岡本千万太郎の業績
2022年3月5日(土)
日本語教育史研究会(zoom開催)
口頭発表資料
岡本千万太郎の日本語教科書と日本語学
-その国語観と表記論-
國學院大学兼任講師
大東文化大学非常勤講師
岡田 誠
0.序
岡本千万太郎(旧姓「山内」・1902-1978)は、上田万年、保科孝一に2年ほど教えを受け、その後は橋本進吉の門下になり、卒業後、戦前は横須賀市立高等女学校(現神奈川県立横須賀高等学校)・横浜市立高等女学校(現横浜市立桜丘高等学校)・国際学友会・北京師範大学、戦後は信州師範学校・信州大学・法政大学・立正女子大学(現文教大学)で、それぞれ教鞭を執った人物である。従来の研究は、1943年4月の国際学友会日本語学校開校に至るまでの日本語教育体制の整備に中心的役割を果たした人物として扱われてきた(注1)。しかし、従来は国語学を学んだのち、国語教育の現場で実践したのち、日本語教育に従事した。そして、戦後は国語学・日本語学の教員として教壇に立った人物である。一般に日本語教育の分野では表記論が注目されているが、国語教育の分野での研究おいても、その表記論(特に表音式仮名遣い)が注目されている(注2)。しかし、戦後は論文をあまり書かず、著作も少ないため、その業績に関しては国語学・日本語学・国語教育・日本語教育の分野ではあまり評価されておらず、先行研究でも引用されることは稀である(注3)。しかし、戦後の著作にも表記論が展開されている。日本語学・国語教育・日本語教育の分野において一貫して、その日本語観には表記論が根底にあることを示し、ほとんど評価されていない戦後の岡本千万太郎の研究の意味を考察していく。
1.国際学友会編『日本語教科書』の特徴
岡本千万太郎が中心になってまとめたものとして、国際学友会編『日本語教科書』がある。河路(2006c)は、国際学友会編『日本語教科書』の内容的な特徴を、書き下ろしと小学国語読本のいずれかであることを示し、以下の5点にまとめて、該当箇所を示して考察している。
1.日本・日本文化を紹介するもの
2.日本語の文化や芸能を紹介するもの
3.留学の生活を描くもの
4.「国際教育」の理念が託されたもの
5.「大東亜戦争」を反映する文章の含まれるもの
巻3第14課「短歌」に石川啄木の短歌、巻4第1課「短歌」に正岡子規・長塚節・島木赤彦・若山牧水の短歌、巻5第3課に松尾芭蕉・与謝蕪村の俳諧、巻5第11課に万葉集抄を収録している。短歌の特徴として、『万葉集』の短歌と正岡子規の系統のものを収録している点と、近世の代表的な俳諧を収録しているという点があげられる(注4)。
河路(1996)の松村明へのインタビューによると、執筆の状況としては、巻1、巻2は松村明の執筆、巻3、4、5は武宮りえの執筆、基礎編と全体の統轄は岡本千万太郎が行ったとのことである。武宮りえは、横須賀高等女学校での岡本の同僚、松村明は岡本の後輩にあたり、久松潜一に紹介を依頼した人物である。久松潜一は、後に『和歌の批判的考察』に序を寄せている。
河路(1996)のインタビューでは、松村明が「専門が江戸ことばで、比較的新しいことをやっていたので、私が呼ばれたわけです」と述べている点をあげている。そこで、岡本千万太郎の卒業論文で扱っていたものに注目してみたい。岡本千万太郎の卒後論文を調べて見ると、戦後に信州師範学校・信州大学を経て、法政大学教授として赴任したときに法政大学国文学会編(1963)『日本文学誌要』に、教員ごとの「〈アンケート〉私の卒業論文」というコーナーに、卒業論文のテーマと思い出が掲載されており、そこに岡本千万太郎も以下のように寄稿している。
〈アンケート〉私の卒業論文 岡本千万太郎
1「狂言(記)の言語の研究」約200枚
2まず、狂言とは何か、またその本文(刊本、写本)の比較研究やらに手まどりかんじんの言語的(おもに文法的研究)研究が思うようにいかなくなって困りました。(一般の文法書をいろいろと読むのもたいへんでした。)
このように岡本千万太郎の卒業論文は「狂言」であり、松村明と同様に口語を扱っていたことがわかる。すでに卒業論文の段階で、狂言という室町時代言語の話しことばを調査していたことからも、口語に関心があったことがわかる。
河路(1996)は、岡本千万太郎の「基礎編」の特徴として、以下の3点をあげている。
①当時としては珍しい横書きである。
②当時一般に行われていた仮名遣いは用いず、表音式の片仮名で書かれている。
③品詞ごとに細かく分ち書きされている。
「基礎編」は、岡本千万太郎の単独執筆であることは、河路(1996)の松村明へのインタビューによって明らかにされており、岡本千万太郎の表音式の仮名遣い、基本文型の意識などが反映されている。当時としては珍しい横書きであるが、これは岡本千万太郎(1962)が「わたしは、『タテガキ、ヨコガキ、ともに左から』を長い間、主張し実行しているが、著書だけは、それを実行しかねた。」(p.2)と述べているが、公刊されたものの中では、左横書きが唯一実行できたものと考えることができる(注5)。
