長沼直兄・西洋人の受身記述
2013.7.20(土)
発表資料
長沼直兄の日本語教科書における受身文について
國學院大學大学院生 岡田 誠
はじめに
本稿では、近代・現代の日本語教育に偉大な業績を残した長沼直兄の受身記述及び、長沼直兄編纂による日本語教科書における受身文の扱い方に焦点を当てて、考察することとする。丸山敬介(1997)、河路由佳(2010)の指摘にもあるように、長沼直兄の中心となる考え方を示している、NAGANUMA(1945)『FIRST LESSONS IN NIPPONGO』開拓社(以下、略称『FLN』)、及び長沼直兄(1931-1934)『標準日本語読本』財団法人言語文化研究所をテキストとして用いることとする(注1)。
1.長沼直兄の日本語教科書受身記述
長沼直兄(1945)『FLN』は、英語による日本語の入門書である。そこでは、41課で次のように英語と日本語との受身表現の違いに言及し、「れる」「られる」の形式で受身動詞になり、日本語の場合には、英語と異なり、受動的事柄に限定して受動表現が使用され、ほとんどの受身表現には対応する能動表現があることを述べている。
The Japanese passive is very different from the English passive voice. In English the passive voice is used profusely, not because it is absolutely necessary, but because it is convenient to avoid mentioning a subject. It is merely used as a grammatical means. Such construction as “People say that …”or“They say that…”are clumsy, so that“It is said that…”is used to avoid them.
The Japanese passive is different. It is used only when a passive construction is necessary.
In the case of “yodan”verbs the passive voice is formed by adding reru(which has its own inflections) to the negative base(which ends in a)
・・(中略)・・
In Japanese comparatively small number of verbs are used in passive constructions since most sentences may be expressed by the active voice.
また、主語が人間ではない「非情の受身」と動作主が非情物の場合についても、次のように述べており、日本語本来のものではない表現で、めったに使われないものであることを述べ、迷惑・被害の受身には言及せず、「雨に降られる」は擬人法・慣用表現としている。
An important thing to remember concerning the passive is that the subject of a passive sentence is usually a living thing such as a person, an animal ,an insect, etc. Inanimate objects are seldom used as subjects or agents except when they are personified or idiomatically used Ame ni hurareru is an example of an idiomatic construction.Further examples are:
Kono sinbun wa hiroku yomarete imasu.
This newspaper is widely read.
Kaze ni hukarete hana ga tirimasita.
Blown by the wind flowers have fallen.
Ano hito no namae wa yoku sirarete imasu.
His name is well known.
このように、『FLN』では、日本語と英語の受動表現の違いに着目しながら受身文を展開している。この方針は、Naoe NAGANUMA(1950)『Grammar & Glossary』及びNaoe NAGANUMA(1950)『BASIC JAPANESE COURSE』でも同様である。
また、『FLN』の大きな特色として、Substitution Tableと呼ばれる置換表をそれぞれの課に配置していることがあげられる。これは基本的なものから順に並べた文型練習用のテキストであることを示している(注2)。以下、41課の置換表と例文を示してみる。
Oziisan ni sikara- Syuzin ni tanoma- Hito ni warawa- Dorobo ni nusuma- Ame ni hura- |
-remasita. -reru desyo. -reso desu. -renaide kudasai. -retaku wa arimasen. |
1.Oziisan ni sikararemasita. I was scolded by grandfather.
2.Shuzin ni tanomaremasita. I was asked by the master.
3.Hito ni warawaremasita. I was laughed at by people.
4.Dorobo ni nusumaremasita. I was robbed by a robber.
5.Ame ni huraremasita. I was caught in the rain.
6.Oziisan ni sikarareru desyo. You will be scolded by grandfather.
7.Syuzin ni tanomareru desyo. You will be asked by the master.
8.Hito ni warawareru desyo. You will be laughed at by others.
9.Dorobo ni nusumareru desyo. You will be robbed by a robber.
10.Ame ni hurareru desyo. You will be caught in the rain.
- Oziisan ni sikarareso desu. We are likely to be scoled by grandfather.
- Syuzin ni tanomareso desu. We are likely to be asked by the master.
- Hito ni warawareso desu. We are likely to be laughed at by people.
- Dorobo ni nusumareso desu. We are likely to be robbed by a robber.
- Ame ni hurareso desu. We are likely to be caught in the rain.
- Oziisan ni sikararenaide kudasai. Please don’t get scolded by grandfather.
- Syuzin ni tanomarenaide kudasai. Please don’t be asked by the master.
- Hito ni warawarenaide kudasai. Please don’t be laughed at by people.
