アメリカの教育の流れ

(19)教育思想史(4単位)

 

進歩主義教育とアメリカの教育観・人間形成観の変遷

 

1.啓蒙主義期の教育思想

 

1.1フランクリンの教育思想

 

18世紀から19世紀前半の教育思想は、啓蒙主義期の教育思想の時期とされる。アメリカの教育思想を扱う上で、アメリカ人のシンボルともいわれる、ベンジャミン・フランクリン(1706-1790)は重要である。自律的人間(self-made man)の体現者とも近代の啓蒙主義や資本主義のモデルを示したことで知られているからである。

フランクリンは、ボストンの蝋燭職人の息子として生まれ、印刷所の徒弟奉公で印刷技術、文章作法を学んだため、制度的な教育をほとんど受けていなかったといえる。しかし、学術組織や教育制度の整備についての構想を持っていた。それが体現されたのが、ペンシルバニア大学の前身である、1751年の「フランクリン・アカデミー」「フィラデルフィア・アカデミー」の創立である。その教育思想は、1743年に「アメリカにおけるイギリス植民地のあいだに有用な知識を普及させるための提案」の提案を示している。フランクリンの提案は、「最も有用で最も装飾的な」事柄が教えられる「アカデミー」の必要性を指摘しており、書法、絵画、算術、会計、幾何学天文学をあげている。また、語学を重視する傾向があり、要約、朗読、演説、ギリシア語・ラテン語、フランス語・ドイツ語・スペイン語を学ぶことを主張した。また、歴史を重視し、あらゆる有益な知識や地理学・年代学・古代の習俗・道徳が学ばれると考えていた(高柳:2016)。

そして、『フランクリン自伝』に代表されるように、その教育思想の基本にあるものとしては、独立、自由、勤勉とったモダンな価値観であり、全般に「親切心」を陶冶すべきであることを強調している。これは、「リベラル化されたプロテスタンティズムの資本主義精神」である(教育思想史学会編:2000)。ここには、合理性・実用性・現実性を重視することで、有益な知識習得が個人及び他者に対しても有用な人間の育成につながるという視点を有することに特徴がある。アメリカ的な「一回性の人間」というアメリカの伝統をなす最初にあたる人物である。「一回生まれ人間」とすることで、完成可能な存在としたのである。この実用的な教育・学習を志向する中等学校としてのアカデミーは、19世紀に入って、全米で普及することになった(高柳:2016・教育思想学会編:2000)。いわば、アメリカ的な教育思想に多大な影響を与えた人物であると言える。

 

1.2ジェファーソンの教育思想

 

トマス・ジェファーソン(1743-1826)は、ヴァージニア植民地に生まれ、独立宣言の最初の草稿の執筆者に選出されている。第三代大統領在任中は、教育関連の法制化は行っていないが、ヴァージニアに戻ってからは、独立した学部(スクール)によって構成される州立の高等機関を構想し、1819年にヴァージニア大学を設立した。

ジェファーソンの教育思想は、ヴァージニア議会に提出した「知識の一般的普及に関する法案」(1779)に示されている。その中で、個人の自然権の自由な行使を保護するために、民衆一般の知性をできるだけ実際的に啓蒙することが述べられている。さらには、天賦の才能と徳を持っている人物を持っている人物を養成する必要を述べている。そのためには、広く才能や徳のある子どもを見つけ出し、公費によって教育する必要がある。このように、ジェファーソンの教育思想は、共和制国家における民衆全般の知性を啓くための教育と、その国家における政治・行政的エリートを民衆から選別し、国家のリーダーにふさわしい教育という点が特徴的である(高柳:2016)。

ヴァージニアに戻ってからの書簡には教育関連の事が記されており、人間の「完成可能性」「自己統治」の実現可能性を疑わない点では、ヨーロッパの啓蒙思想を受け継いでいる(教育思想学会編:2000)。ジェファーソンの独立宣言の中では、「すべての人間が平等にかつ独立に造られている」と記されている。しかし、そこには先住民や黒人に対する記載はない。「すべての人間は」野蛮人を征服することを許された文明化された人間だけである(教育思想学会編:2000)。この点では、西欧の文明人優位思想であり、差別問題へとつながる思想の底流が感じられる。

 