「基礎編」には、「オンイン ト カナ ト ノ タイショオヒョオ」が掲載され、母音類として「母音」「二重母音」「撥音」「促音」、子音として「無声」「有声」「鼻音」「軟口蓋」「口蓋」「歯茎」「喉」「唇」「半母音」「歯茎」「半母音」「外国音」に分けて記載されており、音声面にも配慮していることがわかる。新内(1993)では、音声学の服部四郎と大西雅雄の影響があったとする。それに対して、河路(1996・2006)は、松村明と金田一春彦へのインタビュー調査から、音声学の服部四郎・大西雅雄の影響はないとする。一方、関(1997)では服部四郎・大西雅雄の影響の可能性も示唆しているが、河路(1996)のインタビューから、直接的には服部四郎・大西雅雄の影響のないことを支持している。
岡本千万太郎の最初の著作である『国語観』には「また音声学に熱心であった時代もありました」(まへがき)とあり、同じ橋本門下の音声学で著名な服部四郎の論文等を読まないとは考えにくい。さらには、入学当初、講義を受けていた上田万年と交流があり、著作の序文にも上田万年の名前をあげている現代日本語の音声と文法とを対象にした佐久間鼎の間接的な影響の下、岡本千万太郎がわかりやすく咀嚼して記述したものと考えることもできそうである(注6)。さらに注目したいのは、橋本進吉門下であるという点である。岡本千万太郎の日本語教育に関連する論文集である『日本語教育と日本語問題』を見ると、音声にもしばしば触れている(pp.78-80,pp.262-264)。その音声の単位としては音節を重視した文節にしばしば触れている。むしろ、音声に間接的に影響を与えたのは、「上代特殊仮名遣」や『日葡辞書』などの音韻を研究した橋本進吉の影響のほうが強いのではないだろうか。
また、基本文型は、「・・ワ・・」「・・ガ・・」では、原則「・・ワ・・」で示しているが、「疑問代名詞+ガ・・」で「ガ」の場合を示している。活用表の型としては、「ア、イ、ウ、エ、オ活用」「イ、イル、イレ活用」「エ、エル、エレ活用」を示しており、五(四)段活用・上一(二)段活用、下一(二)段活用の名称を使用していない特徴がある(注7)。
国際学友会編『日本語教科書』の分かち書きに注目してみると、「基礎編」と「巻1」は、「エイガ オ ミ サセル.」「天 へ かへら れ ます。」のように、品詞ごとの「単語分ち書き」を採用しており、連続させている。それに対して、「巻2」と「巻3」は、動詞の語尾として用言に付着させており、松村明の工夫が感じられる。具体的に示すと、「る・らる(れる・られる)」「す・さす(せる・させる)」「たい」「べし」「た」「う」「よう」「ます」「ん」「ない」の学校文法で助動詞と示されているものである。また、サ変動詞は、複合させない方針で示されている。そして、巻4と巻5では、分かち書きは行われていない。学習の進捗状況に配慮してあると考えられる。真下(1941)によると、品詞ごとの分ち書きを出発点にしているのは、珍しいもののようである。当時の日本語教科書の主流は、文節分かち書きや、助詞は独立させるが助動詞は動詞に付着させる分かち書きであったようである。巻2以降は、標準的な分かち書きにしたと言える。品詞・単語の意識を徹底させることを出発点とするところに特徴があると言える。
表記に関しては、旧かな、旧漢字で示されているが、カタカナ書きの部分は発音通りの表記、漢字の字音はカタカナで発音通り示している。巻4までは拗音の「つ」「や」「ゆ」を小さく表記しているが、巻5からは、拗音の「つ」「や」「ゆ」は、大きく書かれている。当時行われていた表記の学習の段階に合わせたものであることがわかる。
それぞれの巻末の補足を見ると、以下の事柄が掲載されている。
巻1 五十音図・ローマ字(日本式)・ローマ字(英語式)漢字表
巻2 かなづかひと発音 漢字表
巻3 口語動詞・口語形容詞・口語形容動詞・口語助動詞活用表 漢字表
巻4 文語動詞・文語形容詞・文語形容動詞・文語助動詞活用表 漢字表
巻5 助動詞相互の接続表 漢字表
助動詞相互の接続表および形容動詞の立項は、指導教授の橋本進吉の文法論の影響を感じることができる。『国語観』には「いつもをしへていただゐている橋本進吉先生」(p.5)と記されている。
2.『国語観』の特徴
岡本千万太郎(1939)『国語観』は、女学校の教員を辞めて国際学友会に異動する頃の著作である。金子(2010)は、戦前の岡本千万太郎の活動を以下のように区分している。
(1)高等女学校 国語教師・前期(1928年-1936年10月)
(2)高等女学校 国語教師・後期(1936年11月-1939年4月)
(3)国際学友会 日本語教師(1939年4月-1943年夏ごろ)
「まへがき」「あとがき」には、上田万年、保科孝一、橋本進吉の名前が見える(注8)。それまでの論文と書き下ろしから構成されている。「第四章 国語愛の本質と方法」だけは、旧漢字・現代仮名遣いで書かれており、「カナヅカイは調査会の表音式にしてある」(p.108)と記されていことから、金子(2010)は、岡本千万太郎が現代仮名遣いで書いた最初の例であるとしている。内容は、以下の通りである。
第一章 学問の目的・対象・方法
第二章 国語学と国語問題
第三章 国語観の歴史的概観と本質・・(1936)「国語観-その歴史的概観と本質-」『藤村博士功績記念会編 国文学と日本精神』
第四章 国語愛の本質と方法・・(1937)「国語の愛護」国語協会懸賞論文
第五章 国語・国字の諸問題
第六章 カナヅカヒの歴史と批判
第七章(1932)「新聞・雑誌及び各種学校における仮名遣いの調査」『国語と国文学』94号
第八章 国語・国字問題と短歌・・(1938)「国語・国字問題と短歌」『日本短歌』1