- Dorobo ni nusumarenaide kudasai. Please don’t be robbed by a robber.
- Ame ni hurarenaide kudasai. Please don’t be caught in the rain.
- Oziisan ni sikararetaku wa arimasen. I don’t want to be scoled by grandfather.
- Syuzin ni tanomaretaku wa arimasen. I don’t want to be asked by the master.
- Hito ni warawaretaku wa arimasen. I don’t want to be laughed at by others.
- Dorobo ni nusumaretaku wa arimasen. I don’t want to be robbed by a robber.
- Ame ni huraretaku wa arimasen. I don’t want to be caught in the rain.
これらの置換表の例のローマ字書きを漢字仮名交じり文に直すと、「おじいさんに叱られました」「主人に頼まれるでしょう」「人に笑われそうです」「泥棒に盗まれないでください」「雨に降られたくはありません」となり、次のことが指摘できる。
○「れる・られる」で受身を作る。
○受身はニ格で動作主を示す。
○受身表現と会話の「です・ます」表現、依頼表現、推量表現、意志表現を重視する。
○会話を扱っているので、受身文の主語を省略する。
○いずれも例文は、会話に多い迷惑の受身の例である。
42課の可能を扱っている課でも受身についての言及があり、可能動詞はpassive formとして扱い、非情の受身はめったに使わないことを示し、日本語特有の受身として自動詞の受身について述べ、それらは迷惑・被害の受身となっていることを以下のように述べている。
Dictionary form Passive form
taberu tabe-rareru
akeru ake-rareru
miru mi-rareru
kiru ki-rareru
Minasan ni homeraremasu.
He(or She) is praised by everybody.
However, as was mentioned already inanimate objects are seldom used as subjects are seldom used as subjects of passive sentences.In Japanese, even such a sentence as “This fish is eaten”sounds strange. “The book is opened”is practically impossible.
・・中略・・
One characteristic point of the Japanese passive which is totally different from English is that Japanese intransitive verbs can be made passive.In such a case it means that the subject of a sentence gets the effect or sesult of an action by another.
Watakusi wa okyaku ni koraremasita.
“I was come by a guest”is impossible in English, but the above is a perfectly good Japanese sentence. It means that I get the effect of a guest’s coming, hence “A guest came”(to my regret).
Kodomo ni nakarete komarimasita.
I was quite troubled by the child’crying.
Anokata wa okusanni sinarete komatte imasu.
He is quite troubled owing to his wife’death.
また、この42課では、以下のように受身は可能の意味を伴っているため、受身と可能の見分け方についても述べている。
The Japanese passive is often used in a potential sense. To be exact there is a form which denotes potentially, and this form happens to be the same as the passive. Therefore, we have to use our judgment in determing whether the form is passive or potential.