1.3マンの教育思想

 

アメリカにおいて、すべての子どもが無償で公的学校教育を受けることができる制度の本格化は、19世紀前半である。その先鞭をつけたのは、アマリカ公教育の父とされる、ホーレス・マン(1796-1859)である。マンは、マサチューセッツ州で、学校教育改善に関する情報収集や資料提供に尽力し、コモン・スクールの整備のために尽力した。その時代状況としては、富裕層の子どもは私立に通い、公立学校は貧弱で設置基準が守られていなかったことがあげられる。その原因としては、工業化によって低賃金の児童労働の需用の高まりによる教育よりも労働という意識と、無償の公立学校は貧困層の通う慈善的なものであるという意識が強かった点があげられる(高柳:2016)。

マンは、教育の普及は自由で公平な社会の実現のための政治的課題であるとみなし、教育への権利は、すべての人間が生来持っている絶対的な自然権であり、すべての人に教育を提供することは、政府の義務であると主張した(高柳:2016・教育思想学会編:2000)。マンは、コモン・スクールでは、宗教的義務は自ら判断するものであるとして、異なった宗派の子どもたちが一緒に聖書を読むという中立的な宗教教育の方法を確立した。これは、義務就学・無償・共通の宗教的に中立な公教育体系の確立の構想の実践であると考えられる。  

その一方で、道徳性・知的能力を備えた有能な労働者の育成が安定性をもたらし、資本家の財産を増やし、経済的な安定をもたらすとも論じているため、功利主義啓蒙主義、楽観主義とが錯綜している特徴がある。また、公立学校システムを民衆統制機構、階級構造の再生産装置としたなどの批判もある(教育思想史学会編:2000)。マンの教育思想の基盤には、ユニテリアニズム信奉があるため、教育改革による知識の普及によって、人間の性善性・改善性が開花し、個人と社会とが救済されると確信していた(教育思想史学会編:2000)。

その点では、思想の錯綜とは思っていなかったであろうと推測できる。マンのユニテリアニズムは、後のアメリカの教育思想につながる底流の一つであると言える。

 

1.4エマソンの教育思想

 

19世紀の啓蒙主義アメリカにおいて、ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803-1882)は、次の進歩主義教育への橋渡しの存在として位置づけられている。エマソンの特徴としては、有限な人間のうちにこそ普遍へとつながる可能性があると考える超越主義があげられる。これは後に個人主義の基礎となる考え方である(高柳:2016)。

エマソンは「自己信頼」を述べたが、それは単純な楽観主義ではなく、教育を単に社会化とみなすのではなく、また個の確立を社会から切り離して主張するものでもない。社会への関わりを引き受け、その関わりの内側から社会の変容への道筋を探ることが、同時にみずからが他者との関わりにおいて変わりゆく過程となるという二重の転回のことであり、「追従」という言葉で表現している。19世紀アメリカ国民の教師として親しまれているエマソンの教育思想は、合理主義や物質主義のもとで発展・整備されてきた公教育制度が、個性を疎外している状況を批判し、個性を尊重し、子どもの自発性と可能性に絶対の信頼を寄せた点に特徴がある。

その個性尊重の教育思想は、体系や論理性を重視しない、子どもの個性の中に神性を直観する万有存在論的なロマン主義、了解的認識を特徴としている。に立脚している。後にニーチェやデューイがエマソンを愛読したことでも知られる。特に、デューイはエマソンを愛読し、「民主主義の哲学者」と呼んだ。こうして、デューイの教育論、パーカーストの教育論、20世紀の進歩主義教育の流れに実践的に受け継がれていくことになる(教育思想史学会編:2000)。

このようにエマソンは、フランクリン、ジェファーソン、マン、というアメリカ的な自由意志や合理主義主体の流れとは異なる論を展開した。その点で、次の19世紀後半以降の進歩主義教育の流れに影響を与えた点で重要である。

 

2.進歩主義教育運動の思想

 

2.1革新主義期のアメリカという社会的背景

 

