであったと考えることができる。「ゆとり教育」は、1990年代になってから、画一的・競争的性格からの転換を狙って、一連の施策が本格的に打ち出されていった。本田伊克(2008)は、このことを「バーンスティンが指摘する学校知識の統合コード化という動向が具体化したかたちの一つである」と述べ、さらには「ゆとり教育撤回」についても、「(再)寄せ集めコード」としている(注2)。この背景には、経済界からの受験によって培われた学力批判、新自由主義的な学校教育のスリム化・多様化の要求、競争主義・管理主義的な学習環境が子どもの発育にもたらす影響への対応などが、複雑にもつれあって存在しているといえる。

1999年に『分数のできない大学生』『少数のできない大学生』(東洋経済新報社)の刊行、受験競争復活と強制的学習の強化を提唱する和田秀樹精神科医)の提言などが契機となって、学力論争が起きたと言われている。また、藤原幸男(2003)は学力の一部をテストで測定するものであると定義づけている。学力調査を考えたとき、国際学力と国内学力の調査結果を比較することは重要である。国際学力としては「PISA」、国内学力としては「教育課程実施状況に関する総合的調査」「全国学力調査」がある。特に、PISAについては、国際的なものであるため、重視しているようである。本田伊克(2008)は、「科学的リテラシー」調査結果を以下のように読み取っており、日本の子どもたちの学力の弱点や歪みを指摘している。

 

〇公式をそのままあてはめるような設問には強いが、身の回りのことに疑問をもち、それを論理的に説明するような力が弱い。

〇自分で問題を設定し、解決方法を考える力が弱い。

〇科学に対する興味・関心・意欲が低く、「科学についての本を読むことが好き」「科学に関するテレビ番組をみる」「科学に関する雑誌や新聞の記事を読む」と回答したものの割合は参加した57カ国・地域中最下位。

 

学校の科学が子どもたちの認識・行動枠組みのなかに組み込まれ、骨肉化したちしきとして獲得されることを妨げているものは何かということが問題点としてあげられる。

社会学的な見地からの学力と階層という視点に注目してみたい。苅谷剛彦(2012)は、学力と階層に注目し、綿密な調査をもとに階層ごとの違いを報告している。この中で、階層に応じた家庭環境の影響、基本的習慣が強まり、学校での授業の効果の弱まりが指摘されている。この調査から、学習意欲の衰退傾向の克服という課題、指導方法や評価方法の開発以外に、学力格差が子供の所属する家庭(社会階層)の格差に大きく影響されていることが新たな課題として浮上した。

これに対して金子真理子(2008)の学力の階層差の調査では、多少結論が異なっている。金子真理子(2008)の調査は、小学校1から6年生の範囲で基本的な算数のテストで行い、その結果から以下のように述べている。

 

父大卒層の児童は、父非大卒層の児童に比べて、基礎学力における初期的優位性を示しており、努力が少なくても一定の学力が保証されている。一方、父非大卒層は、努力を媒介とすることによってはじめて、高学歴層の学力水準に近づく。つまり、両者が同じ学力に到達するためには、父非大卒層の児童のほうがより多くの努力を必要とする。・・〈中略〉・・父大卒層の児童は、学習時間が少なくても一定の学力が保証されており、学習時間の量による学力差が小さいからともいえる。ただし、父非大卒層だけでなく父大卒層も含めて全体的に、問題の配当学年すなわち問題の難易度が相対的に高まれば高まるほど、学力に対する努力の効用は高まる。

 

この調査は、あくまで算数で行ったものであり、国語・英語の調査も必要であろう。しかし、現状の「詰め込み教育」とされる「学力」で計測したときに、階層差が生じていることは事実として言えるが同時に、「努力の効用」も言える。「生きる力の育成」という点を計測するのは難しい現状であるが、「学力」を考える上でも、階層差という格差問題は大きな要因であることを如実に示すものであり、慎重に学力を考える必要があると言える。

しかし、学力をこのように能力主義的なものだけで考えてよいのであろうか。戦前と戦後の社会構造の変化を考える必要がある。戦前の日本では軍隊の指揮命令系統の徹底や武器使用のためには、ある水準以上の学力が求められたという点に由来している。本来の学力は、生きていくために所属する共同体から要求されるものと考えることができる。しかし、戦後の日本では、潜在能力や諸能力の広がりによる人間性形成全体を重視するほうがよいのではなかろうか。知能指数(IQ)のほかに、心の知能指数(EQ)も提唱されている現状をみると、近代の能力主義メリトクラシー)の考え方による学力観には限界があるのではなかろうか。