・・中略・・
Generally speaking, a potential sense is more usual in a sentence whose subject is inanimate.
また、45課では使役を扱い、以下のように使役受身について述べている。
In case the causative is to be used in a passive construction the passive element comes after.
Mazui mono wo tabe-sase-raremasita.
I was made to eat a tasteless thing.
Zuibun matase-raremasita.
I was made to wait a long while.
Takai mono wo kawase-raremasita.
I was made to buy an expensive thing.
このように受身動詞の項目で受身をすべて説明せずに、可能動詞の課で「自動詞の受身」「迷惑の受身」、使役動詞の課で「使役受身」について述べる方針をとっていることがわかる。Naoe NAGANUMA(1950)『Grammar & Glossary』は、『FLN』よりも整理された形で解説を施し、関正昭(1997)によると、長沼直兄の日本語教育文法の集大成とされ、日本語教科書の文法解説に大きな影響を与えたものであり、『FLN』とほぼ同内容であるが、迷惑・被害の受身については言及していない。また、Naoe NAGANUMA(1950)『BASIC JAPANESE COURSE』は、受身の文型を取り出して整理して並べたもので、細かい説明は省いてある。このように『FLN』は、1952年に『First Lessons in Japanese』と改題されて長沼直兄の著作としてもっとも長く使われたものの一つであり、長沼直兄の受身に関する捉え方を詳しく知るのにも適している。
2.長沼直兄の日本語教科書における受身の使用状況
長沼直兄(1931-1934)『標準日本語読本』を用い、受身の用例調査を行ったところ、次のようになった。表は用例数を示し、有は主語が有情、非は主語が非情であることを示す。
|
巻1 |
巻2 |
巻3 |
巻4 |
巻5 |
巻6 |
巻7 |
巻全体 |
主語表出 |
15 有9 非6 |
31 有7 非24 |
54 有18 非36 |
84 有13 非71 |
99 有26 非73 |
94 有19 非75 |
49 有31 非18 |
426 有123 非303 |
二格
|
5
|
1 |
11 |
10 |
14 |
8 |
8 |
57 |
ヲ格
|
2
|
7 |
6 |
6 |
20 |
13 |
5 |
59 |
カラ格
|
2
|
0 |
8 |
3 |
4 |
2 |
2 |
21 |
ニヨッテ格 |
0
|
2 |
2 |
4 |
4 |
2 |
2 |
16 |
自然的可能 |
0
|
7 |
6 |
14 |
4 |
7 |
5 |
43 |
用例数 |
16 |
47 |
79 |
109 |
127 |
115 |
67 |
560 |
(受身の例)
○直接受身
・部首はその位置によって分類され、それぞれに名称がある。(巻2)
・お前はわしに捨てられて却つて仕合せだな。(巻3)
○間接受身
・其処に碇泊してゐる中、土人にボートや船具を盗まれたので、マゼランは此処を泥棒群島と名付けた。(巻3)
・我々ハ暗夜ニ燈ヲ失ヒ、又ハ耳目ヲ奪ハレタ如ク感ズルデアラウ。(巻4)
○自動詞の受身
・丁度其の時飛下りて来た鳥が傷けられた虫をくちばしにくはへた。(巻3)
・うむ、困つた。あんな人に居られちや何も書けやしない。(巻3)
○持ち主の受身
・或時馬をぬすまれた人が別な馬を買いに馬市へ行きました。(巻1)
・而もその悉くが顔面と言はず手足と言はず癩病の為に懐しい我が家を追はれ、定住する所もなく、・・。(巻5)
○非情の受身
・斯クシテ帝国憲法ハ外国ノ例ニ見ルガ如キ何等ノ流血ヲ見ルコトナクシテ発布セラレ立憲政体トナツタ。(巻5)
・世界経済会議は昭和八年六月十二日午後三時厳かに開かれた。(巻6)
○自然的可能の受身
・其ノ記事ハヨク三面記事ト言ハレテ居ルケレドモ、・・。(巻4)
・昔或所に木上りの名人と言はれた人がありました。(巻5)
○使役受身
・家人の手から彼が何を受け取ったか知らないが、懸声と一緒にスパリと手が落ちる代わりに、其の大きな手には一円札がにぎらせられた。(巻2)
※使役受身が少ないのは、近代の特徴である「任ぜられる」「惑わされる」などのように、サ変や使役化している動詞に「らる」が多いためではないかと考えられる。