啓蒙主義の合理的精神は、革新主義期のアメリカも、その流れの上にあり、「教え」「育てる」中心の「社会主義効率主義」であった。革新主義のアメリカも、その流れの上にあり、その1916年にルイス・ターマンが、「スタンフォード=ビネー」テストを出版し、メンタル・テスト運動が加速した。ロバート・ヤーキーズも軍人に使用可能な陸軍知能テストに発展させ、1920年には国民知能テストが完成した。ヘンリー・ゴダードは『カリカック家』の中で、知能が遺伝であり、知能指数が低いと犯罪者、精神薄弱者になる点などを心理学者が主張した。このメンタル・テスト運動は、環境の影響や教育の影響を受けないとする点は問題であり、ウォルター・リップマンは環境からの影響、教育が果たす役割がこのような社会では軽視されてしまうとして批判した。また、文化人類学の立場からも文化環境の視点からも、フランツ・ボアズは文化的環境がもたらす影響を論証し批判を加えた。

 

2.2進歩主義教育の代表的実践とその思想

 

教育とは「教え」「育てる」とする考え方の一方で、子どもの自主性、自発性、興味・関心を重視し、子どもの成長・発展を目指す考え方がある。この新教育運動は「進歩主義教育」と呼ばれる。アメリカでは、ドルトン・プランとウィネトカ・プランの進歩主義教育がその嚆矢である。ドルトン・プランとは、ヘレン・パーカースト(1887-1973)によって生み出されたもので、「自由」と「協働」の原理を掲げ、日本の大正自由教育に多大な影響を与えた。一方、ウィネトカ・プランは、カールトン・ウォッシュバーン(1889-1968)の生み出したもので、ドルトン・プランとの相違点は、子ども中心主義が子どもの興味・関心に流された教育になることへの強い批判意識である。また、協働を柱としたゲーリー・スクールがある。ゲーリー・スクールは、ウィリアム・ワート(1874-1938)の生み出したもので、学校を一つのコミュニティにし、そのコミュニティの文化的実践に子どもが参加することが中心になっている。ウィリアム・ワートは、シカゴ大学で学び、学校を一つのコミュニティとし、そのコミュニティの文化的実践に子どもが参加する点には、デューイの教育哲学に大きな影響を受けていることがわかる。進歩主義教育の基本的な思惟方式は、プラグマティズムであり、実践者としてデューイが代表的な人物だと言える。赤星晋作(2017)は、この進歩主義教育を「文化内容の伝達と内的本質の助成で、より内的本質の助成を強調する動きである」(p.9)と定義している。

1930年代に登場した「社会改造主義」は、既存の社会を変革する姿勢の点で不十分だとして、進歩主義教育を批判した。その中でも、ジョージ・カウンツ(1889-1974)は、学校を社会改造の起点とするためには、子どもの関心に従うよりも、民主的で協働的な文化を教え込むことが不可避だと主張した。

しかし、この主張に関しては、進歩主義教育の個人的側面を強調する一方で、社会的共同や社会改善という市民教育という両義性のウェイトの置き方に論点がある点では異なるが、思想的には子どもの成長・発達を助成するという思想的基盤としては同じである点を含んでいる。進歩主義教育の思想は、学校教育の使命とは何か、学校とはどのような場であるべきかといった、リベラリズムを基盤としたアメリカの伝統的な生活様式を支配してきたイデオロギーがよく表れている。

 

3.デューイの教育思想

 

3.1アメリカ社会とデューイ

 

アメリ進歩主義教育思想を代表する人物として知られるジョン・デューイ(1859-1952)は、19世紀後半から20世紀前半という、アメリカ社会が大きな転換点を迎えた中で、民主主義の理念を擁護して教育実践に深く関与した思想家であった。デューイは、「善い人の実現」という点でルソーの教育思想に近いとされ、哲学と教育学の業績があるが教育学の主著に『経験と教育』『学校と社会』『民主主義と教育』などがある。デューイは、シカゴ大学に教育学科を新設し、1896年にそこに一つの実験学校(1896年-1903年)を設立した。その後、1902年に「実験学校」と名称を変更した。そこでは、協同的な学びの活動を擁護し、学び合うコミュニティを中核とする学校を構想した。その学校は、ナーサリー、エレメンタリー、ミドル、ハイの四つの段階から構成された。

この実験学校でデューイは、教育の中心を教師から児童へと移し、児童中心の教育を行い、そこでの実験とその理論的裏付けを述べたものが『学校と社会』である。デューイは『学校と社会』で以下のように述べている。