 

1

学力とは何かを改めて文部科学省の見解をみてみたい。文部科学省の見解としては、「学校教育法」第30条2項目で示されている。そこでは、「学力の三要素」として打ち出されている。以下の項目が文部科学省のホームページに掲載されている。

(1)基礎的、基本的な知識・技能。

(2)知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力等。

(3)主体的に学習に取り組む態度。

2

本田伊克(2008)は、以下のように述べており、従来の学校知識について否定的見解を示している。

日本の場合を含めた学校知識、特に初等・中等のそれは、基本的にはバースティンのいう「寄せ集めコード」としての性格をもつ。寄せ集めコードは強い「分類」および「枠づけ」をともなうものである。

 

 

2.学力の問題点-学力低下を考える-

 

学校知識は、選択・再編成の過程で、諸知識がそれぞれ生み出され、流通し、新しい世代に継承され、発展するもともとの文脈から切り離され、その習得にともなう様式や関係においてまったく性格を異にする知識として生まれ変わったものである。また、「画一的・没個性的・敵対的競争主義的な業績原理」といった近代学校で支配的だったものへの反発が「ゆとり教育」だったとも言える。バーンスティンの用語では、「寄せ集めコード」から「統合コード」への流れが具体化したことになる。特に、1991年に改訂された学習指導要録では、「観点別学習状況」欄の4つの評価観点のうち「関心・意欲・態度」が新たに最重要観点として位置づけられ、「知識・理解」は一番下に置かれることとなった。知識・技能の画一的指導中心の授業形態から、子どもが「自ら学び自ら考える力」の伸長を支援するそれへの転換をはかるメッセージを打ち出したのである。

しかし、「ゆとり教育」に伴い、1999年から2005年にかけて学力低下論争が展開された(注2)。学力低下論争の契機となったのは、PISA調査によって、日本の学力低下が指摘されて報道されたことにある。このテストは、フィンランドが世界一の学力を達成したことで注目を集めるようにあったテストである。しかし、この主催者であるOECDの理念としては、経済発展に貢献する能力を試すものであり、このテストで学力低下か否かを計測することには疑問の声があがっている。さらには、PISAで問われているような、既存の教科枠にとらわれない問題解決技能・コミュニケーション技能・創造性・柔軟性・自己信頼・多様な民族的かつ文化的背景の理解を育てるべきだとする議論がある。その一方で、沖裕貴(2009)は、PISAは思考力を測るもの、TIMSSは計算力・知識を測るものとし、「ゆとり教育」では「関心・意欲・態度」に加えて「思考・態度」を重視したにもかかわらず、PISAの数値が後退している点に注目し、学習指導要領だけが原因ではなく、その主旨が現場で反映されていない点を指摘している。さらに、根本的な原因を社会構造の変化にあるとしている。つまり、「ゆとり教育」に転換してからしばらくは学力低下の件が起きなかったが、1992年-1998年にかけてテレビゲームの時間数が一日あたり120分から139.1分に上昇し、読書量も低下していることを、数値をあげて指摘している。さらには、テレビゲームだけでなく、携帯電話の普及もあげている。これを、「ゆとり教育」で生まれた余暇によって、「学力からの脱走」であると述べている。

このようにみてみると、社会構造の変化という、社会学的な問題点も浮き彫りになってくる。また、日本の学力分布は低い層でより低く、高い層でより高く分かれるという、二極分化の傾向がある点も注目される。小澤浩明(2008)は、学力と階層差の問題点にも言及し、学力格差の小さいフィンランド型から学力格差の大きいアメリカ型へ日本の変化、フリーター問題にみる社会保障全般の充実、特に学校の福祉的機能の充実の必要性に注目し、以下のように述べている。

 

学校は学校内の文化的不平等と学校の前での社会・経済的不平等の「二重の格差要因」のそれぞれに対処することによってはじめて、再生産の「抑制」を可能にすることができるのではないだろうか。(p.158)

 

理念としてはどうなのであろうか。「ゆとり教育推進派」の寺脇研(2001)は、以下のように述べている。

 