受身の意味的分類で一般に用いられる、「直接受身」「自動詞の受身」「持ち主の受身」「迷惑の受身」「非情の受身」「自然的可能の受身」「使役受身」といった一通りの受身文が出ている。また、動作主の格表示も表に掲げた「二格」「カラ格」「ニヨッテ格」以外にも、「デ」「ニテ」「ニヨリ・ニヨリテ」「ヲ以テ」「ヨリシテ」「ヨリ」「ノ為・ノ為ニ」といった多様な表現が出てくる(注3)。
受身文は、日本語のレベルが上がるほど用例数が多くなる傾向があるため、『標準日本語読本』は巻1の第一部が初級、第2部から巻2が中級・上級に該当するため、そこまでに一通りの受身の形は揃い、巻5までは、巻を追うごとに受身文が増加しているので、レベル別の意識がなされているといえる。巻6(文型練習中心)と巻7(手紙文中心)は、『再訂標準日本語教科書』の際には、再版されなかったものであり、巻5までで完結していると受身文の用例数からも考えることもできる。
また、近代文語文による漢文訓読調の漢字カタカナ交じり文では、受身の用例が頻出し、主語の表出率及び非情の受身の比率が高い(注4)。このことは、近代文語文による漢文訓読調の文章は、一種の翻訳日本語であることを反映していると考えてよいであろう。
3.長沼直兄に影響を与えた西洋人の研究と洋学者の受身記述
長沼直兄は、日本語教授法の面では音声を重視するパーマーの影響を受けていることは広く知られ、長沼直兄の論文やエッセイの中でも、たびたび紹介されているが、関正昭(1997)では、文法面において、「は」「が」「て」「た」等を取り上げ、長沼直兄は西洋人の日本語研究の影響が見られることを指摘している(注5)。そこで、主な西洋人による日本語研究の受身記述と、日本人の洋学者の受身記述とを比較してみることとする。
3.1西洋人の受身記述
西洋人の本格的な日本語研究は、ロドリゲスから始まり、チェンバレンで完成した形になるとされている(注6)。この流れは、受身記述をたどってもいえることである。以下に受身記述の箇所についてみていくこととする。
ロドリゲス
ロドリゲス(1604-1608)『日本大文典』では、「れ・られ」によってつくられる「受動動詞」という扱いをしており、動詞の接尾語として扱っている。また、動作主は奪格の「より」「から」「に」で示され、「より」や「に」で示される場合には上品になると説明している。また、「胸を討たるる」「手足を切られた」など、身体の一部を対象とした対格を取る動詞の種類も示し、対格は元の動詞のときにも存在していたもので、間接受身に気付いている記述をしている。自動詞を中性動詞とし、使役受身や受身使役の例もあげられている。
ロドリゲス(1620)『日本小文典』では、細かい受身の記述はなく、第一種活用の動詞には「られ」、第二種及び第三種活用の動詞には「れ」を伴って受動動詞になることを述べている。また、自動詞は受身になることに注目しており、自動詞を中性動詞としている(注7)。
これらロドリゲスの著作は、杉本つとむ(1989)によると、「1825(文政8)年、刊行に百年後に、フランスでランドレス、レミュザの両学者によって仏訳され、これによって、ヨーロッパにおける東洋語学者、日本語学者の間に一大福音旋風をおこすこととなった。」と述べており、幕末の西洋人の日本語研究家にとってロドリゲスの著作は、必読のものとなったことがわかる。
コリャード
コリャード(1625)『日本文典』では、受動動詞は「れ・られ」で作られることを述べ、受身動詞は可能の意味にも用いるとし、対応する自動詞は中性的意義を持つとする。また、使役動詞の箇所で「させられる」という、使役受身も扱っている。
杉本つとむ(1989)によれば、コリャードの『日本文典』には、ロドリゲスの日本文典を土台にしたことが書かれており、草稿はスペイン語で書かれていたが、刊本はラテン語で書かれていたために、19世紀の学者には読みやすく、利用価値が高かったと述べている。
ホフマン
ホフマン(1867-1868)『日本文典』では、受動動詞を三つに分類して、「れる・られる」の接続の違いを説明し、日本語では自動詞でも受動表現になり、日本語の受動表現はあからさまなものではなく、受動表現は潜在的に可能の要素を含むと述べている。また、「受動動詞の支配」という言い方をし、動作主は「に」「より」「から」「のために」で示し、対格は目的語として受動表現になってもとどまることを示している。
また、ホフマンの著作に先行するクルチウス(1857)『日本語文典例証』には、「動詞の受動形(ホフマンに依る説明)」とあり、同様の記述になっているが、受動表現は潜在的に可能の要素を含むことには触れられていない。
アストン
アストン(1872)『文語文典』では、自動詞と他動詞とに分け、「るる」「らるる」で受動動詞を作り、可能動詞にも通じる点と自動詞から受動動詞が作られる点を強調している。
アストン(1873)『口語文典』では、自動詞も受動表現になり、「れる」「られる」で受動動詞を作ることを述べている。また、英語の動作主の「by」を「に」に当てている。
ヘボン(1886)『和英語林集成 第三版』では、序の箇所に日本語の文法について述べられており、四段・五段活用の例を用いて、軽く受動動詞を表にして触れており、受動動詞は可能動詞の意味にもなるものとしている。