号
「第一章」では、学問観について「学問における無自覚や高踏性を克服して、文化科学においては、真に歴史的・地理的・社会的に人間について研究し、もつとよい生活のために、学問が奉仕する態度である」と記している(p.16)。「第六章 カナヅカヒの歴史と批判」、「第七章 新聞・雑誌及び各種学校における仮名遣いの調査」は、すでに女学校勤務時代から調査しており、歴史的仮名遣いに批判的だったことがわかる。「第八章 国語・国字問題と短歌」は、戦後、手掛けていた俳句・和歌の日本語学的研究につながるものである。このように考えると、『国語観』はすでに岡本千万太郎の研究の方向性が示されている著作と推測できそうである。小原(1998)は、『国語観』(p.158)の記述をもとに、高等女学校の教壇で苦労を重ねた結果、「歴史的仮名遣い」に反感を抱いたとしている。
私など国語の授業には、あらゆる機会に、自分でもいやになるほど、カナヅカヒを注意させるのであるが、優秀な者はとにかく、普通の生徒は注意を怠るし、覚えてくれない。これにはほとほと手をやゐている。作文などをなほしながら、涙がでさうになる。しかもカナヅカヒのやうな、もともと大したことでもないことに、これほどお互いに骨を折らなければならないかと思ふと、情けなさを通りこして、腹が立ってくる。
岡本千万太郎の表音式仮名遣いを中心とする表記論は、このように国語教育の現場の頃に生まれたものであることがわかる。「学問の諸傾向について、思ひを致した結果、学問殊に文化科学の目的・対象・方法を規定する最も根本的なものは、その学者の抱く世界観ないし人間観であることに気づきだした。そこで世界観といふものが、問題になつてきた。そして正しい世界観をうちたてるには、哲学を基礎としなければならないと思ふやふになつた」(p.28)や「顧れば、日頃私の私淑する本居宣長先生、山田孝雄先生を始め、その他の先生方に対して、不遜の言を玩んだ私の真意は、『玉かつま』の如く、『師の説になづまざる』ためで、『かへりては師をたふとむにもあるべくや』と、ひそかに慰めてゐる次第である。」(p.84)の記述が見られ、哲学的視点で見つめることや、学問の進歩のための真理の探究のための批判であることがわかる。
『国語観』の後、岡本千万太郎が代表となり、『現代日本語の研究』(1944)が刊行され、現代日本語を扱った論文集ということもあり、当時、注目されたようである。この論文集には、岡本千万太郎も「日本語の理想と日本語学の体系」を寄稿しており、『国語観』では「国語」「国語学」「国語史」「国語学史」と記していたが、この論文以降の著作では、「日本語」「日本語学」「日本語史」「日本語学史」と記載するようになった。以下の岡本(1944)の記述から、国語学と日本語学とを分ける意識がある。これは、日本語教育に従事した影響が考えられる。
日本語を研究する学問を日本語学と言う。そして、日本語を見る目としての日本語学、日本語の新体制のための新しい日本語学の建設こそ、現代日本の要求するもののひとつであり、わたくしの志す所である。・・〈中略〉・・/さて、こえまでの国語学はむしろ、ふりかえり・とじこもるためのものであつた。生産的でなく、建設的でなかつた。国学の系統を引いた国文学的国語学は、おもに古典を読むためのもの、ことに古典文学を解釈するためのものであつた。しかし国語は、国文学、ことにその古典文学のためにだけ、存在するものではなくて、国語と国文学との関係は、国語の持つ関係の一部分にすぎない。(p.12-13)
3.『日本語教育と日本語問題』の特徴
岡本千万太郎(1942a)『日本語教育と日本語問題』は、すべて国際学友会に勤務していたころの既発表の論文である。末尾の2本の論文以外は、国語教育・日本語教育の論文を収録し、旧漢字・表音的現代仮名遣いで書かれている。初出は、以下の通りである(注9)。
日本語の海外発展・・(1939)「日本語の海外発展」『国語教育』12号
大陸経営上の言語政策の精神と技術(1940)「大陸経営上の言語政策の精神と技術」『コトバ』1号
留学生の国語教育・・(1942)「留学生の国語教育」『国語文化講座』第6巻
日本語教育・・(1939)「日本語教室」『国語教室』10号
国語教育と日本語教育・・(1939)「国語教育と日本語教育」『国語教育誌』12号
基礎文型の研究・・(1940)「基礎文型の研究」『国語教育』2-5号
自国語の文法教育と外国語の文法教育・・(1942)「自国語の文法教育と外国語の文法教育」3号
国語教育と科学的精神・・(1940)「国語教育と科学的精神」『国語教育誌』3号
日本語教育と日本文化・・(1942)「日本語教育と日本文化」3号
現代日本語の特質-日本語の二重性-・・(1939)「現代日本語の特質-日本語の二重性-」『国文学 解釈と鑑賞』7号特集号
国語問題の現段階-特にカナヅカイについて-(1941)「国語問題の現段階」『国語教育』3号
日本の言語と学問・・(1940)「日本の言語と学問」『コトバ』7-8号
日本の言語と文学・・(1941)「日本の言語と文学」『国語教育誌』4号
コトバの単位の研究-品詞分類論の序説-(1935)「コトバの単位の研究-品詞分類論の序説-」『湘南国語研究会誌』8輯6号
国文法教授法の研究・・(1936)「国文法教授法の研究」『国語と国文学』10号特集号