 

机がきちんとならべられている伝統的な学校教室から暗示を受けるもう一つのことは、できるだけ多数の子どもたちをとりあつかうために、つまり、子どもたちを個々のものの集合体としてひとまとめにとりあつかうために、すべてあんばいされているということである。ということはまたしても、子どもたちが受動的にとりあつかわれることを意味する。子どもたちは活動する瞬間、みずからを個性化する。かれらは一群ではなくなり、各自それぞれにはっきりした個性的な人間になる。校外で、家庭で、家族のあいだで、遊び場で、隣り近所で、われわれが平素おなじみの、あのひとりひとりの子どもたちになるのである。(pp.47-48)

 

このように従来の「教える者」主体の伝統的教育を「旧教育」と呼んでいる。そして、個性的な存在としての子どもにするために、受動的な従来の旧教育を批判している。この点については、「実際には、より以上の成長以外は、成長と対比されるものは何もないのだから、より以上の教育以外に、教育が従属するものはなにもないのだ」(『民主主義と教育 上』p.89)と述べていることから、子どもの成長に焦点を当てた個性を伸ばそうとする教育に力点が置かれていることがわかる。

また、「間違いは、将来の必要のための準備を重視するのではなく、それを現在の努力の主要動機とする点にあるのである。絶えず発展しつつある生活のために準備することは大いに必要なのであるから、現在の経験をできるだけ豊かに有意義にすることにあらゆる勢力を傾注することが絶対に必要なのである」(『民主主義と教育 上』p.96)と述べているように、子どもの活動を通じて個性を尊重し、「為すことによって学ぶ」という意味において、経験の連続性と相互作用、経験の再構成等を重視していることがわかる。

 

私は旧教育の類型的な諸点、すなわち、旧教育は子どもたちの態度を受動的にすること、子どもたちを機械的に集団化すること、カリキュラムと教育方法が画一的であることをあきらかにするためにいくぶん誇張してきたかもしれない。旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書、その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の本能と活動以外のところにある。それでゆくなら、子どもの生活はあまり問題にはならない。・・〈中略〉・・いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動である。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移されたときと同様の変革であり、革命である。このたびは子どもが太陽となり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。(p.49-50)

 

このように、「教えられる者」が主体となる教育は進歩的教育、民主主義教育などと呼ばれるが、このことをデューイは、「コペルニクス的転回」と表現している。これはまさに、伝統的教育への挑戦状のようなものである。デューイの思想は、経験・行動・実践を重視する思想学派である、プラグマティズムの中から生まれたといわている。しかし、プラグマティズムの影響も受けてはいるが、パース、ジェイムズ、ミードの三者の影響を受けながらも(教育思想史学会編:2000)、教育を成長としてとらえており、むしろ、「子どもの発見」という意味では、ルソーの流れであろう。村井実(1976a)は、以下のように述べている。

 

歴史上の思想に具体例をとれば、たとえばデューイの教育思想は、教育において目的像すら必要でないという彼自身の主張にしたがえば、少なくとも意図的には過程像志向のタイプに属する。これに対して、多くの教育思想は、たとえば武士教育の思想というばあいのように、積極的な結果像志向のタイプに属する。(p.173)

 

ただし、ルソーとデユーイとの相違点も指摘されている。それは、「善い人」の実現である。村井実(1976a)は、E-MⅢがデューイの特徴であるとして以下のように述べている。

 

もっぱら、自分自身の自発性によって、しかも、E(過程像)のイメージによる外からの働きかけを手がかりとしつつ、自分自身のE(結果像)としての『善い人』を実現していくことになる。(p.192)

 

ルソーの流れでは、MⅡ(自発性に任せる・自由に放任する)という手段像も結果像としての「善い人」に支配されることへの反発である点で「善い人」=「結果像」という単純な図式に陥っていることになる。この二つに対してデューイのEⅢという一方では子ども自身がいずれはE=「善い人」(結果像)を自分で作り出すものとして期待されており、同時に親や教師がE=「善い人」(過程像)のイメージで子どもに働きかけることが期待されている(注1)。

 

3.2教育の公共性と民主主義

 