チェンバレン(1889)『日本口語文典』では、受身の動詞は対応する自動詞の能動態から得られるとし、第一活用、第二活用、第三活用から成り立ち、不規則動詞を別に扱っている。また、自動詞も受身にできることを述べ、動作主は「に」で示している。なお、受動態は可能態につながることも指摘し、対格の「ヲ」が目的語としてもとのまま残る文は習得が難しいことを述べ、直接目的語につく「ヲ」は注意する必要があるとしている。チェンバレンは日本語の自動詞に注目しており、使役動詞の箇所で使役受身についても扱っている。
チェンバレン(1889)『日本口語文典』では、「英語の受身の動詞の多くは、日本語の自動詞によって翻訳されるはずである。これはその考えが、必ずしも他の行為者の行為を意味しないときに起こる。・・中略・・日本語の受身構文の使用における嫌な点は、明白である。英語の受動態の十中八九は、日本語では今示したような自動詞、または主語のない能動態の構文に訳さなければならないのである。・・中略・・日本語には、一般に英語の受動態や、可能構文によって翻訳できる、多くの種類の動詞があるが、日本語の動詞自体が、正確に話すと、自動詞なのである。」と述べている。
このように西洋人の日本語研究では、受動動詞(受身動詞)は可能動詞の意味を含むという視点でとらえられている。そのため、長沼直兄の『FLN』において、受身については受身の課だけではなく、可能の課においても論じていることは、西洋人の日本語研究の影響と考えることができる。
3.2洋学者の受身記述
国学者の先行研究を幕末の西洋人の日本語研究家は参照したことについては、古田東朔(1977)が論じている。一方で、国学者と洋学者という立場の違いも存在する。そこで、日本の洋学者の受身記述をみてみることとする。明治前期の洋風文典として古田東朔(2002)の指摘する、田中義廉、中根淑、物集高見に加えて、鶴峰戊申、馬場辰猪についてみてみる。
鶴峰戊申
鶴峰戊申(1833)『語学新書』は蘭文典に依ったもので「現在格」の箇所次のように述べている。
格なるをながるゝといふことは、る居ながらにして、みづからを受くる辞となる也。・・〈中略〉・・れるもるると同格なり。
またふるくはるを延てらくと言へり。・・〈中略〉・・見らくすくなくこふらくのおほきなど。
また万五、又十五などに泣るをなかゆといひ、同二十などに厭れをいとはえといへるなどはみな古語也。
ここでは、動詞の語尾としての「る」と助動詞としての「る」「れる」を、古典の例では区別しているが、口語では区別しないで、同じものとして扱っている。
馬場辰猪
馬場辰猪(1873)『An elementary grammar of the Japanese language』は英文典に依ったもので、受身はActive Voice に対するPassive Voice としており、可能の意味にもなっていることを指摘しており、西洋人の視点に近いことがわかる。
田中義廉
田中義廉(1874)『小学日本文典』は蘭文典に依ったもので、以下のように助動詞として扱っている。
生徒ガ教師ニ教ヘラル 木ガ風ニ倒サル などいふときは、生徒及び木は、教師及び風の作動を受くるを以て、これを受動といふなり。他動詞の能動は、本然の形を変することなし。其受動は、ル(被、此詞は有の受動形なり)ラル(有被の約言)なる助動詞と結合す。・・〈中略〉・・ここにル ラル スなる詞は、動詞に結合して、恰も語尾の如くなれども、其実は助動詞にして、他の語尾と全く異れり。
物集高見(年次不詳)『日本文語』はは蘭文典に依ったもので、「作用言」として、他動・自動・対動(他動にも自動にも用い物にはたらきかけるもの)・通動(自動にも他動にも用いるもの)・受動の五つをあげ、「受動について」以下のように述べている。
自他、両性の、能動尾辞のらるを加尾せらるるに依りて成る者なり。されば、直接、間接の両態ありて、直接は、直に、其の業作の、其の人に帰する者にして、間接は、其の業作の他者に帰する者なり。・・中略・・また、受動は、専ら、他動より来たると雖も、自動も、対動に用ひられたるは、間接の態にては見はるるなり。
このように、動詞の語尾としてとらえており、直接受身と間接受身にわけ、自動詞の受身を間接受身としていることがわかる。
中根淑
中根淑(1876)『日本文典』は英文典に依ったもので、受身の「る・らる」は主客が変化すると考えて、以下のように動詞の語尾として扱い「逆用動詞」としている。
逆用動詞ノ例ヲ挙ゲテ云ハバ、余人ニ頼マル・人余ニ導カル・ト云フ類ニテ、前文ハ主ノ余ガ客ノ人ヨリ働キヲ受ケ、後文ハ主ノ人ガ客ヨリ働キヲ受クルノ故、共ニ之ヲ逆用動詞トスルナリ。
このように明治前期の洋風文典においては、「る・らる」「れる・られる」を動詞の語尾とするものと助動詞とするものとがあることがわかる。国学の系統とロドリゲス以降の西洋人の日本語研究では、「る」「らる」を動詞の語尾として扱ってきた。
このような流れの中で、大槻文彦(1897)が助動詞とし、Voiceを「相」と訳し、受身を「所相」、可能を「勢相」と訳すことで、方向性を決定づけた。この大槻文彦(1897)の考えが学校文法に取り入れられることとなり、主流となったといわれている(注8)。