この論文集には、「基礎編」の背景となる日本語教育の論文が多数収録されており、共通して表音的仮名遣いの必要性、音声を中心にした会話の重要性、字音語以外の漢字制限を繰り返し主張している。
「日本語の海外発展」では、「字音語以外の漢字制限」「表音的仮名遣い」(pp.25-26)、「直接法による日本語教授者養成の必要性」(pp.29-31)、最初から小学校の読本を使用するではなく、直接法に適した専用の日本語教科書の必要性(p.33)を述べ、松宮弥平とイェスペルセンの著作を参考文献としてあげている。「留学生の国語教育」には、発音・会話・基本文型・簡単な文法、カタカナ発音から始める基礎編と、巻1から5までの日本語教科書の編集方針をあげ、最短で毎日2時間ずつ1年間で修了することを示し、漢字に関しては読解には1000字、カナモジカイの漢字五百字制限案に従って、書くためには500字必要であることを述べている(pp.50-52)。「日本語教室」には、日本語の標準的音韻から始め、「〇〇ハ○○デス」から始める問答形式による会話の基本文型が修了するまでに30時間以上費やすことを述べている。「基礎文型の研究」では、音声・音韻の重要性を述べ、基礎編に示された「オンイン トカナ ノ タイショオ ヒョオ」を掲載し(pp.77-79)、一語文、準一語文、助動詞接続表、格と文型、係助詞・副助詞、複文を扱っている(pp.89-132)。格と係助詞・副助詞については、後に岡本(1944)が細かく分類して発展させているため、その萌芽とみることもできそうである。
話しことばへの関心は、「日本の言語と学問」に心学の会話体を庶民強化の方法として評価しており(pp.190-191)、「コトバの単位の研究」においても、イェスペルセンの文章を引用しながら人間の言語活動としての話し手と聞き手に言及している(p.212)。
「国文法教授の研究」は、2年ほどの女学校で国文法の授業を行った際の方法を示したものである。この中で、橋本進吉の文節文法が授業をしやすく、山田孝雄の文法は本質をついてはいるが生徒には難しいとして助詞の説明以外は採用せず、松下大三郎の文法も紹介はしているが難解としている。時枝文法には特に言及していない。形容動詞の扱いは、難しいとしながらも立項しており、国文法を授業で扱うときは、橋本文法を基本にしていたことがわかる。岡本(1944)にも、自らの考える体系は橋本進吉の体系と似ていることを記している(p.28)。
4.『日本語の批判的考察』の特徴
『日本語の批判的考察』は、戦後、信州師範学校・信州大学教育学部教授の頃に執筆されたものであり、「まえがき」には左縦書きで書きたかったこと、革新のための日本語学概論としていることが記されている(注10)。「言語活動の特質」として、「形象性」「分析・総合性」「概念性」「情意性」の4つを示し、「批判の六基準」として、「伝統性・論理性・倫理性・能率性・芸術性・創造性」の6つに分けている点が特徴的であり、『国語観』で、「学問の諸傾向について、思ひを致した結果、学問殊に文化科学の目的・対象・方法を規定する最も根本的なものは、その学者の抱く世界観ないし人間観であることに気づきだした。そこで世界観といふものが、問題になつてきた。そして正しい世界観をうちたてるには、哲学を基礎としなければならないと思ふやふになつた」(p.28)と記していた実践とみることもできる。章立ては以下の通りである。
序論
第一章 言語活動の特質
第二章 考察の方法
第三章 批判の六基準
本論
第四章 音韻の考察
第五章 単語の考察
第六章 文法の考察
第七章 表記法の考察
第八章 談話と文章との種々相
付録 まぎれるおそれのある同音の字音語
分量としては「七章 表記法の考察」、次が「第五章 単語の考察」である。特に表記には力を入れており、表音的仮名遣いを理想としているため、「は」「へ」を「わ」「え」、「格子」は「こうし」ではなく「こおし」、「つづく」ではなく「つずく」などにする、さらに徹底した「現代仮名遣い」の改定案(p.150)、「左縦書きの長所」(pp.162-163)についても述べている。石坂(1954)・永野(1954)・金田一(1955)の書評があり、それぞれ国語学者(日本語学者)である。石坂(1954)の書評は思い出が中心であり、永野(1954)は以下の岡本の学問観に注目した上で、章ごとに扱っている。
言語の研究のような、人文を研究する学問においては、事実を明らかにすると共に、必要に応じて、それらの事実の持つ価値を明らかにしなければならない。価値とは、事実と人間との関係だ。事実と、事実の価値とを明らかにすることによって、学問を人生に役立てることができる。人文科学において価値批判の必要なことは、すでに「国語観」(一九三九年刊)において、くわしく述べたから、ここでは省くが、今のように日本語とその表記法とが、急に、はげしく変わって行く時代には、その批判は特にたいせつだ(p.46)。
ここでも、表記に注目している点は、変わらない姿勢である。金田一(1955)の書評は、主に「第三章 批判の六基準」に関するものである。既発表論文との関係性は示されていないが、この「批判の六基準」は岡本(1949)で示されており、この基準ですでに岡本(1947)でカナモジ論を批判している。また、「第一章 言語活動の特質」は、岡本(1953)で示されている。そのため、『日本語の批判的考察』は、岡本(1949・1953)との関連性が強い著作と言える。