デューイは、19世紀の自由放任的な市場のリベラリズムと1930年代以降のニューディール的なリベラリズムの両方を批判し、民主主義と公共性を原理とした教育を探究し続け、民主主義と教育とは、相互的、互恵的な関係にあると考えた。赤星晋作(2017)は、以下のように評価している。

 

デューイ、キルパトリック、ホプキンス等の進歩主義教育学者によるカリキュラム改革運動の中での生活問題の解決を中心とするコアカリキュラム、それらの問題の解決過程を学習形態として組織した問題解決型学習やプロジェクト・メソッド、さらには社会的現実と取り組み、より良い社会の実現をめざそうとするコミュニティ・スクール等もデューイ及びその学派の進歩主義教育学から生まれ、アメリカ教育の基盤が形成されていく。

 

4.進歩主義教育批判の諸相

 

4.1公的教育の整備とアメリカ社会の変動

 

19世紀末から国民国家の発展にともなって各国ではそれを支える公的な教育制度の整備が進んだ。アメリカの場合にはそれが進歩主義教育であった。その時期、人口も大きく変化した。1890年に6300万人だったものが、1910年には9197万人に増加した。それは移民が主なものであった。こうした中で、1890年代から1920年代にかけて「革新主義」「進歩主義」と呼ばれる改革運動が展開された。特徴としては、第一に産業化と都市化を社会の不安定要因とみなしていたこと、第二に大都市と大企業が個人のイニシアティブや機会の平等というアメリカの理想や理念を阻害するとみていたこと、第三は社会の秩序の回復には政党よりも専門家が主導権をとる政府が権限を行使することが不可欠であると考えていたことである。

 

4.2革新主義期社会改革と新教育運動の交差としての進歩主義教育

 

進歩主義教育の多元性は、一方で国内の革新主義による社会改革、もう一方で新教育運動という世界的な教育動向との交差のうえに成立・展開している。国民国家の発展に伴い整備・発展した公的な教育制度が、新たな産業や資本主義の成長に対応するための革新を求められたものとみることができる。アメリカでは州ごとに教育の制度的発展や形態、特色が異なる。19世紀の半ばにマサチューセッツ州において、先駆的に就学義務や教員養成の制度化が推進され、南北戦争の19世紀末までには、ケンタッキーとウェスト・ヴァージニア以外の南部を除く多くの州で義務就学が法制化された。一番遅いミシシッピでも、1918年には法制化されたのである。

 

4.3主流化とそれへの対抗・批判としての教育思想

 

20世紀初頭のアメリカの教育改革運動は、大きく二つの方向が競合しながら共存していた。つまり、「子どもの自己活動を組織して社会化を図る子ども中心主義的・生活主義的方向」と、「将来の社会生活に最低限必要とされる基本的教育内容やその教育効果を科学的方法によって測定することで、教育の標準化や効率化、個別化を図ろうとする社会生活優先主義的、教科主義的方向」である。この二つを含める広義の進歩主義教育と、前者だけを示す狭義の進歩主義教育とがあることになる。

こうした動向の中で、1910年代以降、それまでの8年生の小学校・4年生のハイ・スクールという制度に代わり、小学校6年制ですべての子どもが共通の基礎的な家庭で学び、続いて進学するジュニア・ハイ・スクールの3年間で将来の進路や職業に応じた課程への振り分けを行い、その後、就職する者やシニア・ハイ・スクールへ進学する者とにコースを分けて行くという考え方が有力になった。

20世紀アメリカの教育思想を類型化する考え方がある。単純なものとしては、「伝統主義(保守主義)」と「進歩主義自由主義)」とがある。前者は、教師主導で教科書中心の教授様式や子どもの受動的な学習態度のもとで、過去から伝承された知識や技能を教えることを重視する立場である。後者は、子ども(学習者)の自由や積極的な活動。経験を中心として教育を組織化し、社会生活やコミュニティ構成に有用な学習を促進しようとする立場である。

他に、「伝統主義」を「エッセンシャリズム(本質主義)」と「ペレニアリズム(永遠主義)」の二つに、「進歩主義」を「進歩主義」と「改造主義」の二つに区分けするブラメルドの示した枠組みもある。エッセンシャリズムは、社会や文化が伝統的に継承してきた遺産、学問的知識、芸術、道徳、慣習、技術などを本質的な知識として着実に伝達することが使命であるとする考え方である。ペレニアリズムは、永遠の知識や原理、真・善・美という永遠不変の価値観を理性によって習得することを目指したものである。