斉木美知世・鷲尾龍一(2012)では、助動詞という概念を用いたことは日本的な発想であり、Voiceを動詞の形態によらずに、相として助動詞として説明するのがよいと大槻文彦は判断したためであるとしている。
このように長沼直兄と西洋人の日本語研究家、国学者の捉え方を考慮すると、日本語教育の場合には、TSUKUBA LANGUAGE GROUP(1991-1992)『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE VOLUME1-3』(以下略称、『SFJ』)のように、積極的に「受動動詞」「使役動詞」として一語化で扱った日本語教科書も学習の上では効果的であるといえる。
結び
以上述べたことから、結びとしてまとめてみる。
1.長沼直兄の日本語教科書受身記述の特徴
○「れる・られる」で受身を作ると述べる。
○受身はニ格で動作主を示すとする。
○受身表現と会話の「です・ます」表現、依頼表現、推量表現、意志表現を重視する。
○会話を扱っているので、受身文の主語を省略する。
○いずれも会話に多い迷惑の受身の例である。
○非情の受身や動作主が非情物は、日本語本来の表現ではないとする。
○可能動詞の課で「自動詞の受身」「迷惑の受身」、使役動詞の課で「使役受身」を扱っている。
○受身動詞には可能動詞の意味を含むとしている。
- 長沼直兄の日本語教科書における受身の使用状況
○巻1から巻5は一つの完結したものと考えられ、文章のレベル別の意識が十分にあらわれている。
○受身の多様な形があらわれており、十分に学習することができる。
○近代文語文による漢文訓読調の文では、受身の用例が頻出し、主語の表出率及び非情の受身の比率が高く、一種の翻訳日本語であることを反映していると考えてよい。
- 長沼直兄に影響を与えた西洋人の研究と洋学者の受身記述
○ロドリゲスからチェンバレンまで、先行研究を積み上げる形で記述されていることがわかる。共通項として、動詞を接尾語として扱い「受動動詞(受身動詞)」とし、可能動詞とつながるものととらえ、自動詞から受身が作られ、対格(直接目的語)の存在に注意していることがわかる。これらの発想は、伝統的な国語学の流れも考慮しながら、長沼直兄の日本語の受身記述にも生かされている。
○日本の国学者と西洋人の日本語研究との共通点として、「る・らる」「れる・られる」を接尾語として扱い、動詞の一部に組み入れて考えることがあげられる。一方、日本の洋学者は「る・らる」「れる・られる」を助動詞として扱ったり、扱わなかったりとさまざまなであり、大槻文彦が学校文法で助動詞とする流れを作ったが、諸説あり、議論の残るところである。むしろ、日本語教育の場合には、『SFJ』のように、積極的に「受動動詞」「使役動詞」として一語化で扱った日本語教科書も学習の上では効果的であるといえる。
注
1
丸山敬介(1997)は、『標準日本語読本』(1931-1934)は7巻から成り、巻1から巻7までを、「巻1の第1部は初級レベル、巻1の第二部は中級レベル、巻2は中級後半から上級レベル、巻3から巻7では生のものを扱っている」と述べている。また、平高史也(1997)は、「巻1から巻7までの7巻で、初級から超上級(巻5、巻6に見られる古文の読み方、巻7に収められている手紙文の書き方などは日本語母語話者に対してでも使えそうである)を扱っている」と述べている。なお、『改訂標準日本語読本』(1948)では、巻8に「漢文の初歩」「平易な古文」「高級な口語」を入れ8巻から成り、『再訂標準日本語読本』(1964-1967)では巻1から巻5までの5巻にしている。このことについて、丸山敬介(1997)は、「超上級段階の学習者の少なさから再訂は巻5までにとどまっている」と述べている。
2
河路由佳(2010)は、『FLN』について、「長沼直兄(1894-1973)の著作の中でも最も長く使われたものの一つである。今日では行動主義や構造主義によって理論的に裏付けられるSubstitution Table(置換表)を主として構成された教材で、長沼直兄は、同じ方法を英語教育に応用した教材も作成している。Substitution Tableは、長沼直兄がその外国語教育に従事した初めに強い印象を受け、生涯にわたってその日本語教育の実践に活用し続けたものであった。」と述べている。また、長沼直兄が大きな影響を受けたとされるH.E.Palmer(1936)の著作でも置換表が採用されている。
3
|
巻1 |
巻2 |
巻3 |
巻4 |
巻5 |
巻6 |
巻7 |
巻全体 |
ニヨリ(テ) |
0 |
0 |
0 |
3 |
0 |
3 |
0 |
6 |
ノ為(ニ) |
0 |
0 |
3 |
1 |
2 |
2 |
2 |
10 |
デ
|
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
2 |
ニテ
|
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1 |
ヲ以テ
|