現在の国際社会において、日本人は自己主張や議論が下手であり、自分の考えを論理的に展開する能力に劣る、とされています。・・〈中略〉・・これまでの日本の教育が表面的な知識の詰め込みに走り、「考える力」「表現する力」の育成を軽視してきたこととも無関係ではないと考えられます。・・〈中略〉・・多数の生徒が自分の疑問点を次々と教師にぶつけてゆけば、その間、授業は先に進みません。授業時間数に比して学習内容が過大であったこれまでの教育の現場では、先生は生徒のそうした疑問につきあう「ゆとり」がなかったのです。

 

このように考えると、「ゆとり教育」は理念としてはよいと言える。いかに現場でその主旨を理解し、社会構造の変化に対応できたかが問われた現象なのではないだろうか(注3)。2008年2月に発表の学習指導要領改訂案では、「生きる力」育成という理念の維持や知識の「活用力」の向上を新たに掲げてはいるものの、国語・社会・算数・数学・理科・外国語・体育の授業時数増加、「総合的な学習の時間」の縮減など、全体的に学校知識を「寄せ集めコード」へと戻す方向性を示している。佐貫浩(2004)は、朝日新聞2008年3月4日付朝刊の世論調査を示している。そこでは、数学や理科の授業時間数を増やすことに賛成が7割を超えている。その一方で、総合的な学習時間の削減には否定的な見解が半数を占めている。ここには、「統合された知識」と「寄せ集められた知識」という両極のはざまで、子どもたちに身につけさせるべき知識と価値としていかなるものを想定すべきか迷い、暗中模索する人々の姿が反映されているようにも見える。

また、「ゆとり教育」を考察する際、その萌芽として「大正新教育運動」があり、戦後の「戦後新教育」にすでに近似的現象が見られる。しかし、実際には「問題解決学習」に寄せられたさまざまな批判をどう克服することができるのかについて、吟味され、具体的展望が示された形跡を見出すことは困難であるところに問題が潜んでいたのではないだろうか。その状態のまま、「ゆとり教育」が実施されたことが問題であった。理念としてはよいはずの「ゆとり教育」が十分に生かしきれなかったのは、「大正新教育運動」「戦後新教育」での問題点を放置した状態であったことによる点が大きいと言える。

しかし、教育改革の視点から久冨善之(2008)、小谷敏(2003)は指摘している。特に小谷敏(2003)は、その根本的な原因を「新自由主義的発想」「復古主義」「理想主義」の混在に見ており、歪んだ社会構造を指摘しており、示唆的である(注4)。科学・文化的知識の系統的・効果的な吸収を一義的な目的として共有する教師と生徒という関係、その上に成立してきた教師の権威性が、子どもたちから境遇や価値観を異にする他者を理解し共感する力を奪い、自らを深く見つめ返す機会を奪ってきた状況が問い直される。

ゆとり教育」は、当初から、歴史的には「大正新教育運動」「戦後新教育」の流れ、それに加えて、戦後の経済発展に伴う、「新自由主義的発想」「復古主義」「理想主義」などの多くの混在した教育思想の混在であったことがわかる。単に学力という表面的な問題だけではなく、社会構造の変化、社会階層の格差、教育理念の混在による核となる理念の欠如など、複雑な問題を呈していることがわかる。さらには、教育成果の説明責任を要求される学校においては、可視化されにくい力や成果の見えにくい活動が軽視され、教育的妥当性を持たないものも含めた数値・達成目標が強調されがちな点も大きい。

 

2

学力論争の主なものを、山内乾史(2005)は以下のようにまとめている。この図から、観点の違いから学力低下論争が発生していることがわかる。

 

 

ゆとり教育に肯定的

ゆとりに否定的

国家・社会の観点から

タイプ1

教育過剰論

新自由主義的教育論

タイプ2

国際競争力低下論

学習意欲・階層化論

児童・生徒の観点から

タイプ3

児童中心主義的教育論

体験型・参加型学習論

タイプ4

学習権論

吹きこぼれ論

 

それぞれのタイプの代表的な論者を以下のように示している。

タイプ1・・石原慎太郎三浦朱門

タイプ2・・小堀圭一郎・西村和雄・和田秀樹苅谷剛彦・蔭山英男

タイプ3・・寺脇研・加藤幸次・高浦勝義・・文部科学省・国立教育政策所に在籍

タイプ4・・塾に通わせることのできない多くの市民

3

深谷圭助(2008)は、国語力はすべての基礎であるという観点から、小学校1年生からの「辞書引き学習法」を提唱している。これは子どもの知的好奇心を大切にする調べ学習であり、従来の辞書は小学3、4年生から引くとする学習指導要領に一石を投じるものであった。そこには生き生きとした活動例が報告されている。この「辞書引き学習法」は学力にも好影響を与え、さらには真の意味でのゆとり教育の理念を体現できる方法として評価できるのではないだろうか。