 

4.4進歩主義批判

 

主流化した進歩主義教育に対しての伝統的な批判ということも行われた。むしろ、伝統的なもののほうが革新的に見えることの反映であろう。デューイに対しての批判者として、ハグリー(1874-1946)とハッチンズ(1899-1977)をあげることができる(注3)。これに対してデューイは、三点の批判を行った。第一に、ハッチンズが人間性を固定的であると捉え、また真理もあらゆる場所で同一であるから、いかなる政治的・社会的・経済的条件のもとでも教育は同じものとなるとする点である。第二に、ハッチンズが職業教育を問題視し、一般教育と完全に切り離して考えている点である。第三に、ハッチンズが普遍的学問の中に存在するとする真理を、理性によって認識することを重視する点である。これに対してハッチンズは反論した。その反論は、第一に古代・中世の哲学者の教えを学ぶことで、知的伝統を学び直し、再活性させる必要があるとする点である。第二に、経験科学は単なるデータの収集とする考え方を論難し、古典的名著の3分の1は自然科学に属するとした点である。第三に、古典的名著は、現代の問題を議論するために社会科学が重要な位置を占めているとした点である。第四に、ファシズムは哲学不在の帰結であり、直接的・実際的な関心にかまけて、知的伝統や知的訓練が崩壊したときに起こるものだと主張した点である。

ハグリーも、ハッチンズも、デューイの思想と二律背反するものではなかった。主流化した進歩主義思想に対抗した伝統主義教育思想が、実は革新的な役割を担ったのである。ハグリー、ハッチング、デューイの論争は、第二次世界大戦ソヴィエト連邦の情勢の変化、生活適応教育運動を通じて、進歩主義教育は衰退していった。進歩主義協会も1955年には解散された。1957年には、「スプートニク・ショック」によって、アメリカ教育のあり方は根本的な見直しが迫られることになった。

このスプートニク・ショックによって、「国際防衛教育法」(1958年)が成立し、1950年代末からは、科学技術教育の強化、外国語教育の振興が重視され、自然科学関連の教科のカリキュラム改革が実施されていった。そして、教科や学問を重視する教育思想が主流となったが、ドロップアウトする学生の問題が生じた。その結果、1960年代の後半には、マズロー、ロジャースの影響化の下、人間中心の教育である進歩主義的な教育への関心が高まった。しかし、学力低下の問題が生じてしまい、1980年代には再び学力を重視する立場が主流となり、現在に至っている。

 

 

アメリカの啓蒙主義的思想の教育思想から進歩主義的思想への流れは、フランクリン、ジェファーソン、マンに代表されるように、合理的・独立自尊の精神という意味では父性的な教育と呼べそうである。これは、伝統的なアメリカの思想の底流にあると考えられる。その一方で、エマソンを嚆矢として進歩主義教育やデューイのように、子どもの個性を伸ばすための自発性を重視するものは、母性的な教育と呼べそうである。この両方の流れがアメリカの教育の基盤であると考えることができる。

植民地時代に必要であった啓蒙主義から、個性を尊重する進歩主義という時代の要請も加わっているのであろう。そのどちらも必要であるといわざるを得ない。赤星晋作(2017)は、以下のように示唆的なことを述べている。

 

時代ごとによって、どちらか一方が強調されることにより問題が発生し非難され、もう一方の教育観に基づく教育が注目され主張されてくる。考えればこの二つの教育観は二者択一のものではなくて、教育という営みにおける両側面なのであり、それぞれに必要な側面である。(p.28)

 

進歩主義思想の中心にある「子ども中心主義」にしても、デューイは放任主義ではなく、またその批判としての社会改造主義も学校における学びの経験の協働を重視して社会の更新・変革を目指すと言う進歩主義教育であった。植民地時代に必要であった啓蒙主義から、世界恐慌、第一次・第二次世界大戦を経て、人間性中心の個性を尊重する進歩主義という時代背景も反映していると言える。啓蒙主義進歩主義、その両者を含みながらアメリカの教育思想は展開されている。その両者のウェイトの置き方を考慮しながら、時代の状況や社会状況に合わせて教育は変化してきたといえる。啓蒙主義進歩主義の長所と短所とを考慮し、理解した上で教育を考える必要があるのではないか(注2)。