0 |
0 |
0 |
1 |
1 |
1 |
0 |
3 |
ヨリシテ |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
1 |
ヨリ
|
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
2 |
0 |
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※このように動作主の格表示が多様な日本語教科書は、現代ではみられないものである。管見に入るかぎり、近代でもこれほど動作主の格表示の多様な日本語教科書はみられない。このことは、近代文語文を始めとする様々な文章を収めているためであると考えることができる。
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近代文語文による漢文訓読調の漢字片仮名交じり文は、『標準日本語読本』の巻1から巻7の全体の用例数として80例あり、主語の表出は73例(有情11例・非情69例)で、格表示は、ニ格4例・ヲ格9例・ニヨッテ格3例・カラ格1例・自然的可能1例である。また、ノ為(ニ)1例・デ0例・ニテ0例・ヲ以テ2例・ヨリシテ1例・ヨリ0例である。
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関正昭(1997)は、以下のように今日の日本語教育文法に至る流れを以下のように5つにまとめている。
- 16‐17世紀のロドリゲス、幕末・明治期のホフマン、S.R.ブラウン、アストン、サトウ、チェンバレンら外国人日本語研究家の文法
- 中国からの留学生のために、松下大三郎・松本亀次郎らが考案された文法
- 旧植民地・占領地に対する日本語普及のための教材開発の一環として考案された文法
- 戦前自ら開発した教科書シリーズとそのグラマーノートが大戦下のアメリカに大々的に用いられ、世界的に広まった長沼直兄の文法(その文法は戦後初期に集大成され、戦後の「日本語教育文法」の基幹となった)
- ③を継承して戦後の日本語教育への橋渡しをし、同じく戦後の「日本語教育文法」の基盤作りをした鈴木忍の文法678「この中で、「す・さす」と「る・らる」の類を「助動詞」に含めたことは、以後問題とされる。山田孝雄や橋本進吉も、この類が他の類のものとは異なったものであることを指摘し、時枝誠記は、「助動詞」から除外し、接尾語として扱う。(江戸期の他の国学者たちも、これらの付いた動詞を一語として扱うのが普通であったし、幕末から明治へかけての外国人の日本語研究者たちも、その付いたものをcausative verb あるいは potential(passive) verb などとするのが普通であった。)」 アストン(1872)『文語文典』京都大学法学部図書室蔵[テキストは李長波編(2010)『近代日本語教科書選集 第9巻』クロスカルチャー出版]H.E.Palmer(1936)『Conversational English(英会話の理論と実際)』開拓社大槻文彦(1897)『廣日本文典』[テキストは復刻版(1980)『廣日本文典・同別記』勉誠社]河路由佳(2008)「長沼直兄らによる戦後早期の日本語教育のための調査研究-1945-1946年「日本語教育振興会」から「言語文化研究所」へ(その2)」『日本語教育研究』第53号河路由佳(2011)「1942年・1943年における長沼直兄の出版計画-「重要文書」と書かれた長沼直兄自筆ノートより-」『日本語教育研究』第57号クルチウス(1857)『日本語文典例証』[テキストは三澤光博訳(1971)『クルチウス 日本文典例証』明治書院]斉木美知世・鷲尾龍一(2012)『日本文法の系譜学-国語学史と言語学史の接点-』開拓社杉本つとむ(1989)『西洋人の日本語発見』創拓社[杉本つとむ(2008)『西洋人の日本語発見』講談社学術文庫に再収録]鈴木泰・清水康行・古田啓(2010b)『古田東朔 近現代日本語生成史コレクション 第4巻』くろしお出版田中義廉(1874)『小学日本文典』東京書林TSUKUBA LANGUAGE GROUP(1991-1992)『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE VOLUME1-3』凡人社土井忠生・森田武・長南実(1980)「解題」『邦訳日葡辞書』岩波書店Naoe NAGANUMA(1950)『Grammar & Glossary』開拓社長沼直兄(1931-1934)『標準日本語読本』財団法人言語文化研究所長谷川恒雄(1997)「長沼直兄著『標準日本語読本』に至るまでの途」『(財)言語文化研究所日本語教育叢書 復刻シリーズ第一回 解説』(財)言語文化研究所平高史也(1997)「教授法の面から」『(財)言語文化研究所日本語教育叢書 復刻シリーズ第一回 解説』(財)言語文化研究所古田東朔(1971)「ホフマンとヘボンの相互影響」『蘭学資料研究会 研究報告』第252号古田東朔(1977)「ホフマンの『日蘭辞典』『日英辞典』」『国語学』108集古田東朔(1978b)「ホフマン『日本文典』の刊行年について」『国語国文論集』第7号古田東朔(2002)「明治前期の洋風日本文典」『国語と国文学』第79巻第8号ホフマン(1867-1868)『日本語文典』[テキストは三沢光博訳(1910)『日本語文典』明治書院]物集高見(年次不詳)『日本文語』[テキストは物集高量(1935)『物集高見全集 第三巻』物集高見全集編纂会]ロドリゲス(1620)『日本小文典』[テキストは日埜博司編訳(1993)『日本小文典』新人物往来社]