4

小谷敏(2003)は以下のように指摘している。

寺脇流の「理想主義」だけが「ゆとり教育」を推し進めていったのではない。教育を軽量化することで、民間の教育産業への需用を喚起し新たなビジネスチャンスを創出すること。経済同友会の「合校論」に典型的に見られるように、財政支出の削減と教育の市場化を目論む新自由主義的発想が、「ゆとり教育」路線の推進力となってきた。また、子どもたちの学習負担を大幅に減らしていった背景には、「非才、無才」には知識など不要だという三浦朱門流の復古主義も混入している。寺脇流の「理想主義」そして新自由主義復古主義。「ゆとり教育」はまったく異質の発想が野合したキメラのようなものである。核となる理念が存在しないのだ。何を目的とした改革なのか。それが定かでないまま教育内容を機械的に3割も削減してしまえば、学校現場は大混乱に陥るほかはない。

 

(参考文献)

アンソニー・ギデンズ松尾精文他訳1998)『社会学(改訂第3版)』而立書房

市川伸一(2002)『学力低下論争』ちくま書房

大野晋・上野健爾(2001)『学力が危ない』岩波書店

沖裕貴(2009)「学力低下論争を振り返つて」『立命館高等学校』11号

小澤浩明(2008)「学校の階級・階層性と格差社会-再生産の社会学-」『教育社会学学文社

金子真理子(2004)「学力の規定要因-家庭背景と個人の努力とは、どう影響するか-」『学力の社会

学』岩波書店

苅谷剛彦・志水宏吉編(2004)『学力の社会学岩波書店

苅谷剛彦(2012)『学力と階層』朝日新聞出版

教育科学研究会編(2006)『現代教育のキーワード』大月出版

久冨善之(1999)「学校知識の社会学・序説的考察」『一橋論叢』121巻2号

久冨善之(2008)「教育改革時代の学校と教師の社会学」『教育社会学学文社

久冨善之・長谷川裕編(2008)『教育社会学学文社

小玉重夫(2009)「学力-有能であることと無能であること-」『現代の教育学』東京大学出版会

小谷敏(2003)「教育改革を読む」『子ども論を読む』世界思想社山内乾史・原清治編(2006)『学

力問題・ゆとり問題』日本図書センター所収】

佐貫浩(2004)「世界と自分を啓く学力と学習を」『教育』700号

深谷圭助(2008)『なぜ辞書を引かせると子どもは伸びるのか』宝島社

田中智志・今井康雄(2009)『現代の教育学』東京大学出版会

寺脇研(2001)「なぜ、今『ゆとり教育』なのか」『教育の論点』文芸春秋山内乾史・原清治編(2006)

『学力問題・ゆとり問題』日本図書センター所収】

藤原幸男(2003)「学力低下問題と学力形成」『琉球大学教育学部紀要』62

本田伊克(2008)「学校で『教える』とは、どのようなことか」『教育社会学学文社

山内乾史・原清治(2005)『学力論争とはなんだったのか』ミネルヴァ書房

山内乾史・原清治編(2006)『学力問題・ゆとり問題』日本図書センター

 

アイデア

「アイデア創出の方法」

 

こんにちは。今回は、アイデア創出の方法として、「ブレイン・ストーミング」を中心にまとめてみたいと思います。

 

ユニークな商品・サービスを生むための会議法

1ブレーン・ストーミング法(Brain Storming法)・・アレックス・オズボーン

(集団会議)ブレーンストーミング会議・ハーフアンサー会議・実行計画会議・経過確認会議

(一人会議)ブレーンストーミングマインドマップ(トニーブサン)・KJ法川喜田二郎

自由な雰囲気を作る

参加者が思いついたことを自由に出す

まずアイデアの質より量を重視

理想論や夢物語、大歓迎。

他人の意見に便乗OK

批判厳禁

2問題整理・欠点列挙法

既存商品の欠点などを徹底的に出し合うことから始める

3希望点列挙法

まずは理想のイメージを描き、現実をそれに近付ける。

4逆発想法

すべてを逆に考えることによって、新しいアイデアに結びつける。

 

個人レベルのアイデア創出のポイント

1歩きながら考える。

2通勤電車の中で考える。

3喫茶店の中で考える。

4枕元にメモを置き、寝付くまでに思いついたことをメモする。