 

(注)

1

この点について、村井実(1976a)では、以下のように述べている。

ルソーとジョン・デューイとは、同じ過程像志向に属する教育思想家として分類することができる。だが、特にこの方法モデルに着目すれば、ルソーの思想は典型的にE-MⅡ型に属するといわなければならない。ところが、デューイは必ずしもそうではない。彼の思想は、一方ではきわめてルソーのそれに近いことを認めざるをえないにもかかわらず、明らかにそこを超え出ることを意図して、E-MⅢに近づいた形跡を示しているのである。(p.193)

また、これらと対照的なカントは、『教育学講義他』に代表されるように、教育とは「教え」「育てる」ことであるとする。カントの流れではE(善い人)を結果像としてしか見ないため、MⅠ(押し付ける・刻印する・注入する・詰め込む・訓練する・指導する)という手段像になる。

2

宮澤康人(1993)は、デューイについて以下のように述べ、問題点も指摘している。

ただしデューイは、その主な活動期がむしろ20世紀に属するばかりか、思想的特徴においても、19世紀までの思想家と肌合いを異にしている。その点を強調してデューイを現代の教育思想家と位置づけることも可能である。しかしその場合、教育思想における現代的とは何かということが問題になる。しかも、デューイの思想の特徴も、現代的と捉えるのが正しいのか、それとも、ヨーロッパと対比して単にアメリカ的と捉える方が適切なのか、という問題も残る。(p.164)

3

エッセンシャリズムの立場からハグリーが6名の教育者とともに刊行した「アメリカ教育振興のためのエッセンシャリスト綱領」は広く知られている。その中では、進歩主義の教育が一定の役割を果たしたことは認めながらも、「個人・社会」「自由・規律」のように教育の理論を二項対立図式で捉えられることを批判している。ただし、二元論の克服はデューイと同じ立場であり、理解していなかったとも言える。また、ハグリーは知能検査を始めとするメンタル・テストの批判者でもあったのである。

ハグリーのエッセンシャリズムとは異なる立場で進歩主義を批判した人物として、ハッチンズがいる。ハッチンズは、すべての人々に共通の知的訓練である一般教育の重要性を強調した。その一般教育は「普遍的学問」から構成されるべきであるとしたもので、西洋世界の古典的名著とリベラル・アーツであった。実験・実証的方法による経験科学が著しい発展をみせ、社会の変化に効率的に適応する教育が求められ、職業教育が推進される当時、ハッチンズの主張は、主流化した進歩主義教育思想に真っ向から挑戦するものであった。

 

(参考文献)

赤星晋作(2017)『アメリカの学校教育』学文社

上野正道(2016)「デューイの教育思想」『教育思想史』慶應義塾大学出版会

カント(勝田守一・伊勢田耀子訳1971)『教育学講義他』明治図書

岸本智典(2016)「アメリカ『児童研究』から教育心理学へ」『教育思想史』慶應義塾大学出版会

教育思想史学会編(2000)『教育思想事典』勁草書房

高柳充利(2016)「アメリ啓蒙主義期の教育思想」『教育思想史』慶應義塾大学出版会

デューイ(宮原誠一訳1957)『学校と社会』岩波文庫

デューイ(松野安男訳1975)『民主主義と教育 上・下』岩波文庫

古屋惠太(2016)「進歩主義教育運動の思想」『教育思想史』慶應義塾大学出版会

前原誠一(1957)「解説」『学校と社会』岩波文庫

松浦良充(1993)「デューイ―成長そのものとしての教育」『近代の教育思想』放送大学教育振興会

松浦良充(2016)「進歩主義教育批判の諸相」『教育思想史』慶應義塾大学出版会

宮澤康人編(1993)『近代の教育思想』放送大学教育振興会

宮澤康人(1993)「教育思想の近代から現代へ」『近代の教育思想』放送大学教育振興会

村井実(1976a)『教育学入門』講談社学術文庫

村井実(1976b)『教育学入門』講談社学術文庫