金田一(1955)の書評は、戦前の岡本千万太郎が橋本門下の中でも異端児であることを示し、石坂(1954)の書評には、仮名遣いをめぐって、国語学会での懇談会での岡本千万太郎の時枝誠記に対しての激しい発言の思い出を述べている。金田一(1955)は、革新的な感じであったのに、戦後の『日本語の批判的考察』は新鮮さがないことを述べている。戦後の岡本千万太郎は、専門の国語学で大学の教員になると同時に、あまり勉強を熱心にやらずに、のんびりするようになった点を河路(2006a)のインタビューで松村明や金田一春彦が指摘している。
5.『現代俳句の批判的考察』の特徴
『現代俳句の批判的考察』は、法政大学教授の頃に執筆されたものである(注11)。そのまえがきで、岡本(1959)「俳句のコトバ」をさらに具体化させたものであることが示されている。章立ては以下の通りである。
第一章 俳句の韻律
第二章 季語と季との考察
第三章 俳句のコトバヅカイ
第四章 口語または自由律の俳句の批判的考察
第五章 俳句の内容と表現法
第六章 俳句の表記法
分量的には、「第二章 季語と季との考察」がもっとも多く、次が「第三章 俳句のコトバヅカイ」である。「第三章 俳句のコトバヅカイ」では、「切れ字」に多くの頁を割いている。日本語学者の書いた古典、特に芭蕉を中心として考察した研究者としては、山田孝雄『俳諧文法論』が知られており、引用もしているが、松下大三郎の数少ない門下の浅野信がおり、浅野信『音韻上より見たる俳諧文法論』『切れ字の研究(研究篇)』などの大著があるのだが、岡本千万太郎は特に引用していない。「まえがき」において、岡本(1959)の内容を具体化したものであることがわかる。
「第一章 俳句の韻律」では、土居光知『文学序説』『日本語の姿』(p.23)、九鬼周造「日本詩の押韻」(p.23,p.36)を引用している。語法面では、山田孝雄『俳諧文法論』、時枝誠記『日本文法 文語編』、細江逸記『動詞時制の研究』『動詞叙法の研究』(p.139,p.142,p.165,p.180)、内容面では、山本健吉、井本農一、高羽四郎(p.128,p.149,p.153,p.178)のものをそれぞれ引用している。
近代は俳句が専門である伊沢(1963)の書評では、山田孝雄の『俳諧文法論』が古典を対象としたものに対して、現代俳句を扱った点に特色があり、実作経験に基づいた内容面と語法・表記について評価し、それぞれの句に関しての解釈への疑義を述べる形で書評が行われている。このように現代俳句の言語・表記的考察として受け止められたようである。
日本語学の分野では、山田孝雄が古典俳諧を語法的に扱ったものとして『日本語大事典』(大修館書店)などには掲載されているのに対して、岡本千万太郎は現代俳句を扱ったところに新鮮さがあるのだが、その人名も書名も掲載されていない。のちに、久松潜一が『和歌の批判的考察』の序文で「さきに『現代俳句の批判的考察』を発表し、好著として世に迎えられた」と述べていることを考えると、国文学の分野で知られていた可能性がある。山田孝雄や浅野信の場合、文法体系にそれぞれ、芭蕉を中心に鬼貫、蕪村などの近世俳諧の実例を整理して配置する構成のため、文学的な解釈の要素を感じないが、岡本千万太郎の場合、明治以降の俳句を扱い、それぞれの解釈も行っている点も大きな特色であるといえる。
6.『和歌の批判的考察』の特徴
『和歌の批判的考察』は、著者紹介は示されていないが、金子(2010)の作成した年譜から推測すると、立正女子大学(現文京大学)在職中に執筆されたもので、管見に入る中で、岡本千万太郎の最後の著作である(注12)。この著作は『現代俳句の批判的考察』の方法を和歌に応用した姉妹編と考えられ、対象としているものは主に現代短歌である(注13)。さらには、岡本(1959)「短歌のコトバ」を具体化したものと推測できる。『現代俳句の批判的考察』と同様に、表記や語法に注目している。章立ては以下の通りである。
第一章 短歌の韻律
第二章 短歌のコトバヅカイ
第三章 短歌の内容と表現
第四章 文字の使い方
持論である表記については、「第四章 文字の使い方」で触れているが、「字余り」を「音あまり」と呼び(pp.3-4)、土居光知の説に従い、二音・一拍説(pp.8-9)を採用している。また、語法面では、山田孝雄(pp.71-73)、大塚悦三(p.72)、大野晋(p.63)、細江逸記(p.79)の説を引用している。分量的に一番多いのが、「第二章 短歌のコトバヅカイ」、次が「第三章 短歌の内容と表現」である。「第三章 短歌の内容と表現」には、文学的考察も見られる。実作の主張として、「口語俳句や口語短歌を考察することに努力している。/というのも、わたしの主張は、現代人は、現代の生活に密着している口語でなければ、ほんとうに切実な歌や俳句を作ることができないと信じているからだ」(p.133)と述べているのは、話しことばへの関心の高さが感じられる。