- ロドリゲス(1604-1608)『日本大文典』[テキストは土井忠夫訳(1955)『日本大文典』三省堂]
- 丸山敬介(1997)「構成とシラバスの点から見た『標準日本語読本』」『(財)言語文化研究所日本語教育叢書 復刻シリーズ第一回 解説』(財)言語文化研究所
- ヘボン(1886)『和英語林集成 第三版』三省堂[テキストは講談社学術文庫版]
- 古田東朔(1981)「大槻文彦の文法」『月刊言語』第10巻第1号
- 古田東朔(1978a)「アストンの日本文法研究」『国語と国文学』第55巻第8号
- 古田東朔(1974)「アストンの敬語研究-人称との関連について」『国語学』第96集
- 古田東朔(1958)「日本に及ぼした洋文典の影響-特に明治前期における」『文芸と思想』第16号
- 馬場辰猪(1873)『An elementary grammar of the Japanese language』[テキストは李長波編(2010)『近代日本語教科書選集 第1巻』クロスカルチャー出版]
- 中根淑(1876)『日本文典』森屋治兵衛版
- Naoe NAGANUMA(1950)『BASIC JAPANESE COURSE』開拓社
- N.NAGANUMA(1945)『FIRST LESSONS IN NIPPONGO』開拓社
- 鶴峰戊申(1833)『語学新書』[テキストは福井久蔵編(1938)『国語学大系』図書刊行会]
- チェンバレン(1889)『日本口語文典』[テキストは丸山和雄・岩崎攝子訳(1999)『日本口語文典』おうふう]
- 関正昭(1997)「日本語教育文法の流れ-戦前・戦中・戦後初期-」『(財)言語文化研究所日本語教育叢書 復刻シリーズ第一回 解説』(財)言語文化研究所
- 鈴木泰・清水康行・古田啓(2010a)『古田東朔 近現代日本語生成史コレクション 第3巻』くろし出版
- 財団法人 言語文化研究所(1981)『長沼直兄と日本語教育』開拓社
- コリャード(1625)『日本文典』[テキストは大塚高信訳(1957)『日本文典』風間書房]
- 河路由佳(2012)「長沼直兄の戦前・戦中・戦後-激動の時代を貫いた言語教育者としての信念を考える-」『日本語教育研究』第58号
- 河路由佳(2010)「長沼直兄(1945)『FIRST LESSONS IN NIPPONGO』の成立と展開-長沼直兄の戦中・戦後-」『東京外国語大学論集』81号
- 河路由佳(2007)「長沼直兄による敗戦直後の日本語教師養成講座-1945年度後半・「日本語教育振興会」から「言語文化研究所」へ」『日本語教育研究』第52号
- H.E.パーマー、野田育成訳(1989)『言語学習の原理』リーベル出版
- アストン(1873)『口語文典』京都大学法学部図書室蔵[テキストは李長波編(2010)『近代日本語教科書選集 第9巻』クロスカルチャー出版]
- 参考文献
- 古田東朔(1981)では、「る・らる」「す・さす」について次のように指摘している。
- 土井忠生・森田武・長南実(1980)は、「日葡辞書で能動動詞または受動動詞と注記したものは、前記“敷カルル”以外はすべて同一語根の他動詞と自動詞とを関連づけて説いたものである。その部類の自動詞を他動詞の受動態ということは日本語に合わないので、ロドリゲスは中性動詞として受動動詞からは切り離して取り扱った。しかし一般には、これら自動詞も葡語では他動詞の受動態に訳されるところから、受動動詞と呼んでいたので、日葡辞書の編者たちがそれを踏襲したのである。」と述べている。
- 古田東朔(1977)は、明治末期までの外国人の日本語研究を、第一期をロドリゲス、第二期をホフマン、第三期をヘボンとアストンの三期に分けている。これらは思弁的な方法や実際的な方法の差になってあらわれているとしている。古田東朔(1977)では、アストンはホフマンの研究や日本人の国学者の先行研究を参照しているため、高く評価している。また、杉本つとむ(1989)は、ホフマンは遣欧使節をライデンに迎え生きた日本語を耳にし、さらにはシーボルトとホフマンの出逢いにより、ホフマンはシーボルトの弟子となり、その才能を開花させ、収集資料を十分に活用させたとして、ホフマンを中心とする論を展開している。
- このうち、①のS.R.ブラウンとアーネスト・サトウは、受身についての詳細を示していないため、本稿では取りあげなかった。また、③と⑤の国際学友会の日本語教科書は、長沼直兄の日本語教科書と双璧をなすものであるが、その比較・考察は、今後の課題としたい。