久松潜一の「序」がついており、「さきに『現代俳句の批判的考察』を発表し、好著として世に迎えられた」と述べられている。これは河路(2006a)の中で日本語学者・日本語教育学者の間では、その存在すら指摘されていないものである。短歌・俳句は、語学と文学にまたがる分野と言えるが、日本文学の分野の方面では、言語・表現法の面から考察する研究者として、知られていたのではないだろうか。その意味で、国文科で国語学を専攻しながら国文学も学び(注14)、短歌・俳句の実作をしながら思索を重ね、国語教育・日本語教育を経て、戦後になって日本語学を講じながら和歌・俳句を思索しつづけたライフワークと見ることができるのではなかろうか。
『和歌の批判的考察』が最後の著作となったようであるが、岡本(1959)で述べている内容を考えると、短歌・俳句は実現できたので、あとは「詩のコトバ」の執筆を予定していた可能性がある。
このように戦後の岡本千万太郎の活動は、それぞれの著作に如実に示されていると考えられる。
8.結び
岡本千万太郎の戦前の『日本語教科書』の「基礎編」・『国語観』・『日本語教育と日本語問題』を見ると、「表音的仮名遣い」「字音以外の漢字制限」の主張が強く語られる。表記に関しては、最後まで左縦書き・左横書きにこだわったが、私信を除いては、公刊されたものとしては、左横書きが実現できたのは「基礎編」だけである。「基礎編」の背景にある日本語教育と国語教育と国文法教育は、『国語観』・『日本語教育と日本語問題』を合わせ読み、その他の資料などと照合することで、その意図が見えてくる。特に、話しことばや音声への関心は、すでに卒業論文で狂言を扱っていた頃からで関心である。また、表音式仮名遣いは女学校の教員の頃からのテーマである。そのため、日本語教育でも話し言葉と、その根底となる音声教育に力を入れていた点、基本文型、文節・形容動詞・助動詞相互承接続の立項などの橋本文法の重視、心学を評価という流れが推測できる。
それに対して、戦後の『日本語の批判的考察』・『現代俳句の批判的考察』・『和歌の批判的考察』は、ある程度、現代仮名遣いの普及によって、現代仮名遣いの改定案として表音式仮名遣いを述べており、漢字制限も主張しているが、戦後の現代仮名遣い・漢字制限の時代性もあって、穏やかな記述になっている。戦後の著作は、哲学的思索に基づいた『日本語の批判的考察』、晩年の現代俳句・現代短歌を扱った『現代俳句の批判的考察』・『和歌の批判的考察』がライフワークと言えそうである。
信州師範学校に赴任して以降は、音楽を聴いたり、短歌・俳句の実作を行っていたりしているようであったため、その生活の変化の大きさも推測される。また、歴史的仮名遣いの面で対立した山田孝雄・時枝誠記の説も和歌と現代俳句では引用している。岡本(1959)の続編の要素であることを考えると、『詩の批判的考察』も執筆準備をしていた可能性がある。
岡本千万太郎の日本語学・国語教育・日本語教育に共通しているのは、話しことばの重視と、そのための文法、表音式仮名遣い、字音語以外の漢字制限、哲学的思索、俳句・短歌の考察と言えるのではなかろうか。まとめとして。金子(2010)の示した戦前の岡本千万太郎の活動に戦後の活動を新たに加え、著作を軸に以下のように整理し直しておく。
(戦前)
横須賀市立高等女学校 国語教師・前期
横浜市立高等女学校 国語教師・後期・・『国語観』
国際学友会 日本語教師・・「基礎編」『日本語教科書』・『日本語教育と日本語問題』
(戦前)
信州師範学校・信州大学 日本語学教授 前期・・『日本語の批判的考察』
法政大学 日本語学教授 中期・・『俳句の批判的考察』
立正女子大学 日本語学教授 後期・・『和歌の批判的考察』
(注)
1
金子(2010:p.26)、河路(2011:p.190)参照。金子(2010:p.26)作成の年譜によると、国際学友会の日本語主任教授の頃、法政大学と実践女子専門学校(現実践女子大学)で嘱託教員を務めていたようである。
2
小原(1998:p.46)参照。『国語と国文学』の初期の頃の国語学・言語学の翻訳本の新刊紹介の記事を岡本千万太郎が執筆しているものが散見される。
3
河路(2006a:p.324,p.356)
4
巻3から5は武宮りえの執筆であるが、全体の統括を行った岡本千万太郎には、戦後、『俳句の批判的考察』『和歌の批判的考察』があるため、何らかの打ち合わせがあった可能性も考えられる。
5
河路(2006a)のインタビュー調査によると、私信ではハガキなど左縦書きで書いていたようである。言語学の立場から小屋(2018)は、日本語の左縦書きの有効性を述べている。
6
大西(1928)、佐久間(1929)、服部(1951)の音声学の著述の表と基礎編との関連は見出しがたいが、佐久間(1929)の「はしがき」(p.6)に謝辞として、上田万年、松本亦太郎、藤岡勝二、大槻快尊、増田惟茂、安藤正次、神保格、東條操、ポリワーノフ、岩原拓の名前が上がっているため、岡本千万太郎が当初講義を受けていた上田万年とその人脈との関連が推測される。
7
この用語は、戦後、国語教育で佐伯梅友が国語教科書、小西甚一が学習参考書で採用していた用語でもある。
8
『国語観』の「まへがき」は、以下のように「歴史的仮名遣い」「旧漢字」で書かれており、これ以後の著作は、「現代仮名遣い」で書くようになる。
まへがき
高等学校時代から国語・国字問題を気にかけていたわたしは、この問題を学問的に解決するミチをもとめて、東京帝大の国文学科にいり、国語学を中心にいろいろ勉強しました。
そのころは上田万年先生と保科孝一先生とが国語学の講義をしていられ、おふたりとも国語・国字問題には御熱心なかたでしたが、大学の講義ではこの問題をとくにとりあつかわれることも、ありませんでした。二年のちにはおふたりともおよしになって、橋本進吉先生がかはられました。そしてわたしも大学三年間はつひにこの問題について、直接にはあまり熱心に研究せず、ひたすらいはゆる科学的に国語を研究する準備をするとともに、国文学や一般の教養にもチカラをそそぎました。
卒業前後からおもに国文法の理論的研究に夢中になり、そののち教師生活や大学院生活を通じて、イマにいたるまで、それをつづけています。また音声学に熱心であった時代もありました。こんなわけで、国語のいはゆる科学的研究におはれているうちにうちにも、国語・国字問題は常に気にかけていましたが、とくにそれを研究するひまはありませんでした。・・
あとがき
わたしはこのたび前後七年にわたる女学校の教師をよして、国際学友会において、外国人に日本語ををしへ、又日本語教科書などの編纂にたづさはるみとなりました。むづかしいといはれる日本語、日本人でもてこずる日本の文字を外国人がどうおもひ、どうあつかうかも、うすうすは、しつていましたが、これからはいやでも応でも毎日経験させられることでせう。・・
9
『日本語教育と日本語問題』は「現代仮名遣い」「旧漢字」で書かれている。「まえがき」に以下のように記されている。
まえがき
わたくしは、およそ三年前から、おもに大東亜共栄圏の留学生に、日本語を教え、かたわらその教科書を編纂してきましたので、日本語とその教育について、多少の研究と経験とを積みました。そして日本語を外国人に教えることによつて、さらに日本語を反省する機会をも与えられました。/この論文集は、わたくしがこの三年間に日本語の教育と日本語の問題とについて書いたもののほかに、それらよりは少し前に発表したもので、前著「国語観」には収めなかった「コトバの単位の研究」と「国文法教授法の研究」とを収めました。カナヅカイは発表した時のままにしてあります。・・
10
『日本語の批判的考察』は、現代仮名遣い・新漢字で書かれている。「まえがき」には、以下のように記されている。
まえがき
かえりみると、わたしが一九三九年に「国語観」を、一九四二年に「日本語教育と日本語問題」を出してからはや十数年になる。その間に大戦争があり、敗戦の後、日本語、特に文章と表記法が、わたしたちの熱望した方向に大きな変革をとげた。わたしが、おもに終戦後、今までかかってまとめあげた、日本語、特に国語・国字問題の理論的・体系的な研究で、国語問題の学として、一応の理論と体系とを得たと信ずる。ある意味では、これを革新のための日本語学概論と言うこともできよう。・・〈中略〉・・/この本のカナヅカイは、もちろん現代カナヅカイにより、当用漢字やその音訓制限も、特別の事情がないかぎり、厳重に守ったつもりだ。文体についても苦心し、なるべく口語に近づけるため、デアル体をよしてダ体とした。/著者としては、この本を、その理論に従って、左からのタテガキとすることを熱心に希望し、それができなければ、左ヨコガキとしたかったが、出版社のツゴウにより(と言うより、むしろ出版社が読者の意向を考えて)、右タテガキとなったのは残念だ。・・
11
『現代俳句の批判的考察』の「まえがき」には以下のように記されている。
まえがき
・・わたしなどが、長い間、主張し実行してきた国語・国字の改善が、長い間、主張し実行してきた国語・国字の改善が、終戦後、当用漢字とその新字体・音訓制限や、現代カナヅカイなどが制定され、普通には実行されている。文章も、みな口語体になったのに、短歌と俳句(時には現代詩にも)だけが、文語体を主とするのは、どういうわけかが、わたしには、まず大きな課題となり、・・〈中略〉・・/この考察は、明治以降、特に、近頃の俳句を、特に言語・表記の面から、詳しく分析的に考察したが、いきおい、わたしの専門外の文芸的な考察・批評にも、足を入れることになり、俳句で問題となる点を、みな考察しなければならなくなり、俳句の批判的概論のようなものになった。俳句は、そのコトバや表記法が、とっとも微妙だから、結果的には、新しい試みとして、おもしろいものになったと思う。・・<中略>・・/自体は、なるべく新字体にしてある。/ワキ線を字の右側に付けるか、左側に付けるかは、事情があって、統一できなかった。/わたしは、「タテガキ、ヨコガキ、ともに左から」を長い間、主張し実行しているが、著書だけは、それを実行しかねた。・・
12
『和歌の批判的考察』の「序」は久松潜一が書いており、「まえがき」には以下のように書かれている。
まえがき
わたくしは、一生を国語問題の解決にささげようと決心しているのですが、その面から「現代俳句の批判的考察」を出したので、こんどは、「和歌の批判的考察」を出すことにしたのです。幸いに久松潜一先生の序文をいただき、まことに光栄のいたりです。/この本は、単に和歌の歴史を研究するのではなく、和歌におけるいろいろの問題を、言語・表現法の面から考察したものです。
13
pp.117-120では古典和歌について触れている。
14
国語学者・日本語学者の中にも、森重敏、佐々木隆、間宮厚司、小田勝など体系的に語学的に和歌を扱う研究者もいるが、どれも古典を対象としたものである。
(参考文献)
浅野信・松下大三郎補訂(1932)『音韻上より見たる俳諧文法論』中文館書店.
浅野信(1962)『切字の研究』桜楓社.
浅野信(1963)『切字の研究(資料編)』桜楓社.
伊沢元美(1963)「岡本千万太郎氏著『現代俳句の批判的考察-特に言語・表記法の面から-』」『日本文学』第12巻2号,pp.182-184.
石坂正蔵(1954)「岡本千万太郎氏の『日本語の批判的考察』を読む」『日本文学』3巻7号,pp.58-60.
大西雅雄(1928)『師範学校用 国語音声教科書』文学社,
岡本(山内)千万太郎(1929)「サンソム氏の日本歴史文典について」『国語と国文学』第8巻8号,pp.93-97.
岡本千万太郎(1938)「国語・国字問題と短歌」『ふりがな廃止論とその批判』白水社,pp.397-399.
岡本千万太郎(1939)『国語観-新日本語の建設-』白水社.
岡本千万太郎(1942a)『日本語教育と日本語問題』白水社.
岡本千万太郎(1942b)「日本語の理想と日本語学の体系」『現代日本語の研究』白水社.
岡本千万太郎(1944)「係助詞・副助詞と格」『橋本博士還暦記念国語学論集』岩波書店,pp.587-616.
岡本千万太郎(1947)「カナモジ論の批判」『国語と国文学』1月号,pp.19-34.
岡本千万太郎(1949)「日本語批判の六基準」『コトバ』2月号,pp.1-10.
岡本千万太郎(1953)「言語活動の特質」『金田一博士古稀記念言語・民俗論叢』三省堂,pp.3-25.
岡本千万太郎(1954)『日本語の批判的考察』白水社.
岡本千万太郎(1955)「造語力を活かすには」『ことばの研究室 第5(あすの日本語)』大日本雄弁会講談社,pp.158-166.
岡本千万太郎(1959)「詩歌のコトバ」『講座 日本語 第5巻 ことばと文学』大月書店,pp.65-80.
岡本千万太郎(1960)「国語・国字問題の本質と政策」『日本文学』9巻1号,pp.59-63.
岡本千万太郎・重友毅・西尾実・表章・秋山虔・阪下圭八・小田切秀雄・田中喜一・猪野謙二・木藤才蔵・白石大二・西田勝(1963)「〈アンケート〉私の卒業論文」『日本文学誌要』9巻,pp.24-26.
岡本千万太郎(1962)『現代俳句の批判的考察-特に言語・表記法の面から-』法政大学出版.
岡本千万太郎(1971)『和歌の批判的考察』初音書房.
小原俊(1998)「『現代かなづかい』成立前後と岡本千万太郎」『21世紀をひらく国語の教育』愛育社,pp.41-53.
金子幸子(2010)「戦前・戦中における岡本千万太郎の仮名遣い観と留学生への表記指導」『目白大学高等教育研究』第16号,pp.25-pp.33.
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河路由佳(2003)「国際学友会の設立と在日タイ人留学生-1932-1945の日タイ関係とその日本における留学生教育への反映-」『一橋論叢』129巻3号,pp.301-313.
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河路由佳編(2006b)『国際学友会「日本語教科書」全7冊 1940-1943』港の人.
河路由佳(2006c)「解説」『国際学友会「日本語教科書」全7冊 1940-1943』港の人,pp.7-47.
河路由佳(2011)『日本語教育と戦争-「国際文化事業」の構想と変容-』新曜社,pp.190-255.
金田一春彦(1955)「岡本千万太郎氏著『日本語の批判的考察』」『国語と国文学』9月号,pp.53-59.
小屋逸樹(2018)「左縦書きと日本語の表記」『慶応義塾大学法学研究会 教育論叢』第139号,pp.171-179.
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関正昭・平高史也(1997)『日本語教育史』アルク,pp.104-105.
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新内康子(1993)「日本語教科書の系譜(第二期)-国内機関発行編-」『鹿児島女子大学研究紀要』第15巻1号,pp.23-46.
永野賢(1954)「岡本千万太郎氏著『日本語の批判的考察』」『国語学』第19輯,pp.106-109.
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